異世界宿屋の小さな相談役

月森野菊

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始まりの灯と、誓いの宿

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 夜明け。
 トウマはふと、不思議な夢から目覚めていた。

 今見ていた夢の中には、見知らぬ人物が出てきた。
 薪が静かに燃える音だけが響く、宿り木の食堂。
 長い髪を風に流し、白い外套をまとった若い女性。
 その目はとても静かで、そしてどこか……寂しげだった。

 彼女は古い日記を胸に抱え、こう言った。

「どうか、ここが“居場所”になりますように。この場所が、たとえ過去を失った人でも、明日を信じられる場所でありますように……」

 

 朝食の時にその夢のことを話すと、母ミーナは少し驚いた顔をしてこう言った。

「それは……“宿り木”を建てた、最初の持ち主のことかもしれないわね」

 ミーナは代々受け継がれてきた宿り木の話をゆっくりと話し始めた。

 

 まだ“宿り木”がただの廃屋だった頃。
 その場所に、たったひとりの若い女性がやってきた。
 彼女の名は、セレスティア。

 王都の錬金院で将来を期待された才女だった。
 ある日、実験事故に巻き込まれ、記憶の一部を失った。

 家族の名、育った町、愛した人の顔……それらは霧のように消えていた。

 院では彼女に責任はないとされたが、彼女自身が自分を赦すことができなかった。

「失くしたものがある人間は、人を癒やすことはできない」

 そう言い残し、彼女は王都を離れた。

 

 旅の果てに、たどり着いたのがこの辺境の森。
 木々に囲まれ、石と蔦に埋もれた古い廃屋。
 人々からは「魔女の住処」とまで言われていたその場所に、彼女は、なぜか惹かれた。

「ここなら……誰の目にも映らない。誰の記憶にも触れない」

 彼女はその場所を、ひとりで修理し始めた。
 薪を割り、床を磨き、穴の空いた屋根を直し、少しずつ――本当に少しずつ、家としての形を取り戻していった。

 

 ある日、雨の夜に迷い込んだ旅人を迎え入れたのが始まりだった。

 その人は、傷だらけの騎士。
 言葉も交わさず、ただ暖を取り、翌朝、ふらりと立ち去った。

「……誰かが、ここに立ち寄った」

 それが彼女にとって、初めての「つながり」だった。

 

 その後も、身を隠すようにやってくる人がいた。
 失恋した吟遊詩人。
 追われる商人。
 家を飛び出した少年。
 そして、心をなくしかけた錬金術師……。

 セレスティアは、彼らに多くを問わなかった。
 ただ、火を絶やさず、食事を作り、静かな居場所を整えた。

 やがて、人々はぽつりぽつりと噂をし始めた。

「困ったら、あの宿に行け」
「誰も責めず、ただ迎えてくれる場所がある」

 その頃からだ。
 “宿り木”という名前で呼ばれるようになったのは。

 

 セレスティア自身の記憶は、結局戻ることはなかった。

 けれど、彼女はこう日記に書き残している。

「私はもう、知らなくてもいいのかもしれない。
 名前も、故郷も。
 ここに来た人たちが、“また明日”と言えるようになるなら、それで」

「私はこの宿の“灯”でいよう。いつでも誰かが帰ってこられるように」

 

 その日記は、後に宿を引き継いだ初代主人アランと妻マリアの手に渡り、彼らもまた、その思いを受け継いだ。

 やがて時代が進み、初代二人の子孫にあたるのが――
 現在の主人、アベルだった。

 アベルは王都で剣士として過ごしたのち「この場所を守ることが、自分の戦いだ」と言い、宿を継いだ。

 妻ミーナは、訪れる人の声に耳を傾け、セレスティアのように静かに支える。

 そう、宿り木はずっと――
 “誰かの痛みを抱えた旅の終着点”であり“明日へ向かう始発点”でもあったのだ。

 

 そして今。双子がここに生まれたこともまた、この宿の“灯”が絶えず続いてきた証。

 不思議な力を持つトウマとユウマは、セレスティアの祈りの先に生まれた“次の導き手”のかもしれない。

 

 その夜、トウマは夢の中で、再びセレスティアに会った。

「ありがとう。君たちがいるなら、この宿はまだ、大丈夫」

 彼女は微笑み、やさしく手を振った。

 

 こうして「宿り木」は、今日もまた、小さな悩みと記憶と祈りを、静かに迎え入れている。

 薪が燃える音は、今も変わらず、誰かの心にそっと寄り添っている。


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