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偽りの婚約者
⑤
そんな有り様では何かを返すような余裕なんてない。代わりにコクンと顎を引いて意思表示するのがやっとだった。
納得した恋に、秀は心底安堵したように、ふっと相好を崩すと、恋の手首をぐっと引き寄せ、間近から恋のことを甘やかに見つめてくる。
そうして、頬を愛おしそうに両の掌に包み込むと、優しくそうっと撫でながら、言い聞かせるように甘い声音で囁きかけてくる。
「だったら、もっと男である俺に慣れておく必要があるよな」
ーーほら、やっぱり。先走らなくてよかった。
胸の内では、そんな風に安堵しつつも、言いようのない虚しさを覚えていた。
そんな恋の心を慰めるかのように、彼は愛おしいものを愛でるかのような優しい手つきで、絶えず頬を撫で続ける。
ただそれだけのことなのに。こんなにも心地よく感じてしまうのも、不可解な感情のなせる技なのだろうか。
ーーだったら厄介だ。こんなの辛すぎる。
そう思っている傍からーー
あたかも恋は、妖艶な秀の姿に魅入られてしまったかのように身動ぎさえも叶わないのだからどうしようもない。
夢現でほうっと見蕩れている間に、無防備な唇を優しく奪われてしまう。
酔っていたために記憶は朧気だけれど、初めて交わしたキス同様に、繊細な砂糖菓子のように甘美なものだった。
だというのに、口づけが深まっていくにつれ、恋は何とも形容し難い切なさに襲われてしまう。
これから先、秀と偽りの関係を築いていく中で、この想いがどんどん膨らんでいくのだとしたら、こんなにも辛いことはない。
想像しただけで、苦しくて苦しくてどうしようもない。
そんな心情が呼び起こしたのかもしれない。
忘れかけていた黒い影が忍び寄ってくる。瞬く間に大きな翳りとなって何もかもを覆い尽くしていくーーあの忌々しい感覚が彼女の脳裏を掠めた。
深まりつつあるキスの狭間で恋の身体が無意識に強張っていく。
この前の二の舞になるかと思われたが、そうはならなかった。
なぜなら慌てふためいた様子の秀が口づけを中断したからだ。
ーーへ!?
思いがけない展開に恋がキョトンとしていると、秀が気遣わしげな表情で恋の顔を覗き込んでくる。かと思えば。
「恋ちゃん、怖がらせてごめんね。大丈夫?」
カレン仕様のお姉口調で優しく問い掛けてくる。
これでは、絶世の美女ならぬイケメンが台無しだ。
秀のあまりの慌てようと変わり身の早さに、見た目のギャップとが相まって、恋は思わずぷっと笑みを零していた。
ーーどうしてそんなに必死なの? 唯一無二の大切な存在だから? それとも……。
恋は、不意に浮かんできた問いかけを大慌てで胸の奥底に想いと一緒に仕舞い込んだ。
ーー答えなんて決まってる。どうせ口にする勇気なんてないくせに、バカみたい。
自嘲じみた笑みが込み上げてくる。これ幸いとばかりに、恋は目一杯おどけて見せた。
「吃驚しただけだよ。なのにカレンってば慌てすぎ。それに何、その変わり身の早さは」
「……そりゃ、驚くに決まってるだろ」
対して秀は、心底安堵したように息を吐いた直後、ムッとした声を零した。
もうすっかり秀仕様の俺様口調に戻っている。
「カレンになったと思ったら、もう戻ってるし。どっかに切り替えスイッチでもあるんじゃないの?」
それを恋が茶化せば、秀はますますムッとした表情でむくれていく。
口調こそ違ってはいるが、こんな風に秀と言い合っていると、以前の親友カレンとの関係性に戻れたような気がしてくる。
言いようのない安堵感と懐かしさに、恋の胸はあたたかなもので満たされてゆく。
ーーこれなら大丈夫。唯一無二のふたりなら、これからもきっと上手くやっていける。
「切り替えスイッチ……って、俺をオモチャみたいに」
「いいねぇ。一家に一台秀くん。ほしいかも」
「ふざけんな。俺がどんなに心配したと思って」
そう思っていた矢先、唸るような苦しげな声音を震わせた秀にぎゅぎゅうっと胸に抱き寄せられたことで、またもやどこからともなく期待感が浮上してくる。
ーーせっかく、胸の奥底に仕舞い込んだっていうのに、どうしてそんな思わせぶりなことばっかりするの?
こんな感情は身勝手極まりないことだと自分でも承知している。
けれどもこれ以上妙な期待感に振り回されたんじゃ堪らないーー。
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