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石壁の囁きと、忘れられた鍵
しおりを挟む春の終わり。柔らかな陽射しが差し込む午後。
その日は、客も少なく、トウマとユウマは庭でいろいろな物が入れられている古い大きな木箱の整理を任されていた。
その中にあった小さな古びた箱は、宿の倉庫の奥に隠された様に眠っていたもので、父アベル曰く、「開かずの箱で鍵も見当たらなくてな、昔から誰も開けられなかったらしい」とのことだった。
ふたりがそっと箱に触れた瞬間。
――カチリ。
どこからともなく、音がして、蓋がふわりと浮いた。
中にあったのは、風化しかけた革の鍵束。
そして、黄ばんだ紙に包まれた、一冊の無地の本だった。
何も書かれていないはずのその本を開いたとき――
トウマとユウマの頭に、不思議な映像が流れ込んできた。
それは、言葉にならない“場所の記憶”。
まだ“宿り木”が建つよりも前。
草原と林の境に、小さな石の祠があった。
旅人たちはその祠の前で祈りを捧げていた。
「この先の道で、どうか迷いませんように」
「帰ってくる場所が、ありますように」
誰が祠を作ったのか、誰が守っていたのか、もう誰も知らない。
けれど、その石だけが、祈りを受け止め、ずっとそこに在り続けた。
やがて祠は崩れ、風雨にさらされ、
その上に建てられたのが、最初の宿の土台だった。
つまり――
宿り木の地下には、“記憶する石”が埋まっている。
それを知ったトウマは、ぞくりとしながらも、胸の奥が不思議にあたたかくなるのを感じた。
「……この宿、“人の声”だけじゃなくて、“願い”も残してるんだ」
ユウマも、クロミを抱きしめながらそっと言った。
「ここにくるひとたちが、ほっとするのって……ただのおもてなしじゃないんだね」
その晩、トウマは夢を見る。
夢の中で、石畳が雨に濡れた古い宿の土間。
薪が静かに燃え、何人もの“名もない旅人たち”が、入れ替わり立ち替わり座っている。
顔は見えない。声も聞こえない。
ただ、ひとりひとりが、胸に重たい何かを抱えていた。
すると、宿の奥――壁そのものから、ふわりと音がする。
それは、言葉ではない。
“思い”だった。
ここに、いていい
あなたが忘れても、この場所は忘れない
また帰ってきてね
それは、建物そのものが持つ“記憶”であり、
かつて祠だった頃から、ずっと人の願いを受け止めてきた“場の魂”だった。
目を覚ましたトウマは、ふと廊下に出ると片隅――
人があまり通らない古い壁の下に、小さな“欠けた石”が落ちているのを見つけた。
それはまるで、祠の名残のような形をしていた。
手を当てると、温かい。
トウマは宿がこのかけらをくれたのだと思った。
「ありがとう」
ぽつりと呟いたとき、壁の隙間からひらりと一枚の花びらが落ちてきた。
ラベンダーの、乾いた香り。
それは、誰かが昔、ここに置いたままの「帰りたい」という想いだったのかもしれない。
この宿は、生きている。
石と木でできていても、人の声と願いを、忘れずに抱いている。
だからこそ――
誰にも言えない悩みを持つ人が、なぜかここに足を運ぶ。
眠れない騎士も、忘れものを探す旅人も、誰かの夢をたどる幽霊も。
彼らはきっと、この宿そのものに「呼ばれている」のだ。
天井の梁でふわりと浮いて吟遊詩人のノエルが、そっと呟いた。
『場所に記憶が宿るなら……きっと“宿り木”は、すでに詩のようなものなんだろうね』
錬金術師のマルグリットが笑って答える。
『詩も、宿も、忘れた頃にふと口ずさむものですのよ』
今日もまた、宿り木は静かに息づいている。
誰かの帰りを、誰かの旅立ちを。
名もない祈りと一緒に、そっと待ち続けている。
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