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消えた指輪と、夜のささやき
しおりを挟むある晩、宿り木に一人の旅の女性がやってきた。
黒髪をきっちりとまとめ、灰色のマントを羽織ったその女性――イレーナは、王都から北方へ向かう途中だと言った。
職業は薬師。話しぶりは穏やかで丁寧だが、どこか人と距離を置いている印象を受ける。受付での一言だけを残し、彼女は部屋へと向かった。
「落とし物のないよう、部屋の鍵はきちんと渡してくださいね」
その言葉に、母ミーナは「ええ、もちろん」と微笑みながら、どこか違和感を覚えた。
丁寧な口調ではあったが、その言葉の裏には――微かな疑念、あるいは「確かさ」への執着がにじんでいた。
母ミーナは、それを「旅慣れた慎重さ」と捉えたが、実際はもっと深い理由があった。
イレーナは以前、とある旅先の宿で大切な薬草袋を盗まれたことがあった。
それは、亡き祖母が育てた特別な草を使ったもので、もう二度と手に入らないものだった。
それ以来、彼女は宿に泊まるたび、過剰なほど荷物を確認し、鍵の受け渡しにも過敏になっていた。
――失うことが、怖かった。
特に今回の旅は、亡き祖母の墓を訪れるためのものだった。
その祖母の形見の銀の指輪を、絶対に失いたくなかった。
だからこそ、鍵の受け渡しにさえ神経をとがらせたのだ。
その夜、事件は起きた。
「指輪が……ないんです」
翌朝、イレーナが食堂で静かに告げた。
「昨夜、荷物の確認をしたときは確かにありました。祖母の形見の銀の指輪……それが、今朝には消えていたんです」
大きく騒ぐでもなく、淡々と報告するイレーナの態度が、逆に場を緊張させた。
「宿に不満があるわけではありません。ただ、どうしても、あれだけは……」
ミーナとアベルは丁寧に頭を下げ、宿中を総点検することに。
掃除道具、布団の下、庭まで調べたが、指輪は見つからなかった。
その様子を見ていた双子のうち、トウマがぽつりと言った。
「なんか、変だ……」
「うん。なくなっただけじゃない、気がする」
すると、クロミが「にゃっ」と鳴いて、そそくさと廊下を駆けていく。
その先には、イレーナの部屋とは別の客室――昨夜まで空室だったはずの扉。
「……だれか、はいった?」
ユウマがリスのリンリンに頼んで、部屋の中をこっそり偵察させると、棚の裏に――何か光るものが落ちていた。
それは、銀の指輪。
「……どうして、ここに?」
その晩、トウマは幽霊のマルグリット(錬金術師)とノエル(吟遊詩人)に協力を仰ぐ。
「指輪が“移動した”のか、それとも“隠された”のか、確かめたい」
マルグリットが魔法の香を焚き、空気中に残る微細な痕跡を浮かび上がらせる。そこには、うっすらと残る足跡の“揺れ”――つまり、誰かが深夜に部屋を間違えた痕があった。
翌朝、トウマとユウマはイレーナに、静かにこう伝えた。
「ゆびわ、ありました。でも……たぶん、ぬすまれたんじゃないよ」
イレーナが目を細める。
「……どういうことですか?」
ユウマがやさしく言った。
「きっと、すごくつかれてたんじゃないかな。よるに、ねぼけて、ちがうへやに……」
トウマが続ける。
「それで、指輪を手に持ってて……棚に置いたまま、部屋を間違えたことも忘れちゃったんだ」
「……!」
イレーナの肩が、かすかに揺れた。
──初日の夜。
イレーナは自室で寝付けずにいた。
疲れているはずなのに、目を閉じると祖母の面影が浮かび、言葉にならない後悔が胸を締めつけていた。
(……私は、本当に最後まで、祖母の痛みに寄り添えたのか?)
その問いは、何年経っても消えなかった。
やがて、ふとした拍子に、テーブルに置いたはずの指輪が視界に入った。
それをそっと手に取ると、無意識のうちに部屋を出ていた。
そして――ふらりと、別の空き部屋の扉を開けて中へ。
そこは、祖母と最後に過ごした部屋によく似ていた。
小さな棚、少し傾いた木枠の窓、ハーブの香りが混じる布の匂い。
イレーナはふと息を呑み、ゆっくりと中へ足を踏み入れた。
「おばあさま……」
ぽつりとつぶやいたそのとき、彼女は指輪を手に持っていたことを忘れていた。
夢うつつのような時間。
イレーナは小さな棚の上に指輪をそっと置き、布の端に触れて、そのまま座り込んだ。
まるで、最後の別れをもう一度やり直すように。
そして、そのまま静かに立ち去った。
朝になって目を覚ましたときには、自室のベッドで眠っており、昨夜の出来事はすっかり霧のように薄れていた。
「……そんなはずは……私は……」
イレーナがそう言ったとき、彼女自身が無意識に記憶を封じていたことに気づいていなかった。
けれど、トウマとユウマ、そして“見えない仲間たち”は、その夜の小さな「ささやき」を感じ取っていた。
「おばあさま……最後に、ありがとうって言いたいの」
その声は、確かに宿の静けさの中に残っていたから。
第三者から見れば自作自演のはた迷惑な客でしかないが、双子がそっと伝えた言葉は、決して「責める」ものではなく――
「夢の中で、思い出に触れるとね、ときどき、本当の場所と間違えちゃうこと、あるんだって。
でもそれは、心が『ちゃんと覚えてる』っていうサインなんだよ」
イレーナは目を見開き、唇を噛みしめた。
「祖母の……病を癒せなかったことが、今も心に残っていて……」
「きっと、祖母さんは待ってるよ。でも、無理しないでって、言ってると思う」
その言葉に、イレーナはゆっくりとうなずいた。
「……ありがとう。……忘れていたのではなく、私は“忘れようとしていた”んですね。祖母のことも、自分の痛みも」
その夜、イレーナはふたたび指輪を左手にはめ、「宿り木」の窓辺に腰かけて、夜風に目を閉じた。
どこかで風が吹き抜ける音にまじって、遠くから聞こえた気がした。
――「あなたは、よく頑張ったわよ」
天井ではノエルがハープの弦を優しく鳴らし、マルグリットが香の煙をくるくると巻き上げながら言った。
『大切なものを失くすのは、“記憶”が訴えるサインですのよ』
クロミはイレーナの足元で「にゃっ」と鳴き、リンリンは彼女の肩にちょこんと乗って、まるで「また来てね」と言っているようだった。
こうして、「宿り木」ではまた一つ、失せ物と共に、心の奥にあった後悔が、そっと解かれていった。
そして今日もまた、宿り木の双子と見えない仲間たちは、誰にも気づかれない小さな“事件”の中で、人の心をひとつ、ほどいていく。
誰にも見えない、けれど確かにそこにある「思い出」と「ささやき」。
「宿り木」は、そんな声をそっと受け止める場所であり続けている。
こうして、「宿り木」ではまたひとつ、忘れられた“出会い”が、静かに結び直された。
今日もまた、小さな相談役たちは、
心の奥の奥にしまわれた、名もなき想いに耳を澄ませている。
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