ホラーエッセイ365

緑縁翁☆りょくえんおう

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福原幻都記

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一 呼ぶ声

あの写真を撮ってから、三年が経った。
あの日以来、私は“木が濡れる音”を、夜ごとに聞いている。
ぱき、ぱき、と梁の奥で小さく鳴る。
最初は湿気のせいだと思っていた。
だが、音はいつも、真夜中の二時ぴったりに始まり、三分後に止む。
まるで誰かが合図を送っているようだった。

先月、福原の港町で“遷都に関する古地図の断片”が見つかったという連絡を受けた。
私は恐る恐る現地へ向かった。
神戸港の奥、埋立地のさらに先──
立ち入り禁止のフェンスの向こうに、
「福原京跡」と刻まれた石碑がぽつんと立っていた。

海風が強く、誰もいない。
だが、潮の匂いに混じって、確かに“炊き出しの匂い”が漂っていた。
粥のような、焦げたような、人の生活の匂い。

風が止んだ瞬間、耳の奥に声がした。
「帰れぬ者を、迎えに来たのか」

振り返っても、誰もいない。
ただ、海の向こうで、無数の灯が瞬いていた。
波の上に浮かぶ家々の灯──まるで沈んだ都が海面に浮かび上がったかのようだった。

二 流されぬ家

翌朝、地元の郷土史家に話を聞いた。
老人は、こちらの目を見ようともしなかった。

「その夜、見たやろ。海の灯。あれは“流されんかった家”や。
 遷都のとき、都を解体して川に流したやろ。
 でもな、ひとつだけ流れん家があったんや。
 屋根の下に、まだ人がおったんやろな」

老人は地図の上に、震える指で円を描いた。
「ここが、その家の跡や。もう埋め立てられてる。
 けど夜になると、潮が引いた時だけ“家の形”が浮かぶんや」

私は笑って誤魔化したが、その夜、ホテルの窓から港を見た。
月明かりに照らされ、確かに海の表面に屋根の輪郭が浮かんでいた。
波に揺れながら、きしむように音を立てていた。

写真を撮ろうとスマホを構えた瞬間、画面が黒くなった。
次に映ったのは、白い紙片。
そこに墨でこう書かれていた。

《再建済 入居済 帰還不可》

手が震えて、スマホを落とした。
拾い上げると、画面はただのホーム画面に戻っていた。

三 遷る影

翌日、現地の工事関係者に同行してもらい、
その“埋め立て区域”に足を踏み入れた。
アスファルトの下に、何か硬い感触があった。
金属のような、でも木が軋むような音。

重機が一瞬止まった。
作業員が顔をしかめる。
「……地面、動いてません?」

次の瞬間、地面の割れ目から潮水が噴き出した。
そして、そこから柱が一本、垂直に浮かび上がった。
古い檜の柱。焼け焦げた跡があり、
墨のような文字が浮かんでいた。

《某家跡 遷都未遂》

周囲の風が止み、遠くで馬のいななきが聞こえた。
その音は波と混じり、やがて人のうめきに変わった。
「……帰れぬ……」
「……まだ……建たぬ……」

柱の根元から、泡のように白い手が浮かび上がるのが見えた。

四 幻都

翌日、私は病院のベッドで目を覚ました。
港で倒れていたという。
全身ずぶ濡れで、右手には何かを握っていた。
乾いたあとに見たそれは、古い木片だった。
指でなぞると、彫られた文字が浮かび上がった。

《福原京 一夜の都》

その夜から、またあの音が戻ってきた。
ぱき、ぱき、と梁の奥で鳴る。
だが今は、時間が少しずれている。
夜の二時三分に始まり、二時六分に止む。
──三分、遅れている。

遷りきれなかった都が、
少しずつ、こちらに近づいてきているのかもしれない。
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