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第四章
しおりを挟む三か月後、王都は歓喜に包まれていた。
街のあちこちに「勝利」と書かれた赤い幟がはためき、「英雄万歳」の横断幕が通りを彩っている。
石畳の道には花びらが撒かれ、子供たちが木の剣を振り回しながら、魔物退治ごっこに興じていた。
パン屋の店先では、「銀月の魔導士パン」なる銀色のアイシングがかかった菓子パンが飛ぶように売れている。
北から押し寄せた魔物の大群を、たった一人の魔導士が退けたという報せは、瞬く間に王国中に広まった。
しかも、その魔導士は、千年前の大魔導士エレアノールの再来とまで言われているという。
酒場では吟遊詩人たちが競うように英雄譚を歌い、市場では商人たちが「英雄のお守り」と称して銀色の石を売っていた。
今夜、王城では国王主催の祝賀舞踏会が開かれることになった。
王国中の貴族という貴族が招待され、誰もがその英雄の正体を一目見ようと詰めかけていた。
王城の大広間は、まさに光の海だった。
天井から吊るされた五基の巨大シャンデリアには千本を超える蝋燭が灯され、
その光がクリスタルに反射し、
まるで星空を室内に再現したかのような幻想的な空間を作り出していた。
壁には金糸で刺繍された王家の紋章入りタペストリーが掛けられ、
床は磨き上げられた白大理石が鏡のように人々の姿を映している。
巨大な窓からは月光が差し込み、シャンデリアの光と混ざり合って、神秘的な輝きを放っていた。
「ねえ、聞いた? ヴァンドール侯爵家、もう破産寸前らしいわよ」
扇子で口元を隠しながら、エメラルドグリーンのドレスを着た伯爵夫人が囁いた。
その声には、隠しきれない好奇心と、少しの優越感が滲んでいる。
「まあ、三か月前まであんなに羽振りが良かったのに」
隣にいた子爵夫人が目を丸くした。真珠のネックレスが、驚きの動作で揺れる。
「王室御用達の看板まで持っていたのに、今では借金取りに追われているらしいわ」
「フィオーレ男爵家との婚約を破棄してから、運が逃げたのかしら」
「それにしても、あの婚約破棄の仕方は酷かったって聞いたわ。公衆の面前で『平凡な男爵令嬢』呼ばわりしたんですって?」
「因果応報ってやつかしらね」
貴族たちの噂話が蜂の羽音のように飛び交う中、会場の隅で一人の男が俯いていた。
カルロス・ヴァンドールは、疲れ果てた顔で壁に寄りかかっていた。
かつては最新流行だった燕尾服も、今ではくたびれて型崩れしている。
袖口は擦り切れ、かつて誇らしげに輝いていた金のボタンも、今は曇って光を失っていた。
綺麗に整えられていた茶色の髪は、手入れが行き届かずぼさぼさで、頬はこけ、目の下には深い隈ができている。
(どうしてこうなった……三か月前は、全てが順調だったのに)
震える手でワイングラスを握る。
かつては最高級のワインしか口にしなかった彼が、今では王宮で飲める葡萄酒すら贅沢品だった。
セレスティアにも捨てられた。
財産が底をつき始めた途端、「こんな甲斐性なしとは知らなかった」と吐き捨てて去っていった。
今では別の侯爵家の御曹司と婚約したという噂も耳にしている。
(今日が最後の社交界かもしれない……明日には爵位剥奪の通達が)
その時、ファンファーレが高らかに鳴り響いた。
金色の制服を着た近衛兵が、槍を床に打ち鳴らす。
その音が、大広間に荘厳に響き渡った。
「陛下のお成り!」
全員が一斉に頭を下げる。
サラサラと絹のドレスが擦れる音が、波のように広がった。
白髪に黄金の冠を戴いた老王が、赤いベルベットのマントを翻しながら入場した。
その歩みは年齢を感じさせない力強さがあり、青い瞳には叡智の光が宿っている。
「諸君、今日は特別な日だ」
国王の声が、魔法で増幅されて大広間の隅々まで届いた。
「我が王国を救った英雄を紹介しよう。諸君も聞いているだろう。北の要塞に十万の魔物が押し寄せ、我が軍も壊滅寸前だった」
貴族たちが固唾を呑んで聞き入る。
「だが、一人の魔導士が現れ、たった一夜で魔物の軍勢を退けたのだ」
大扉がゆっくりと開かれ始めた。
蝶番が軋む音さえも、この瞬間は神聖な音楽のように聞こえる。
全員の視線が、扉の向こうに注がれた。
そこに現れたのは――
ガシャン!
カルロスは、手にしていたワイングラスを取り落とした。
ガラスが大理石の床に落ちて粉々に砕け、赤いワインが血のように広がった。
しかし、誰もその音を気に留めなかった。
全員の視線が、入口に立つ一人の女性に釘付けになっていたから。
銀の髪を複雑に結い上げ、月光のような輝きを放つ髪飾りで留められている。
紫のドレスは最高級の絹で仕立てられ、胸元から裾にかけて銀糸で月と星の刺繍が施されていた。そ
の刺繍は魔法がかけられているのか、微かに光を放ち、まるで本物の星空を纏っているかのようだった。
エレナ・フィオーレ。
(嘘だ……これが、あのエレナ?)
