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ジルコール経済短編集
1~強欲魔女と銀箱の値段
しおりを挟む安らかな平穏は、瓦礫のように脆くそして壊れやすかった。
村の大人たちの怒声が、火の音より鋭く私の耳を刺した。
「裏切ったのはクーパだ! 娘の治療費と引き換えに、俺たちの居場所を売ったんだ!」
噂は炎より速く広がり、瞬く間に村を駆けめぐった。父は迷うことなく抜け穴の場所を教え、私と母を押しやりながら後ろを向いた。
「ノーラ。母さんを頼むぞ」
「いや……行かないで、父さん!」
伸ばした私の手は母の腕に抱えられ、ただ空を掴むだけだった。父の背が炎の向こうに沈み、やがて小さな黒い影となって遠ざかっていく。村の空は赤黒く染まり、煙が喉を刺して星は一つも見えなかった。耳に残るのは父の叫び声と、家屋が軋む鈍い音だけ──。
その夜の灰の匂いを、私は一生忘れない。
いつまでも続くはずがないとどこかで知っていたはずの、あの束の間の平和が、こんなにあっさりと壊れるとは思わなかった。畑を耕し、母が笑い、子供たちが歌っていた時間が、火に飲まれていく。
教会の旗を掲げた部隊が村を包囲し、松明が次々に投げ込まれた。乾いた藁屋根は一瞬で炎を孕み、夜は血のように朱く染まる。悲鳴、泣き声、金属がぶつかる音――無辜の者たちが薪のように倒れていく光景は、私の視界に刻まれた。
私たちは何もしていない。ただ日々を静かに生きていただけだ。魔女でも、魔術師でもない人々まで、炎の前では同じに扱われる。
狂っているのは、私たちではない。
狂っているのは、この世界の方だ。
神よ、あなたはいるのでしょうか。
どうして、どうして私たちに慈悲を与えてくださらないのですか──。
~10年後~
ジルコール近郊の小さな洞窟は、冒険者協会により「踏破済み」の札が立てられていた。
通常なら何も残っていないはずのその場所に、ひとりの魔女が足を踏み入れる。
銀灰色の髪にフードをかぶり、片手にランタン、もう片手に測量用の棒を携えて。
彼女はエレアノーラ=リッチポンド18才。
通称「銀箱女」。金の匂いにしか動かない強欲の魔女だ。
足を止めた先にあったのは、古びた小さな宝箱。
中は空っぽ――だが、彼女は微笑む。
壁際にひっそりと置かれた、小さな銀色の宝箱。
中は空っぽ。埃っぽい空気をまといながらも、どこか鈍く上品に光っていた。
ノーラはその箱を軽く叩き、音を聞く。
その音が、彼女の耳には、銀貨の響きのように心地よく聞こえた。
「厚み三ミリ、響きは銀貨と同じ。
……ふふっ、これはガチ銀ね。残り物には福があるってわけ――含有量は80%以上てとこね」
同行していた若き冒険者ソルト=シオが目を丸くする。
「えっ!? 宝箱そのものが銀なんですか!」
ノーラはにやりと笑った。
「当たり前でしょ。みんな中身だけ持ち去って、
箱の価値を見逃すの。残り物にも副があるってことね」
ノーラは大して重くもない箱を軽々と持ち上げ、くるりと回して蓋を開閉してみる。
軋む音が、彼女の耳には心地よいメロディーに聞こえた。
「銀製の古物箱」――中身が空っぽだろうが、素材が銀なら価値は十分にある。
飾りでも素材でも、売れる先はいくらでもある。
「ま、中身がないなら、箱ごと売るだけの話よね。当然でしょ」
ノーラの口元がにやりと笑った。
「ノーラさん。商魂たくましいですね」
「当然よ。財布の中身は膨れれば膨れるほど、気分も良くなるってものよ」ノーラは笑顔で答えた。
翌日の昼下がりのジルコール市場。
露店の呼び込み、荷馬車の車輪音、値切り交渉の喧騒が入り交じる。
その中で、ノーラは外套のフードを深くかぶり、小脇に銀色の小箱を抱えて歩いていた。
箱は両手に収まるほどの小ささだが、鈍い光沢が市場の明かりにちらつき、通りすがりの目を奪う。
