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偽りの婚約者
⑥
気づいたときには、恋はそんな想いに突き動かされてしまっていた。
「……それって、どういう」
けれどその言葉は言い切らないうちに、ガバッと恋を胸から引き剥がした、秀の強い視線によって遮られてしまう。
秀の熱視線と見つめ合うこと数秒間。
あたかも心の中を見透かされているかのような心地だった。
居心地の悪さを覚えた恋が視線を逸らそうとする寸前、秀の濁りのない漆黒の瞳がゆらゆらと揺らめいたかと思った次の瞬間。
「どういうって。そんなの、恋が唯一無二の大切な存在だからに決まってるだろ」
予想通りの返答が秀の口から紡ぎ出されて、同時に再び胸に抱き寄せられた。
安堵したようなガッカリしたような、複雑な心情ではあったが、秀のぬくもりと爽やかなシトラスの香りに包まれてしまうと、何もかもがどうでも良くなってゆく。
それどころか、ずっとずっとこのまま秀の腕の中にいたいなんてことを思ってしまっている。
しばらくの間、恋は秀に身を委ねたままでいた。
*
あの後、秀から「これからは婚約者として俺の傍にいてほしい」と、本物の婚約者に向けるような熱視線と口吻とでお願いされてしまい、恋はあっさりと了承してしまっていた。
以来、本物の婚約者さながらの扱いを受けている。
といっても、男性恐怖症を克服するための第一段階と言うことで、添い寝をするだけで、一夜を共にしたときのような不埒なことはしていない。
ただ恋が持っていた添い寝に対する概念と秀のそれとが違っていたために、少々……、否、大いに驚きはしたが、慣れというのは怖いものである。
添い寝初日。ただ隣で寝るだけだと思っていた恋の身体を抱き枕の如くぎゅうぎゅうに抱きしめて、「おやすみ、恋」と甘やかな声音で囁いてチュッと触れるだけとはいえ、キスを降らされた際には、心臓が口から飛び出すんじゃないかと思うほどドキドキさせられた。
けれど連日、添い寝に加えて、就寝前後の軽いキスと抱擁はもちろん、不意打ちのスキンシップに、熱烈な口づけというように、秀曰くありとあらゆる治療が施されているのだ。
そんな状態が一週間も続けばずいぶんと慣れてくる。否、麻痺してきたというのが正しいかもしれない。
その甲斐あってか、週末に予定していた、秀の両親への挨拶も何とか無事に終えることができ、一安心しているところだ。
秀の父親は脳外科医の権威と言うことで、どんな人なのかと懸念していたが、秀に負けず劣らずの見目麗しい、とても温厚な方だった。
義母もおっとりとしていて、とても気さくな方で、まだ中学生だという年の離れた妹も、素直そうで可愛らしい女の子だった。
これぞアットホーム、理想の家族の見本のように見えたが、だからこそ前妻の子供である秀は、医師になり家を出て以来、遠慮してあまり家に寄りつかなくなっているようだ。
秀が職場からの電話で席を外した際、そのことを憂いていたという両親から、「不器用なところもありますが優しい子です。どうか末永くよろしくお願いします」そう言って、深々と頭を下げて託してもらった。
父親に至っては、目尻にうっすらと涙まで滲ませていた。
おそらくこれまで浮いた話のひとつもなかった秀のことを案じていたからに違いない。
少々罪悪感は感じたものの、偽りとは言え結婚するのだから、有り難く素直に受け取って、「こちらこそよろしくお願いします」と返しておいた。
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