37 / 68
ままならない現実
①
しおりを挟む妻となったばかりの杏璃と初夜を過ごしたのだから、本来なら、身も心も満たされて、この上ない幸福感を味わっていたに違いない。しつこいようだが、本来であれば……の話だ。
いや、正直に言えば、これまで経験したことがないぐらい、心身共に満たされている。
だからこそ、央輔は虚しさに苛まれていた。
無理もない。氷のプリンスの身代わりなのだから。
杏璃に出会うまでの央輔にとって、女性は撃退する対象でしかなかったはずだ。
特定の女性に対して、恋愛感情を抱いたことさえなかったのに、今更になってどうして……と思わずにいられない。
央輔自身、他者に恋愛感情を抱くことのできない――アロマンティックかもしれないと思っていたぐらいだ。
それだから、杏璃を組み敷いた際に愚息が予想外な反応を示したのも、純粋培養された杏璃に真っ直ぐに向けられた純真無垢な好意だったからに違いない――そう信じて疑わなかった。
洋輔にクビにすると脅され、杏璃との縁談を進められた時もそうだ。
推しに夢中な上に、年の離れた杏璃となら、これまでの女性のように恋愛感情を抱かれて煩わしい思いもせずに済むだろう。
そう思ったからこそ、利害一致のソロ活婚を持ちかけたのだ。
けれど、あまりにもあっさりと杏璃に了承されてしまい、拍子抜けを通り越して、何とも複雑な心境だった。
どうにも面白くなくて、思わず『推しに似た俺を好きになっても、報われないんだぞ。それでもいいのか?』そう念押ししたぐらいだ。
だというのに、杏璃は自信満々といった様子でキッパリと言い放った。
『勘違いしないでください。推しに対する好意は、恋愛感情とはまったくの別物です。見返りなんて求めない、尊いものなんです。なので、そのご尊顔は、観賞用として生涯愛でさせていただきますので、ご安心ください』
望んでいた言葉だったはずだ。
それなのに、杏璃の言葉に大きな衝撃を受けていた。
驚きと落胆とが綯い交ぜとなり、央輔の心に一気に押し寄せ侵食していく。杏璃の言動に心を大きく揺さぶられ、様々な感情が湧き起こってくる。そしてその感情をコントロールできない。
これまで、撃退する対象でしかなかった女性に、あんなにも感情を露わにしたことなど一度もなかった。それなのに――
それでも、杏璃に対する感情が何なのか央輔には理解が及ばなかった。
杏璃の推し活に同行するようになったのも、杏璃に対する感情が何かを確かめたいと思ったからだ。
毎週のように杏璃と過ごすうち、推しへの思いがどれほどかを知ったし、保育士という仕事に、どれほど誇りを持っているかも知った。
いつも、何に対しても、一生懸命で真っ直ぐで、嘘偽りも裏表もない。
当初感じたとおり、純真無垢で穢れを知らない杏璃が羨ましくもあり、時折向けられる笑顔が眩しかった。直視できなかったほどだ。
鷹村グループの御曹司。
この肩書きのおかげで、物心がついた頃には、何もかもできて当然。そんな言葉が枕詞のようについて回る。
そのうち、褒められることにも慣れてくる。
類い希なる美貌同様、秀でた頭脳も引き継いだおかげで、見聞きするだけで知識を得られた。
子どもの頃からどこか冷めたところがあったかもしれない。
何かを強く望まなくとも、容易く手にできるのだから、そうなってしまうのも無理もないだろう。
旧家というのもあり、醜聞を恐れ表面上はにこやかだが、親族だからといって隙など見せれば足を掬われかねない。
よく、狐と狸の化かし合いなどというが、正にそれだ。
そんな環境で育ったせいか、誰かに本音を晒すこともなければ、感情を抑えることなど造作もなかった。
だというのに、杏璃の前では、どうにもうまくいかない――いつもいつも、調子を狂わされてばかりだ。
杏璃と時間を共有しているうち、それも悪くないと思いはじめる。
一緒に週末を過ごすのが当たり前になり、気づけば自然に笑い合えるようになっていた。
屈託ない杏璃の笑顔を目にするたび、胸がざわめくような不可思議な感覚に囚われるようになった。
(何なんだ? この、くすぐったいような、心があったまるような、妙な感覚は……)