以前の地味で控えめな印象は微塵もない。
まるで月の女神が地上に降り立ったかのような、神々しいまでの美しさを放っている。
歩くたびに、ドレスの裾が優雅に翻り、床に映る彼女の姿もまた幻想的だった。
「エレナ・フィオーレ嬢だ」
国王が高らかに宣言した。
「彼女こそが、古代魔法『運命の紡ぎ手』と『銀月の結界』を使い、魔物の軍勢を退けた英雄だ」
会場がどよめいた。
「フィオーレ?」
「あの男爵家の?」
「カルロスが捨てた?」
囁き声が渦のように広がっていく。
カルロスは膝から崩れ落ちそうになった。
慌てて壁に手をついて身体を支える。
(エレナが……あの平凡な男爵令嬢が……魔力もないと言っていたのに……)
頭の中が真っ白になり、過去の記憶が走馬灯のように蘇る。
『君には魔力もない』
自分が吐いた言葉が、今になって鋭い刃となって突き刺さった。
「三日前の戦いを見た者もいるだろう」
国王が続けた。
「夜空を銀の光が覆い、まるで巨大な月が地上に降りたかのような光景だったという。その光に触れた魔物は、次々と浄化されて消えていった。さらに」
国王が杖を掲げた。
「古文書を調べた結果、フィオーレ家は千年前の大魔導士エレアノールの直系であることが判明した。王国の隠された至宝だったのだ」
再び会場がざわめいた。
貴族たちの視線が、エレナとカルロスの間を行き来する。
「よって、その功績を称え、特別に侯爵位を授けることにした」
国王が剣を抜き、エレナの肩に軽く当てる。
エレナは優雅に膝を折り、頭を下げた。
その所作は完璧で、まるで生まれながらの高位貴族のようだった。
「立て、フィオーレ侯爵」
エレナが立ち上がると、万雷の拍手が湧き起こった。
その音は大広間に響き渡る。
彼女の隣には、レオンハルト・アステリアが立っていた。
黒い燕尾服に身を包んでいる。
深い青の瞳でエレナを見つめる表情には、深い愛情と誇りが滲んでいた。
「もう一つ発表があります」
レオンハルトが一歩前に出た。
その瞬間、令嬢たちからため息が漏れる。
「私、レオンハルト・アステリアは、エレナ・フィオーレ侯爵に求婚し、承諾をいただいた」
再び会場がざわめいた。
(アステリア公爵が!)
(あの氷の貴公子が!)
(ついに結婚を!)
公爵家と、新たに侯爵となったフィオーレ家の婚約。
これ以上ない良縁だった。
カルロスは震える足で、群衆をかき分けて前に進み出た。
「エ、エレナ」
声は掠れ、震えていた。
エレナがゆっくりと振り返った。
紫の瞳が、無感情にカルロスを見る。
その瞳に、もはや一片の情もなかった。
まるで、道端の石ころを見るような目だった。
「どちら様でしょうか」
その一言が、カルロスの胸を鋭く貫いた。
「私だ、カルロスだ」
「ああ」エレナは小さく頷いた。「ヴァンドール侯爵家の」
(覚えていてくれた……)
一瞬の希望が芽生えたが、次の言葉で打ち砕かれた。
「お久しぶりですわね。三か月前の、あの舞踏会以来でしょうか」
エレナの声は、まるで遠い昔の知人に会ったかのような、よそよそしい口調だった。
「頼む、もう一度やり直させてくれ」
カルロスは周囲の視線も気にせず、その場に膝をついた。
燕尾服の膝が、大理石の床に当たる。
(プライドなんてどうだっていい。エレナさえ、彼女さえ戻ってくれれば!)
「私が間違っていた。君を失ってから、全てが狂った」
涙が頬を伝い落ちる。みっともないと分かっていても、止められなかった。
「君が支えてくれていたんだと、今なら分かる。君の知恵、君の力、全てが私を助けていた」
周囲の貴族たちが、ひそひそと囁き合う。
軽蔑と憐憫の視線が、針のようにカルロスに突き刺さる。
「あら」
エレナの声は、氷のように冷たかった。
「でも私は、平凡な男爵令嬢でしたでしょう?」
「違う、私が愚かだった」
カルロスは額を床につけた。土下座。侯爵家の嫡男が、公衆の面前で。
「魔力もない、家柄も釣り合わない。三年も付き合ってやったと。そう仰ったのはカルロス様です」
一言一言が、鞭のようにカルロスを打った。
「お願いだ、エレナ。もう一度」
「カルロス様」
エレナは静かに言った。
その声には、怒りも憎しみもない。
完璧な無関心があるだけだった。
「三年間、私は誠心誠意お仕えしました。陰から支え、あなたの成功を演出しました。でも、あなたは私の価値を理解しなかった」
レオンハルトが一歩前に出た。
「カルロス殿。みっともない。立ちたまえ」
その声には、憐れみと軽蔑が混じっていた。
「う、うるさい! これは私とエレナの話だ! 横から割り込むなど、貴様の方が無礼であろう!」
「いいえ」
エレナが遮った。
「もう、私たちの間には何もありません」
エレナは一歩、カルロスから離れた。
「あなたはセレスティア嬢をお選びになった。公爵令嬢で、炎の魔法の使い手。私より相応しいと仰って」
「セレスティアは私を捨てた! 財産が無くなった途端に!」
カルロスの叫びが、虚しく響く。
「それがあなたの選んだ方の本性だったということですわ」
エレナは踵を返した。紫のドレスが、優雅に翻る。
「表面的な価値しか見ない人に、真実の宝は掴めません」
「待ってくれ、エレナ!」
カルロスが手を伸ばしたが、レオンハルトがその前に立ちはだかった。
「もう十分だろう」
レオンハルトがエレナの手を取り、優しくエスコートする。
エレナの手が、レオンハルトの腕に自然に添えられる。
その姿は、完璧に釣り合った一対の男女だった。
「さようなら、カルロス様」
エレナは振り返らずに言った。
「二度と、私の前に現れないでください」
二人が歩み去る。
貴族たちが道を開け、まるで凱旋する英雄を見送るかのように、拍手を送った。
残されたカルロスは、ただ呆然と二人の背中を見送った。
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