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神隠し
しおりを挟む「……」
夜目の利く我蛇丸は辺りを見渡した。
いつの間にか騒ぎから逃れるように忍び逢いの男女の屋根船が屋形船を右手から追い越していく。
屋根船は先へ先へと進んでいった。
「おう、銀次郎どん、もう上がったほうがええ」
シメがヘトヘトに疲れている銀次郎を見かねて口を出した。
「へえ、しかし、引き潮で水嵩の低いうちでござりませんと――」
銀次郎は川底のガラクタまで几帳面に拾って船の中へ上げた。
錆びた鉄瓶、ひび割れた火鉢、煙草入れ、欠けた瀬戸物等々。
これでは川底の掃除をしているようなものだ。
「なあ?兄さんは竜宮城へでも連れてかれてしまったんぢゃないかえ?」
お花はそれ以外に考えられぬと思った。
「うんっ。きっと、そうぢゃ」
サギもそうに違いないと頷く。
「う~ん、草さんが亀を助けたぁ話なんざ、あっしゃ聞いてねぇがなあ」
熊五郎は腕組みして首を捻った。
そのうちに、川沿いにワイワイガヤガヤと火消のい組の連中が数十人も集まってきた。
みな一様に下帯姿で川沿いからザブサブと川へ入っていく。
力仕事で鍛え上げたスラリとした若衆が下帯姿でいずれも美男揃い。
さらに、火消は裸体の見栄えを意識して背中に彫り物をし、尻や足のムダ毛処理も欠かさぬので一層スッキリしている。
湯屋には男客のムダ毛処理をする毛抜きの職人がちゃんといるのだ。
そのうえ、『江戸の三職』といわれた鳶、大工、左官はかなりの稼ぎがあった。
要するにモテモテだ。
「きゃあ」
「わぁあ」
そんな憧れの花形の火消だけに川の上のあちこちの船から嬌声が上がる。
川沿いには騒ぎを聞き付けた野次馬もワラワラと集まってきた。
なにしろ、川は五百艘もの川涼みの船の提灯の灯りで今時分は一番明るい場所なので外より暗い家の中にいることはないのだ。
やがて、川は総勢百人近くの下帯姿の火消の美男で溢れ返った。
「うひょおっ」
「引き締まった尻がいっぱい」
「目の保養だあ」
野次馬は大喜びで盛り上がる。
この時代は男色は武家の高尚な趣味とされて町人も男色に憧れたので男女問わず下帯姿の美男に色めき立つ。
川はたちまち美男の裸祭りと化し、一種異様な熱気に包まれた。
「ちょいと舷さん。こっちの船を出しとくれっ。あたしゃ帰るんだからっ」
突然、蜂蜜が屋形船の船頭に向かって権高に怒鳴った。
屋形船の船頭は舷五郎という名なのだ。
「ほら、こっちの船頭はいなくなっちまったんだからさ、舷さんが駄目なら誰か代わりの船頭を呼んどくれっ」
蜂蜜は船頭の舷五郎とは半玉の頃からしょっちゅう舟遊びで同船する馴染みであった。
客の前では親しい素振りも見せず知らん顔しているのだが、もう蜂蜜は普段の調子になっている。
「へ、へえ、ええと、あいにく今晩はうちの船頭はみんな出払っちまって――」
舷五郎の今晩の客は桔梗屋なので草之介の行方が知れぬことには屋形船はまだ帰れそうにない。
「ふん、いっくら竿で突っついたって草さんは出てきゃしないよ。どっおせドボンと潜って泳いでさ、あの浅瀬あたりから上がってったに決まってんだ」
蜂蜜は遠く離れた浅瀬を指差した。
浅瀬あたりは船が近付かぬゆえ灯りがなく真っ暗闇だ。
「なぁらほど、あすこなら暗くって人目にゃ付かねえや」
熊五郎が納得したような顔をする。
「たしかに若旦那様は泳ぎはお得意にござりまするが――」
銀次郎は二歳下の草之介には自分が泳ぎを教えたので、草之介なら潜水で容易く泳いでいけるだろうと思った。
「けど、何で?何で兄さんがそんな人騒がせなことするんだわな?」
お花は納得いかない。
草之介は小心者で悪戯けなど出来る性質ではないのだ。
「あたしから逃げるためさ。草之介の野郎、やっぱり浮気してやがったんだ。バレそうになったもんだから泡食って逃げ出したのさっ」
蜂蜜は恐ろしい剣幕で吐き捨て、
「ちっくしょうっ」
ドカッ!
八つ当たりに屋根船の柱を蹴り付ける。
「……」
みな呆気に取られてポカンとした。
伝法が人気なので、わざと伝法を気取る芸妓も多いが、蜂蜜は正真正銘の伝法であった。
「ばっきゃろうっ」
ガシャッ!
酒徳利や盃を蹴り飛ばす。
「な、なんちゅう狂暴な女子ぢゃ」
サギは目を丸くした。
観音様のような美人だと思っていたのに、こんな大暴れするとは。
「酒乱かのう」
ハトは残念そうに言った。
こんな狂暴な蜂蜜に浮気がバレそうになったら船から逃げ出しても無理はないような気にもなる。
「ああ、船頭さん、うちの亭主はちっとは船を扱えるんで屋根船のほうを漕ぎましょう」
シメがそう言ってハトの襟首を摘まみ上げ、横付けした屋根船の中へ放り込んだ。
「へいへい」
ハトは渋々と屋根船の船尾で櫓を握る。
屋形船は竿だが屋根船は櫓で漕ぐのだ。
「船頭さん、こっちの船も早く出しておくれ。あたしも帰るわなっ」
お花が船頭の舷五郎を急かす。
騒ぎの元の屋根船が帰るというのにこちらが残っているのは癪なのだ。
「銀次郎っ、さっさとお上がりっ」
お花がピシッと命じる。
「へえ」
銀次郎はヘトヘトになって屋形船に上がるのもやっとであった。
「あれまあ、泥だらけ」
おクキが銀次郎の汚れっぷりに顔をしかめて手拭いを渡した。
「はあぁ」
おタネは大きく吐息した。
帰ってから奥様に若旦那のことをどう報せようかと考えると気が重かった。
ともかく、い組の火消が総動員する騒ぎになってしまったのだ。
桔梗屋の若旦那ともあろうものが芸妓との痴話喧嘩でこの騒動になったとしたら、あまりに馬鹿げてみっともない。
「ふん、案外、草さんのほうがとっくに家へ帰ってたりしてねっ」
蜂蜜は乱暴に着物の裾を足で蹴り払って片膝立ちで座ると、ひっくり返した酒徳利に残った酒をグビグビと飲み干した。
「兄さん、こんな女から逃げるためなら何でもするわな」
「ホントに家に帰っとるかもしれんのう」
お花もサギも蜂蜜の乱行を見てようやく納得したように頷き合う。
屋根船と屋形船は前後して、余所の船の間を縫うように川を進んでいった。
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