1 / 6
前奏
汗と、平和のようなもの
しおりを挟む
暑過ぎる。
昨日、後厄の年を迎えた私はラジオ体操をしていた。
軽快で、それでいてなんとも懐かしい音楽をこの歳になっても太陽の下でリズミカルに手足を曲げ伸ばしするとは、小学校の頃夏休みに在りし若年の私は考えもしなかっただろう。
勉学から離れて何ヶ月経ったのだろうか。数えることが億劫になってから、休学届を延長するときにだけ、過ぎ去りし日々を感じる。それ以外の日常では現在を生きること、明日の予定と預金残高のみが脳内の会議室で取り扱われる議題である。特に、勉学や研究に勤しんでいない学生において金を稼ぐことは避けることのできないことだ。
体操が終わり、すでに汗だくの私は、額の汗を拭い、粛々と仕事を始める。先輩たちの視線をすぐさま読み取り、若輩特有の高い声を出して、仕事を進める。
私のアルバイト先は自宅である学生寮、黄花(おうか)荘から坂を幾度か越えた先にあり、最近ではチェーン店に押されているとはいえ、東京都内の一等地に店を構える喫茶店である。
テーブルを拭き、アルコールで卓上と椅子を除菌し、水差しに氷を放り込み、水を注いだところで台所から先輩たちの声に耳を傾ける。
「今日も35度を超えるみたいなんよ。」
「へぇ、そうですか。」
最近ずっとこんな調子である。他に話すことといえば、前日の売上から政治関連に至るまで様々あるだろうが、この数ヶ月は専ら連日の酷暑について誰かが話し、「そうですか。」とか「へぇ。」とか、そんな具合だ。その合間を縫うように、急いているようで、頑なな先輩の指示によって、手足が動き続ける。この頃には意識は遠のいていく。
幾らか時間を早足で通り過ぎたようだ。時計を分針が動くのを確認し、台所に向かって休憩を告げ、外に出ると同時に煙草に火を点ける。
“平和”と銘された煙が熱気に揉まれて霧散していく。万物の法則に従って燃えゆくその一本。私の息と重なり、より早く消えてゆく。
もはや、駆け足で通り過ぎたランチタイムの後、手持ち無沙汰になった私は、店の音楽のボリュームを上げる。有線をかけるでもなく、店長のお気に入りの曲をかけるでもなく、どこから持ってきたか見当もつかないヒーリングソングが店内に癒しを届けるべく広がっていく。珈琲一杯で話続ける人々の水のグラスを眺めながら、水差しを片手にエアコンの送風口に立ち続けて、さらに気が遠のくのを感じる。
エスニックな曲が煩くなる頃には、西陽が差し込む店内には数名の”お客様”を残して閉店時間の5分前に差し掛かった。
遠のいた意識をなんとか引き戻し、今日あったことを思い出してみる。片付けが始まった。フルタイムで働くことが常になった私は、この時間になると店終いと帰りのバスの時間を待つことが自棄に面倒に感じられて集中力を失う。
帰りのバスに乗る頃には、理由を考えても分からない疲労感からか、魂の抜けた身体を見下ろす自分自身が直上に座して悲しい唄を歌い出す。唄が終わらないまま、黄花荘の門を開け、四階へ上がり、1番奥の部屋へ吸い込まれていく。自室の窓を開け、咥えた煙草の火が煙に変わり果ててゆく幾らかの間、唄は最高潮に達した。丁寧に灰皿に潰された煙草の煙の残滓の臭いから顔を背け、横になる。
拾った間接照明の明かり、漫画本の下に積まれた学術書、大分臭うアルバイトのエプロン、壁に吊るされたチェキの写真、床に並べられた酒瓶、それと有象無象。世界の中心で、静かになった体から魂は部屋の天井を通り抜け、蒸し返す屋上に漂って霧散した。虚な身体が部屋に残され、部屋の中には人の息遣いが消える。黄花荘430号室は存在しないかに思えた。
昨日、後厄の年を迎えた私はラジオ体操をしていた。
軽快で、それでいてなんとも懐かしい音楽をこの歳になっても太陽の下でリズミカルに手足を曲げ伸ばしするとは、小学校の頃夏休みに在りし若年の私は考えもしなかっただろう。
勉学から離れて何ヶ月経ったのだろうか。数えることが億劫になってから、休学届を延長するときにだけ、過ぎ去りし日々を感じる。それ以外の日常では現在を生きること、明日の予定と預金残高のみが脳内の会議室で取り扱われる議題である。特に、勉学や研究に勤しんでいない学生において金を稼ぐことは避けることのできないことだ。
体操が終わり、すでに汗だくの私は、額の汗を拭い、粛々と仕事を始める。先輩たちの視線をすぐさま読み取り、若輩特有の高い声を出して、仕事を進める。
私のアルバイト先は自宅である学生寮、黄花(おうか)荘から坂を幾度か越えた先にあり、最近ではチェーン店に押されているとはいえ、東京都内の一等地に店を構える喫茶店である。
テーブルを拭き、アルコールで卓上と椅子を除菌し、水差しに氷を放り込み、水を注いだところで台所から先輩たちの声に耳を傾ける。
「今日も35度を超えるみたいなんよ。」
「へぇ、そうですか。」
最近ずっとこんな調子である。他に話すことといえば、前日の売上から政治関連に至るまで様々あるだろうが、この数ヶ月は専ら連日の酷暑について誰かが話し、「そうですか。」とか「へぇ。」とか、そんな具合だ。その合間を縫うように、急いているようで、頑なな先輩の指示によって、手足が動き続ける。この頃には意識は遠のいていく。
幾らか時間を早足で通り過ぎたようだ。時計を分針が動くのを確認し、台所に向かって休憩を告げ、外に出ると同時に煙草に火を点ける。
“平和”と銘された煙が熱気に揉まれて霧散していく。万物の法則に従って燃えゆくその一本。私の息と重なり、より早く消えてゆく。
もはや、駆け足で通り過ぎたランチタイムの後、手持ち無沙汰になった私は、店の音楽のボリュームを上げる。有線をかけるでもなく、店長のお気に入りの曲をかけるでもなく、どこから持ってきたか見当もつかないヒーリングソングが店内に癒しを届けるべく広がっていく。珈琲一杯で話続ける人々の水のグラスを眺めながら、水差しを片手にエアコンの送風口に立ち続けて、さらに気が遠のくのを感じる。
エスニックな曲が煩くなる頃には、西陽が差し込む店内には数名の”お客様”を残して閉店時間の5分前に差し掛かった。
遠のいた意識をなんとか引き戻し、今日あったことを思い出してみる。片付けが始まった。フルタイムで働くことが常になった私は、この時間になると店終いと帰りのバスの時間を待つことが自棄に面倒に感じられて集中力を失う。
帰りのバスに乗る頃には、理由を考えても分からない疲労感からか、魂の抜けた身体を見下ろす自分自身が直上に座して悲しい唄を歌い出す。唄が終わらないまま、黄花荘の門を開け、四階へ上がり、1番奥の部屋へ吸い込まれていく。自室の窓を開け、咥えた煙草の火が煙に変わり果ててゆく幾らかの間、唄は最高潮に達した。丁寧に灰皿に潰された煙草の煙の残滓の臭いから顔を背け、横になる。
拾った間接照明の明かり、漫画本の下に積まれた学術書、大分臭うアルバイトのエプロン、壁に吊るされたチェキの写真、床に並べられた酒瓶、それと有象無象。世界の中心で、静かになった体から魂は部屋の天井を通り抜け、蒸し返す屋上に漂って霧散した。虚な身体が部屋に残され、部屋の中には人の息遣いが消える。黄花荘430号室は存在しないかに思えた。
0
あなたにおすすめの小説
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
クラスメイトの美少女と無人島に流された件
桜井正宗
青春
修学旅行で離島へ向かう最中――悪天候に見舞われ、台風が直撃。船が沈没した。
高校二年の早坂 啓(はやさか てつ)は、気づくと砂浜で寝ていた。周囲を見渡すとクラスメイトで美少女の天音 愛(あまね まな)が隣に倒れていた。
どうやら、漂流して流されていたようだった。
帰ろうにも島は『無人島』。
しばらくは島で生きていくしかなくなった。天音と共に無人島サバイバルをしていくのだが……クラスの女子が次々に見つかり、やがてハーレムに。
男一人と女子十五人で……取り合いに発展!?
同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。
ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。
真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。
引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。
偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。
ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。
優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。
大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。
母の下着 タンスと洗濯籠の秘密
MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。
颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。
物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。
しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。
センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。
これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。
どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。
久々に幼なじみの家に遊びに行ったら、寝ている間に…
しゅうじつ
BL
俺の隣の家に住んでいる有沢は幼なじみだ。
高校に入ってからは、学校で話したり遊んだりするくらいの仲だったが、今日数人の友達と彼の家に遊びに行くことになった。
数年ぶりの幼なじみの家を懐かしんでいる中、いつの間にか友人たちは帰っており、幼なじみと2人きりに。
そこで俺は彼の部屋であるものを見つけてしまい、部屋に来た有沢に咄嗟に寝たフリをするが…
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる