異世界宿屋の小さな相談役

月森野菊

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笑わなくなった旅芸人ペルチーノ

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 その日、宿り木にやってきたのは、どこか影のある旅芸人だった。

 カラフルな服は色褪せ、アコーディオンの革ベルトはひび割れている。
 髪もぼさぼさで、目の下には深いくま。
 けれどその背には、かすかな誇りがまだ残っていた。

 彼の名前はペルチーノ。
 かつては王都の広場で人々を笑わせてきた男。
 軽やかな足取りと毒のないユーモアで“笑いの魔術師”とまで呼ばれた芸人だった。

 チェックインを済ませた彼は、誰にも話しかけず、ただ静かに部屋へと向かった。

 それを見ていたトウマが、ぽつりとつぶやく。

「有名な笑いの魔術師……なのに、笑ってない」

 その夜。
 暖炉のそばに座るペルチーノの横に、トウマとユウマが静かに腰を下ろした。

「こんばんは、おじさん。ここ、あったかいよ」

「ねこのクロミも、ここでおひるねするの、だーいすき!」

 笑顔で話しかけるふたりに、ペルチーノはかすかに頬をゆるめた。
 けれど、その奥には届かない。

 彼の眼差しは、まるで遠い過去を見つめるようだった。

 

 その夜遅く。
 クロミがペルチーノの部屋から、古びた紙片を咥えて戻ってきた。

「にゃっ」

 ユウマがそっとそれを広げると、それは一枚の古い写真だった。

 笑顔のペルチーノと、小さな女の子が並んでアコーディオンを弾いている。

 栗色の巻き髪、明るい目元、そして子ども用のピエロ帽。
 その子は、間違いなく“相棒”だった。

 トウマはふっと息をのむ。

「……このこ、きっと、おじさんのだいじなひとだ」

 その晩、トウマはノエル(吟遊詩人の幽霊)と静かに話し合った。

「ねぇノエル、このメロディ、弾ける?」

 写真の裏に書かれていた短いメモ──「リラの笑い声、3拍子」。
 それはペルチーノが娘のリラのために作った、親子だけの特別な曲だった。

 ノエルは目を細め、霧のように音を紡ぐ。

「もちろん。忘れられた歌こそ、幽霊の得意分野さ」

 

 翌朝。

 宿の広間にふわりと、奏でている姿は見えないが三拍子の調べが流れる。
 ノエルの奏でる音に合わせて、クロミがしっぽをふりふりと踊り、リンリン(リス)が器用に小さなフライパンの柄をポンポン叩いてリズムを取る。

 その中心で、トウマとユウマが声をそろえた。

「ペルチーノおじさーん、これ知ってる?」

 

 部屋から出てきた彼は、その音を聞いて立ち止まる。

「これは……」

 一歩、また一歩。足音が近づくたびに、彼の目から光が戻っていく。

「……リラの曲だ……わたしの、娘の……」

 彼はポケットから小さな音符のペンダントを取り出した。
 その裏には、「リラへ。あなたの笑顔が、パパの魔法」と刻まれていた。

「リラは……病で、急に……あんなに明るい子だったのに、ある日、ふっと消えてしまって……」

 床に座り込んだペルチーノは、長く閉ざしていた心の扉を、ぽつりぽつりと開いた。

 リラは、病に伏してもなお父のアコーディオンに笑って応え、最期の夜まで「またいっしょに、広場でショーをやろうね」と夢を語っていた。

「でも、わたしは……それを果たしてやれなかった。だから、もう誰かを笑わせる資格なんて、ないと思ってたんだ」

 トウマがゆっくりと、彼のそばに座る。

「リラちゃん……おじさんが誰かを笑わせるたびに、うれしくなってたと思う」

 ユウマが、クロミを抱きながら続けた。

「いまでも、そうおもってるかもしれないよ」

 沈黙の中、ペルチーノの目にじわりと涙が浮かぶ。

「……笑っていいのか……わたしが、また……」

「いいよ」

 トウマはまっすぐに言った。

「ここは“宿り木”だもん。心を、ちょっと休ませる場所なんだよ」

 ペルチーノは、こくりと小さくうなずき、そして――

 ようやく、ほんのすこし、口元をほころばせた。

「そうか、そうだな……ふたりに、一本取られたな。はは……ははははっ」

 その笑い声は、かつて王都の広場を沸かせた“笑いの魔術師”そのものだった。

 
 天井裏ではノエルが拍手を送り、マルグリットがハンカチを振り、クロミはにゃっ、と一声鳴いて、リンリンがしっぽでリズムを刻む。

 今日も宿り木では、ひとつの心が、静かにほどけた。

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