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ジルコール経済短編集
2~強欲魔女と2匹の大蛇
しおりを挟む銀貨38フローの重みは、今日一日分の食費と、薄くて頼りない明日を保証してくれる。
だが、冒険者と商人の出入りが多いジルコールの街であっても、
1日で38枚もの銀貨を得る機会はそうそうない。
翌朝。朝靄が薄く残る市場外れの広場で、
ノーラは干からびた黒パンをかじりながら帳簿をめくっていた。
(……遠征の宿代、ソルトへの報酬、薬代、消耗品。
銀箱の売却分を差し引いても、今回の収入はかなりの黒字)
指先で銀貨の数を数え、ページの端に小さく数字を書き込む。
収支はかなりの黒字。それでも、予期せぬ出費があれば黒字を保つのは難しい。回遊魚のように、経済の隙間を縫い稼ぎ続けることの難しさをノーラは知っている。
「ノーラさん、そんなに朝から帳簿見てると目、悪くしますよ」
向かいの石段に腰を下ろしたソルト=シオが、パンを両手で持ちながら苦笑した。まだ若い冒険者の少年は、寝癖のついた青い髪を白いバンダナでなんとか押さえつけている。
「目が悪くなる前に財布が干からびる方が問題よ。ねえソルト、あんたの方は依頼の当て、何かないの?」
「えっと……ワイルドラビット退治が一件。報酬5コルです」
「……それじゃあ、パンとスープ、薬草でほとんど消し飛ぶわね」
ノーラはため息をつき、帳簿をぱたんと閉じた。
その瞬間、影がひとつ、彼女たちの目の前に落ちた。
「よォ、銀箱女」
見上げれば、昨日の大男――ドフォール商会のバラッドが、腕を組んで立っていた。
肩幅の広い体躯、日に焼けた首筋に走る古い傷跡。腰には長剣と短剣、さらに見せつけるように商会の紋章入りのバッジ。
後ろには、無表情な取り巻きが二人。どちらも腕っぷしだけで食っていると一目で分かる男たちだ。
(朝から胃が重くなる顔つきね)
内心で毒づきながらも、ノーラは笑顔を貼りつけた。
「おはようございます、ドフォール商会の用心棒さん。朝から物騒ね。パンでもどう?」
「遠慮しとく。麦より血の匂いのが性に合っててな」
バラッドは、がははと笑い石段に足をかけて身を乗り出す。
間近で見ると、その目は笑っていない。獲物を品定めする獣のそれだ。
「昨日は楽しませてもらったぜ。商会の連中も、お前の度胸と舌の回りの良さを気に入ってな」
「光栄ね。でも、あれはたまたま条件が揃っただけよ。二匹の大蛇が同じ小魚を狙ったおかげで、間を泳げただけ」
「謙遜するな。――だからこそだ」
バラッドは腰の袋に手を突っ込み、ざらりと音を立てて銀貨を一枚つまみ出した。
指の間でくるくると回しながら、ニヤリと口角を吊り上げる。
「ウチに来い、銀箱女。ドフォール商会専属の値踏み魔女。悪くねぇ肩書きだろ?」
ソルトが驚いてパンを落としそうになる。
「せ、専属……って、本気ですか?」
「本気も本気だ。お前みたいな頭の回る魔女はそう多くねぇ。
ウチのボスも鼻息を荒くしてたぞ。競りでカーシェルを出し抜いた小娘がいるってな」
(鼻息を荒く、ね……中年太りの金持ちが、得意げに語る姿が目に浮かぶわ)
ノーラは肩をすくめ、軽く首を傾げた。
「条件を聞く前に断るほど、私は愚かじゃないけど――話は話、よね?」
「分かってるじゃねぇか。よし、簡単に説明してやる」
バラッドは懐から一枚の紙を取り出した。
粗い紙質だが、そこにはぎっしりと文字が並んでいる。契約書の草案だ。
「まず月給だが――銀貨20フローを保証する。加えて、取り扱った品の利益の一割を歩合で渡す。どうだ、悪くねぇだろ?」
「……ふむ」
少なくとも、今のノーラの生活からすれば破格だ。
冒険者の小依頼をこなしても、日銭はせいぜい数コル。魔術の仕事が入れば跳ね上がるが、そんな依頼はそう頻繁には来ない。
銀貨20フロー。
月にそれだけの固定収入があるなら、生活はぐっと安定する。
だが、ノーラはすぐには、うなずかない。
「続けて。美味しい話には大抵、骨が刺さってるものよ」
「はっ。そう来ると思ったぜ」
バラッドは紙面の下の方を指で叩く。
「まず、専属の文字が見えるか? お前が扱う取引は、すべてドフォール商会を通すこと。勝手に他所と取引したり、ウチの仕入れ先と直接交渉するのは禁止だ。違反したら違約金――そうだな、銀貨100フローだ」
「……はいはい、あると思ってたわ。面倒な首輪と鎖」
ノーラはあからさまに眉をひそめ、紙をひったくるとじろじろと目を走らせた。
行間に潜む罠を、文字通り指先でなぞってゆく。
「専属契約期間は5年。双方の合意なき解約は認めない。
情報はすべて商会に帰属し、持ち出しは禁止。
事故・トラブル時の責任は、現場判断を行った者が負う……」
「細けぇことをいちいち読むな。稼げるんだ、文句ねぇだろ」
「その細かいことが、一生を決めるのよ」
ノーラは紙から目を離さず、淡々と言った。
「たとえば、この条文。事故・トラブル時の責任は現場判断を行った者が負う。
これ、実質的に全部私の責任ってことでしょ?
仕入れ先が不渡りになろうが、輸送中に盗賊に襲われようが、判断が甘かったって言えば、商会はノーダメージ」
バラッドがわずかに目を細める。
「お前、字が読めるだけじゃねぇな」
「当然でしょ。契約書を読めない商人は、ただの餌になる」
ノーラは紙から視線を外し、バラッドを見上げた。
「それに――情報はすべて商会に帰属。
私が築いた仕入れルートや、市場のデータ、全部ドフォールの物ってわけ。契約が切れた後、私は丸裸ね。
5年頑張ったところで、ありがとう、もう用済みだって追い出されたら、そこから自力で立て直すにはまた何年もかかる」
「そんなやり方はしねぇよ」
「そう今は言うわね。契約書っていうのは、相手が変わっても残るものよ。
今のあんたがどう思ってようと、条文がそうなら、そうなる可能性は常に残る」
ソルトがごくりと唾を飲み込んだ。
バラッドはしばし沈黙し、それから肩をすくめる。
「で? お利口な銀箱女様は、どんな条件なら納得するってんだ?」
「そうね――まず、専属は無し。
私はどこにも所属しない独立の取次人でいるわ。案件ごとに契約して、成果に応じて成功報酬をもらう」
「ハハッ。そりゃ好き勝手し過ぎだろ」
「代わりに、こっちも保証するわ。
私が仲介した取引は、必ず帳簿と証拠を残す。相手に逃げられないような条件設定も、ちゃんとしてあげる。
ドフォールが欲しがっているのは、私の頭と数字でしょう?」
バラッドの眉がぴくりと動いた。
図星だった。
ノーラは言葉を畳みかける。
「それに、私と専属契約すれば、カーシェル商会との競り合いで有利だと思ってるでしょうけど――」
(図に乗るな、小娘)
そんな本音が、男の目に一瞬浮かんだ。
「残念だけど、専属にした瞬間、逆に価値は下がるのよ」
「……は?」
「市場で唯一の第三者だからこそ、私の評価は信頼される。
どっちにも肩入れせず、純粋な数字で値踏みするから、周りが動きやすいの。
私を鎖で繋いだら、ドフォールの『飼い犬』だと思われて、カーシェルは当然警戒する。
結果、取引の幅は狭くなり、情報も集まりにくくなる。
――長期的に見て、得をするのは誰?」
市場のざわめきが遠のいたように感じた。
バラッドの部下たちでさえ、言い返せずに顔を見合わせる。
「……クソッたれ。理屈は分かるが、気に食わねぇ女だ」
「褒め言葉として受け取っておくわ。
要するに、鎖を緩めた方が、太い獲物を引っ張って来られるって話よ。ドフォールは短期の利を好むけど、商会ならそろそろ長期も見るべきじゃない?」
バラッドは頭をがりがりと掻きむしり、舌打ちを一つ。
「……分かった。今すぐ返事は出せねぇ。
ボスに話は通しておく。専属は譲れねぇが、多少緩めた案は用意してやる」
「ええ、楽しみにしてるわ。その時はちゃんと、契約書を二部持ってきてね。片方は私が保管するから」
バラッドは鼻を鳴らし、踵を返した。
去り際に、ちらりとソルトを睨む。
「坊主。お前も、もう少し目を養っとけ。
その女の隣にいるならな――飯の種にも、墓穴にもなるぜ」
その言葉だけ残し、ドフォール一行は市場の人混みに消えていった。
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