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第二章「捜査開始」

第75話 怨霊鬼

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 大男の注意を引き続けて数分、十分に移動した上に広い路地に出た。

 何度か肉薄されてお気に入りのネクタイを切り落とされてしまったが、幸い身体には傷一つついていない上に、体力、魔力共々ほとんど消費していない。

 「うん、やっぱり逃げ回るのはやめて、そろそろこっちから攻撃してもいいかな」

 剣兎は走り回るのをやめて大男に向き直る。それを見た大男は好機とばかりに切り込んでくる。

 剣兎はその様子を見てニヤリと笑って目を見開くと小声で真言を唱えた。

 「”オン・アニチ・マリシエイ・ソワカ”」

 次の瞬間、剣兎の姿が揺らめくとそのまま夜闇に溶けるかのように消えた。振り下ろされた長剣は捉えるものを失い、空を切って地面に切っ先を突き立てた。

 「……?…………!?」

 大男は剣を持ち上げて不思議そうに首を傾げた。その直後、腹部に突然衝撃が走りそのまま地面に片膝をついた。

 腹部の次は側頭部、右の二の腕、側腹部、背中、左足、後頭部と次々と謎の衝撃が大男を襲う。そして、二度目の腹部への衝撃を受けて大男は吹き飛んで塀に身体を叩きつけられた。

 男の腹部には靴跡がくっきりと刻み込まれている。

 「……!?……!?」

 大男は何が起きているのか全く分からず仮面の奥の生気のない瞳が僅かに困惑の色を見せる。

 「うん、蹴り心地に手応えはあるから霊体ってわけじゃなさそうだね……君は何者なんだい?」

 目の前の何もない空間がグニャリと歪んだかと思うと目の前に細めの男が現れて塀に叩きつけられ、背中を預けて倒れた姿勢になっている大男を見降ろしている。

 「…………!」

 刹那、大男は剣兎を捕えようと掌を前に突き出しながら前に出る。

 「おっと」

 細めの男は再びその姿を消した。次の瞬間から再び謎の衝撃が全身を襲い始める。

 腕の骨は折れ、足の骨は砕け、頭蓋骨にはひびが入る。大男はついに長剣を手放してその場にうつ伏せに倒れて動かなくなる。

 「やれやれ、見た目に違うことなくタフだね」

 何もない空間を歪ませて剣兎が姿を現す。いつの間にか頭から落ちていた中折れ帽を拾い上げて降り積もった雪を叩いて落とすと頭に被りなおした。

 剣兎が唱えた真言”オン・アニチ・マリシエイ・ソワカ”とは陽炎の化身、摩利支天まりしてんの真言で姿を消すことができる呪文である。俗に言う「隠形の術」というやつだ。

 韋駄天の真言との重ね掛けによって不視、気配遮断の状態で神力による蹴撃を大男に喰らわせたというわけだ。

 丁度そこに複数の足音が灯を持って近づいてきた。

 「ご当主!」
 「ご無事でしたか!」

 風歌一門から選んだ門下の者たちだ。後ろには檀の姿も見える。

 「ああ、ご苦労様」

 駆け寄る門下の陰陽師たちに向かって声を掛けた時だった。

 「ッ!?来るな!」

 倒れた大男から凄まじい瘴気が噴き出した。虚ろだった目に青白い炎が灯る。

 「………………キノ……トモノ……フジハラ…………ユルス……ベカラジ!」

 初めて言葉を発し、勢いよく起き上がる巨体に剣兎は脚に力を込めて身構える。が、膨れ上がった怨念の矛先は剣兎ではなく駆け寄ってくる陰陽師たちだった。

 「「「!?」」」

 それぞれが向かってくる巨体に対して呪符や呪印を結んで対抗しようとするが間に合わない。それに彼らの力量では間に合ったとしても確実に死が舞っている。

 「”オン・ウーン・ソワカ”!」

 執金剛神しつこんごうしん、別名金剛力士も真言を唱えて金色のオーラを身に纏い身体の硬度、耐久力を高めると剣兎は咄嗟に大男、いや、最早、実体のある怨霊、怨霊鬼おんりょうきと称した方がいいだろうか。怨霊鬼と門下の者たちの間に入った。

 「ガアアアアア!」

 凄まじい咆哮と共に繰り出された剛腕を両手で受け止める。

 「ぐ……ぐぐぐぐ」

 (なんて力だ……)

 何とか受け止められたが押し返すことはできず、むしろ勢いを殺しきれずにズルズルと後ろに押されている。

 ここで受け止めた剛腕のみに注意を奪われたことが良くなかった。

 誰もが知っていることだが、人間には腕が二本ある。目の前の巨体は怨霊鬼とは言え異形ではない。その例を漏れず二本の太い腕を有している。

 「……ガフッ!」

 二本目の剛腕が、拳が、容赦なく剣兎の腹に突き刺さった。

 執金剛神の力を身に宿しているにもかかわらず、凶暴な衝撃が剣兎を襲う。バキバキッっと肋骨、その他の骨がへし折れる音がはっきりと耳に届いた。口からは血が噴き出す。

 「ご当主!」
 「剣兎様っ!うわあ!?」

 拳が振り抜かれたことによって剣兎の身体は後ろに吹き飛ぶ。真後ろにいた陰陽師たちも巻き込んでさらに後ろに飛ばされる。

 「シネェエエエエエエ!」

 止めを刺そうと怨霊鬼が追撃を仕掛ける。もう駄目かと思われた時、吹き飛ばされ地面に落ちた剣兎たちのさらに後ろから覇気に満ちた鋭い声が響いた。

 「始祖清明、宗家より承りし式よここに!十二天将、後四、出でよ”太裳たいじょう”!」

 声の主、檀が空中に素早く五芒星を描くと空が光輝き一体の式神が姿を現し、怨霊鬼の前に立ち塞がった。

 その姿は中華の宮廷に仕える官人に似て冠を戴き、長い髭を蓄え、その手には筆と竹簡を持っていた。

 「ガアアアアアアアア!」

 突然現れた式神に臆することもなく怨霊鬼は果敢に襲い掛かる。

 それに対して”太裳”と呼ばれた式神は竹簡を紐解いて何やら読み上げ始めた。

 「ッ!?ギャアアアアアアアアア!ッ!ッ!」

 それを聞いた怨霊鬼は仮面の下を苦痛に歪め、聞くに堪えない悲鳴を上げるとその身を翻して何処かへと逃げ、姿を消した。

 式神は髭を一撫でして竹簡を丸めた。そして霧の如く姿を消した。

 「剣兎様!」
 「ご当主!」

 剣兎の下敷きになっていた陰陽師たちはその身を起こして。剣兎を仰向けに横たわらせる。

 「ガフッ!……フー……ヒュー…………」

 口からは血を噴き出し、右腕が不自然な方向に曲がっていた。

 「剣兎さん!」

 追いついてきた檀も剣兎に駆け寄る。降り積もった雪を剣兎の血が赤く染めている。

 「剣兎さん!」

 大声で名前を呼んでも全く反応しない。

 「クソッ!救急部隊は!」
 「今到着しました!」

 どうやら自らの屋敷で待機している賀茂家の当主が異変を察知し、先回りして手配していたらしい。白い陰陽寮の制服を纏った一団が駆けつける。

 「幸徳井かでい様、ここは私たちにお任せを!風歌様、しっかり!」

 救急部隊は医術や薬学に秀でた分家の信田しのだ家の者たちによって構成されている。ひとまず彼らに任せておくのが最善手だ。

 「至急、本部にお戻りになられてください。晴久はるひさ様がお話があると……」
 「晴久様が!?……分かった、剣兎さんのことは任せたぞ!」
 「はい、承りました!ささ、お早く」
 「……ああ」

 檀はもう一度倒れる剣兎を見やると沈痛な面持ちでその場を後にした。

 「ヒョーーーーーーーーー!ヒーーーーーーーーーー!ヒーーーーーーーーーー!」

 翻弄される陰陽師たちを嘲笑うかのように、奇声が洛内全域に響き渡った。
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