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第三章
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公爵が低い声で呟いた。その声は静かだったが、不思議なほど明瞭に私の耳に届いた。周囲の貴族たちが、興味津々といった様子で私たちを見つめているのが視界の端に映る。
しかし公爵は、それ以上何も言わず視線を外すと、悠然と王族の席へと向かっていった。その背中を見送りながら、私は漸く凍りついていた体を解放される。
顔を上げ、深く息をついた。心臓が激しく鳴っている。胸の内側から響く鼓動が、自分でも驚くほど大きい。手のひらには、知らず知らずのうちに汗が滲んでいた。あの一瞬の視線に、なぜこんなにも動揺しているのか分からない。ただ、あの灰色の瞳の中に、何か――何か特別な意味があったような気がしてならなかった。
「セレスティーナ、今すぐ帰りなさい」
公爵が遠ざかったのを見計らったように、叔父が私の腕を掴んだ。その力は痛いほど強く、装飾の施された袖越しでも、指が食い込む感触がはっきりと分かる。叔父の顔は怒りと焦りで紅潮し、額には汗が浮かんでいた。
「お断りします。私には、ここにいる権利があります」
私は叔父の目を真っ直ぐ見つめて答えた。十年間、この男の機嫌を伺いながら生きてきた。しかし今夜は違う。この場所で、私は堂々とローレンス家の令嬢として存在する権利がある。母の形見のドレスが、まるで私に勇気を与えてくれているかのようだった。
「生意気な――」
叔父が手を振り上げた。その動作は、私が物置部屋で何度も見てきた光景だった。しかしここは王宮の大広間。周囲には何十人もの貴族が見ている。それでも叔父は、長年の癖から手を上げてしまったのだ。
私は思わず目を閉じ、身を固くした。
瞬間、誰かがその手首を掴む音が聞こえた。
「公の場で、令嬢に手を上げるおつもりですか、ローレンス子爵」
目を開けると、そこには燃えるような赤い髪の青年が立っていた。緑の瞳が、怒りに燃えている。その登場はまるで、舞台に現れた英雄のように劇的だった。周囲からざわめきが起こり、何人かの令嬢たちが小さく息を呑む音が聞こえた。
「これは......マクレガー侯爵」
叔父が慌てて手を引っ込めた。その顔から血の気が引いている。権力者の前では、叔父もただの小心者に過ぎないのだ。
ライアン・マクレガー侯爵。ヴィルフォール公爵の右腕として知られる若き貴族だ。普段は人当たりの良い好青年だが、正義感が強く、理不尽な行為を許さないと評判だった。社交界でも人気が高く、特に若い令嬢たちの憧れの的だと聞いたことがある。
侯爵は叔父から手を離すと、私の方へ向き直った。先ほどまでの厳しい表情が一転し、優しい笑みを浮かべている。
「セレスティーナ様、お怪我はありませんか?」
ライアンが優しく尋ねた。その声色には、本当に私を心配してくれている温かさが感じられた。
「はい、大丈夫です。ありがとうございます」
私は安堵と感謝を込めて答えた。もし彼が助けに入ってくれなければ、この場で大きな醜聞になっていただろう。
「それは良かった」
ライアンは安心したように微笑むと、周囲を見渡した。多くの視線が私たちに注がれている。そして次の瞬間、彼は優雅な仕草で私に向き直った。
「ところで、一曲踊っていただけませんか?こんな美しい令嬢を放っておくなんて、この国の男性陣は何をしているのか」
彼は優雅に手を差し伸べた。その手は、騎士のように力強くもあり、紳士のように優美でもあった。周囲から感嘆の声が上がる。特に若い令嬢たちの羨望の視線が、針のように私に刺さってくるのが分かった。マクレガー侯爵から踊りを申し込まれるなど、多くの令嬢にとって夢のような話なのだ。
私は一瞬躊躇したが、この機会を逃すわけにはいかない。ここで断れば、叔父に引きずられて連れ帰られてしまうだろう。
しかし公爵は、それ以上何も言わず視線を外すと、悠然と王族の席へと向かっていった。その背中を見送りながら、私は漸く凍りついていた体を解放される。
顔を上げ、深く息をついた。心臓が激しく鳴っている。胸の内側から響く鼓動が、自分でも驚くほど大きい。手のひらには、知らず知らずのうちに汗が滲んでいた。あの一瞬の視線に、なぜこんなにも動揺しているのか分からない。ただ、あの灰色の瞳の中に、何か――何か特別な意味があったような気がしてならなかった。
「セレスティーナ、今すぐ帰りなさい」
公爵が遠ざかったのを見計らったように、叔父が私の腕を掴んだ。その力は痛いほど強く、装飾の施された袖越しでも、指が食い込む感触がはっきりと分かる。叔父の顔は怒りと焦りで紅潮し、額には汗が浮かんでいた。
「お断りします。私には、ここにいる権利があります」
私は叔父の目を真っ直ぐ見つめて答えた。十年間、この男の機嫌を伺いながら生きてきた。しかし今夜は違う。この場所で、私は堂々とローレンス家の令嬢として存在する権利がある。母の形見のドレスが、まるで私に勇気を与えてくれているかのようだった。
「生意気な――」
叔父が手を振り上げた。その動作は、私が物置部屋で何度も見てきた光景だった。しかしここは王宮の大広間。周囲には何十人もの貴族が見ている。それでも叔父は、長年の癖から手を上げてしまったのだ。
私は思わず目を閉じ、身を固くした。
瞬間、誰かがその手首を掴む音が聞こえた。
「公の場で、令嬢に手を上げるおつもりですか、ローレンス子爵」
目を開けると、そこには燃えるような赤い髪の青年が立っていた。緑の瞳が、怒りに燃えている。その登場はまるで、舞台に現れた英雄のように劇的だった。周囲からざわめきが起こり、何人かの令嬢たちが小さく息を呑む音が聞こえた。
「これは......マクレガー侯爵」
叔父が慌てて手を引っ込めた。その顔から血の気が引いている。権力者の前では、叔父もただの小心者に過ぎないのだ。
ライアン・マクレガー侯爵。ヴィルフォール公爵の右腕として知られる若き貴族だ。普段は人当たりの良い好青年だが、正義感が強く、理不尽な行為を許さないと評判だった。社交界でも人気が高く、特に若い令嬢たちの憧れの的だと聞いたことがある。
侯爵は叔父から手を離すと、私の方へ向き直った。先ほどまでの厳しい表情が一転し、優しい笑みを浮かべている。
「セレスティーナ様、お怪我はありませんか?」
ライアンが優しく尋ねた。その声色には、本当に私を心配してくれている温かさが感じられた。
「はい、大丈夫です。ありがとうございます」
私は安堵と感謝を込めて答えた。もし彼が助けに入ってくれなければ、この場で大きな醜聞になっていただろう。
「それは良かった」
ライアンは安心したように微笑むと、周囲を見渡した。多くの視線が私たちに注がれている。そして次の瞬間、彼は優雅な仕草で私に向き直った。
「ところで、一曲踊っていただけませんか?こんな美しい令嬢を放っておくなんて、この国の男性陣は何をしているのか」
彼は優雅に手を差し伸べた。その手は、騎士のように力強くもあり、紳士のように優美でもあった。周囲から感嘆の声が上がる。特に若い令嬢たちの羨望の視線が、針のように私に刺さってくるのが分かった。マクレガー侯爵から踊りを申し込まれるなど、多くの令嬢にとって夢のような話なのだ。
私は一瞬躊躇したが、この機会を逃すわけにはいかない。ここで断れば、叔父に引きずられて連れ帰られてしまうだろう。
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