戸惑いながらも、杏璃と一緒にいるのが思いの外楽しくて、時間なんてあっという間に過ぎてしまう。
いつしか、央輔にとって、杏璃と過ごす時間が癒やしになっていた。
杏璃のために、何かできることはないだろうか――気づけばそんなことを考えるようになって……
杏璃のことをもっともっと知りたいと思うようになった。
会えない時間も杏璃のことで埋め尽くされていく。
七月を過ぎた頃には、杏璃と過ごす週末を心待ちにするようになっていた。
杏璃といると、その小さな手に触れたい。その柔らかそうな髪に触れてみたい。
そんな願望が脳裏を掠めるようになっていた。
ふと手を伸ばしかけて、そのたびに央輔はハッとする。そして勘違いしないように自身に言い聞かせる。
(そうだ。この笑顔は、俺に向けられたんじゃない。同じ顔をした推しに対してだ。勘違いするな)
脳内で、もう何度、難解とされるありとあらゆる術式のシミュレーションを繰り広げてきたか……。
そんなことを幾度となく繰り返しているうち、嫌でも気づかされた。
――これが恋愛感情なのだと。
それでも、往生際の悪い央輔は認められずにいたのだ。
0
あなたにおすすめの小説
恋とキスは背伸びして
葉月 まい
恋愛
結城 美怜(24歳)…身長160㎝、平社員
成瀬 隼斗(33歳)…身長182㎝、本部長
年齢差 9歳
身長差 22㎝
役職 雲泥の差
この違い、恋愛には大きな壁?
そして同期の卓の存在
異性の親友は成立する?
数々の壁を乗り越え、結ばれるまでの
二人の恋の物語
黒瀬部長は部下を溺愛したい
桐生桜
恋愛
イケメン上司の黒瀬部長は営業部のエース。
人にも自分にも厳しくちょっぴり怖い……けど!
好きな人にはとことん尽くして甘やかしたい、愛でたい……の溺愛体質。
部下である白石莉央はその溺愛を一心に受け、とことん愛される。
スパダリ鬼上司×新人OLのイチャラブストーリーを一話ショートに。
地味系秘書と氷の副社長は今日も仲良くバトルしてます!
楓乃めーぷる
恋愛
見た目はどこにでもいそうな地味系女子の小鳥風音(おどりかざね)が、ようやく就職した会社で何故か社長秘書に大抜擢されてしまう。
秘書検定も持っていない自分がどうしてそんなことに……。
呼び出された社長室では、明るいイケメンチャラ男な御曹司の社長と、ニコリともしない銀縁眼鏡の副社長が風音を待ち構えていた――
地味系女子が色々巻き込まれながら、イケメンと美形とぶつかって仲良くなっていく王道ラブコメなお話になっていく予定です。
ちょっとだけ三角関係もあるかも?
・表紙はかんたん表紙メーカーで作成しています。
・毎日11時に投稿予定です。
・勢いで書いてます。誤字脱字等チェックしてますが、不備があるかもしれません。
・公開済のお話も加筆訂正する場合があります。
【完結】あなた専属になります―借金OLは副社長の「専属」にされた―
七転び八起き
恋愛
『借金を返済する為に働いていたラウンジに現れたのは、勤務先の副社長だった。
彼から出された取引、それは『専属』になる事だった。』
実家の借金返済のため、昼は会社員、夜はラウンジ嬢として働く優美。
ある夜、一人でグラスを傾ける謎めいた男性客に指名される。
口数は少ないけれど、なぜか心に残る人だった。
「また来る」
そう言い残して去った彼。
しかし翌日、会社に現れたのは、なんと店に来た彼で、勤務先の副社長の河内だった。
「俺専属の嬢になって欲しい」
ラウンジで働いている事を秘密にする代わりに出された取引。
突然の取引提案に戸惑う優美。
しかし借金に追われる現状では、断る選択肢はなかった。
恋愛経験ゼロの優美と、完璧に見えて不器用な副社長。
立場も境遇も違う二人が紡ぐラブストーリー。
腹黒上司が実は激甘だった件について。
あさの紅茶
恋愛
私の上司、坪内さん。
彼はヤバいです。
サラサラヘアに甘いマスクで笑った顔はまさに王子様。
まわりからキャーキャー言われてるけど、仕事中の彼は腹黒悪魔だよ。
本当に厳しいんだから。
ことごとく女子を振って泣かせてきたくせに、ここにきて何故か私のことを好きだと言う。
マジで?