「……さて、今日の稼ぎはこいつ次第」
ノーラの口元がわずかに釣り上がった。
露店の商人に銀箱を差し出した瞬間――。
市場の奥から二つの影が現れる。
筋骨逞しい男が大股で歩み寄り、無遠慮にノーラの箱へ視線を走らせる。
「へぇ、そいつは随分と高ぇ箱だな。だが持ち主が持ってちゃ違法品だ。その商品ドフォールで預かる」
(ドフォール商会……名は確かバラッド。強引なやり口で買いつけを行う商人というより、用心棒のような素性の男)
大手のドフォール商会は、強引な取引きや違法ギリギリのやり口で商売を行い、裏の部門には用心棒や暗殺者などを使役しているという噂まである。ドフォール商会を体現するかのような男が、目の前のバラッドだ。
そこに老練な眼差しの男が間に割って入る。
「待て。その箱には王都の工房印が刻まれている。正式な品をドフォールのような連中に渡すなど言語道断だ」
(今度はカーシェル商会まで……カーシェル商会鑑定士グレイム。かなり目利きが効くらしけど、この商会は互いの仲が悪いことで有名なのよね……)
ノーラを挟む二人の間に火花が散る。
周囲の商人や野次馬がざわつき、空気が重くなる。
「盗品じゃないのか?」
「偽造品かもしれねぇぞ」
「警備兵を呼んだ方が……」
市場の視線が一斉にノーラへ注がれる。
遠巻きに見ていた警備兵もこちらへ足を向け始め、露店の空気は一気に緊張感を帯びた。
だがノーラは一歩も退かず、箱を指先で軽く叩き、澄んだ金属音を響かせる。
「――厚みは三ミリ。響きは銀合金以上。工房の刻印は王都第三工匠団、ヴィンテージの型ね。偽造なら模様が浅いけど、この箱は線が深い。疑うなら、叩いて耳を澄ませば分かるわ」
静かな声だったが、周囲は一瞬で黙り込む。
沈黙の中、ノーラは涼しい顔で言い放った。
「さて――せっかくだし、競りにしましょうか」
ドフォール商会が「20フローだ!」と声を張る。
すかさずカーシェル商会が「25!」と対抗。
野次馬の視線が集まり、露店の一角が即席の競売場と化していく。
「30」
「32」
「35!」
ノーラは唇の端を上げ、最後に淡々と告げた。
「38フロー以上じゃなきゃ、今すぐ立ち去るわ」
数瞬の沈黙。
グレイムが深いため息をつき、銀貨を卓に積んだ。
「……取引成立だ」
周囲にざわめきが戻る。ノーラは涼しい顔のまま銀貨を懐へ収めたが、背中には冷たい汗が伝っていた。
(……稼ぎは上々。でも、あの二人の目が今も背中に刺さってる)
バラッドは口角を吊り上げ、不敵に笑う。
「おもしれぇ女だ……次はもっと荒っぽい勝負になるかもな」
グレイムは静かに言葉を落とす。
「才はある。だが、派手に立ち回る者は長生きしない……覚えておけ」
ノーラはフードを深く被り直した。
だが――市場の喧騒の中でも、その背中に突き刺さる視線の重さだけは、消えなかった。
(……勝ちは勝ち。でも、あの二つの商会の目に留まった時点で、もう安全圏じゃない)
市場の喧騒が再び戻る中、ノーラは深くフードをかぶり直した。
その瞳の奥に浮かぶのは――計算高さと、ほんの僅かな警戒心だった。
ジルコールには、大きな商会が二つある。
一つは、力と金でねじ伏せるドフォール商会。
もう一つは、目利きと信用で市場を押さえるカーシェル商会。
どちらも長くこの街を牛耳ってきたが――今日、ついに同じ獲物を前に真正面からぶつかった。
(二匹の大蛇が、同じ小魚を狙ったってわけね。だったら、その間を泳いで別の獲物を狙うのが私のやり方)
ノーラは小さく笑い、懐の銀貨の重みを確かめる。
これはただの一取引では終わらない。
ジルコールの商人たちすらまだ知らないところで、ゆっくりと、商戦の幕が上がろうとしていた。
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