意味不明なんだけど。
めっちゃ意地悪なのに、かいま見える優しさにいつしか胸がぎゅっとなってしまうようになった。
素直に甘えたいとさえ思った。
だけど、私はその想いに応えられないよ。
どうしたらいいかわからない…。
**********
この作品は、他のサイトにも掲載しています。
契約結婚のはずなのに、冷徹なはずのエリート上司が甘く迫ってくるんですが!? ~結婚願望ゼロの私が、なぜか愛されすぎて逃げられません~
猪木洋平@【コミカライズ連載中】
恋愛
「俺と結婚しろ」
突然のプロポーズ――いや、契約結婚の提案だった。
冷静沈着で完璧主義、社内でも一目置かれるエリート課長・九条玲司。そんな彼と私は、ただの上司と部下。恋愛感情なんて一切ない……はずだった。
仕事一筋で恋愛に興味なし。過去の傷から、結婚なんて煩わしいものだと決めつけていた私。なのに、九条課長が提示した「条件」に耳を傾けるうちに、その提案が単なる取引とは思えなくなっていく。
「お前を、誰にも渡すつもりはない」
冷たい声で言われたその言葉が、胸をざわつかせる。
これは合理的な選択? それとも、避けられない運命の始まり?
割り切ったはずの契約は、次第に二人の境界線を曖昧にし、心を絡め取っていく――。
不器用なエリート上司と、恋を信じられない女。
これは、"ありえないはずの結婚"から始まる、予測不能なラブストーリー。
俺を信じろ〜財閥俺様御曹司とのニューヨークでの熱い夜
ラヴ KAZU
恋愛
二年間付き合った恋人に振られた亜紀は傷心旅行でニューヨークへ旅立つ。
そこで東條ホールディングス社長東條理樹にはじめてを捧げてしまう。結婚を約束するも日本に戻ると連絡を貰えず、会社へ乗り込むも、
理樹は亜紀の父親の会社を倒産に追い込んだ東條財閥東條理三郎の息子だった。
しかも理樹には婚約者がいたのである。
全てを捧げた相手の真実を知り翻弄される亜紀。
二人は結婚出来るのであろうか。
『冷徹社長の秘書をしていたら、いつの間にか専属の妻に選ばれました』
鍛高譚
恋愛
秘書課に異動してきた相沢結衣は、
仕事一筋で冷徹と噂される社長・西園寺蓮の専属秘書を務めることになる。
厳しい指示、膨大な業務、容赦のない会議――
最初はただ必死に食らいつくだけの日々だった。
だが、誰よりも真剣に仕事と向き合う蓮の姿に触れるうち、
結衣は秘書としての誇りを胸に、確かな成長を遂げていく。
そして、蓮もまた陰で彼女を支える姿勢と誠実な仕事ぶりに心を動かされ、
次第に結衣は“ただの秘書”ではなく、唯一無二の存在になっていく。
同期の嫉妬による妨害、ライバル会社の不正、社内の疑惑。
数々の試練が二人を襲うが――
蓮は揺るがない意志で結衣を守り抜き、
結衣もまた社長としてではなく、一人の男性として蓮を信じ続けた。
そしてある夜、蓮がようやく口にした言葉は、
秘書と社長の関係を静かに越えていく。
「これからの人生も、そばで支えてほしい。」
それは、彼が初めて見せた弱さであり、
結衣だけに向けた真剣な想いだった。
秘書として。
一人の女性として。
結衣は蓮の差し伸べた未来を、涙と共に受け取る――。
仕事も恋も全力で駆け抜ける、
“冷徹社長×秘書”のじれ甘オフィスラブストーリー、ここに完結。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる