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からくり
しおりを挟む「――草さんっ」
蜂蜜らしき女の叫ぶ声がする。
草之介の身に何事か?
「――っ」
お花もサギもハッとして屋形から飛び出て、前方を見やる。
船から船へ飛び移って行こうにも前の屋根船から三間も離れてしまったのでさすがに遠くて飛べやしない。
「えいっ」
サギは屋形の鴨居に両手を掛け、ヒョイと飛び上がって船頭のいる屋根へ上がった。
シメに叱られぬよう両膝をキチンと揃えて屋根に着地したので振り袖の裾は少しも乱さなかった。
「み、見えん」
屋形船の屋根の上からでも、いくら夜目の利くサギでも、前の屋根船が邪魔で向こう側の草之介等の屋根船の様子は分からない。
「おうい、草さぁん」
熊五郎の大きな声もする。
そこへ、
川沿いをタタタッと素早く駆ける若衆の姿が見えた。
肩に担ぐように長い竿を持っている。
「あ――っ」
サギはビックリと目を見張った。
背格好といい、駆ける身のこなしといい、若衆は我蛇丸によく似ている。
若衆は川沿いから跳躍して長い竿を川の中に突き、ビヨンと反動を付けてヒラリと草之介等の屋根船の上に飛び移った。
昔から川を飛び越える手段として行われていて陸上競技にもなっている棒幅跳びである。
「おお~」
若衆の鮮やかな跳躍に川の上のあちこちの船から歓声が上がった。
「おお、ありゃ、い組の虎也だっ」
屋形船の屋根の上で船頭も歓声を上げる。
「い組?町火消か?」
我蛇丸が悠長に屋形から出てきて屋根の船頭を見上げた。
「へえ、い組の纏持ちの虎也だがな」
船頭は知り合いでもなかろうに誇らしげな顔をした。
町火消といえば江戸の憧れの花形。
江戸には、いろは四十七組の町火消の組がある。
日本橋をふりだしにいろはの順に組があり、い組、ろ組が日本橋の町火消だ。
憧れの花形だけに誰でもなれるというものではなくスラリと姿の良い美男でなければ火消の組には入れなかった。
中でも火事場の屋根の上で纏を振って目立つ纏持ちは組で一番の美男と決まっている。
町火消のほとんどは普段の仕事は鳶だが番所から治安を任されることもあり、い組の虎也も川涼みの見廻りをしていたらしい。
「あっ、そうぢゃ。わしも竿で飛べばええんぢゃ」
サギは船頭が持っている長い竿を掴んだ。
「無茶だ。娘っ子に真似が出来るもんぢゃねぇがなっ」
船頭は竿を離さない。
「わしゃ娘っ子ぢゃない。飛べるんぢゃ。えい、貸せっ」
「いかん、いかん」
サギと船頭は屋根の上で竿を引っ張り合う。
「これっ、サギっ、屋根から下りんかっ」
シメが屋形の下から鬼の形相でサギを怒鳴り付ける。
「ひえっ」
サギはビビって思わず竿を離した。
「わあっ」
引っ張っていた竿をいきなり離された船頭は後ろへひっくり返り、
このまま屋根から転げ落ちるか否や、
「危ないっ」
サギが船頭が握ったままの竿をはっしと掴んで引っ張り起こす。
屋根の上で大股開きで踏ん張ったサギの振り袖の裾はガバッと開き、ズルズルと裾が下がった。
この時代の女子の着物はお引きずりで外出時は裾をはしょって、しごき帯で結んでいるのだが自分で裾を踏ん付けたのだ。
「あわわ、なんぢゃもう、着慣れんものを着とると、ろくすっぽ動けん」
サギはあたふたと振り袖の裾をはしょり、しごき帯を結び直した。
「ふう、とんでもねぇお転婆だがな」
船頭はぐったりと四つん這いで半纏の袖で汗を拭う。
「まったく、何をしとるんぢゃ。船頭さん、こっちから船をあっちへ寄せとくれ」
ハトが落ち着き払って言った。
「へ、へえっ」
船頭は急いで竿を突いて屋形船を右手へ寄せてから前方へ向かって進ませた。
屋形船が進んでいくと忍び逢いの男女の屋根船の船頭が進路を空けるように川沿いの左手のほうへ船を寄せる。
同じ船宿の船頭仲間なので、そこは阿吽の呼吸である。
「おおい、文公、どうしたあ?」
船頭が屋形船を近付けながら屋根船の船頭に訊ねた。
「それが、若旦那が川へ落っこったきり上がってこねぇんだっ」
文公という船頭の切迫した返事に、
「兄さんがっ?」
「若旦那様がっ?」
お花、おタネ、おクキ、銀次郎がまさかという顔で同時に叫ぶ。
(草之介が川に落ちた?)
サギは人が落ちたとは思えぬ静かな水面を見渡した。
「もしや、船の下にでも挟まっちまったか。今、潜って川底を見てめぇりやすっ」
船頭の文公は長い竿を手にドボンと足から川へ飛び込んだ。
「わ、わたしもっ」
手代の銀次郎も着物を脱ぎ捨て下帯姿で川へドボンと飛び込む。
背丈のある銀次郎だと鳩尾あたりの水嵩だ。
「川底は暗くて何も見えんがな。これで船の下を探ってみい」
屋形船の船頭が自分の長い竿を銀次郎に手渡す。
「へえっ」
銀次郎も息を吸い込んで水の中へ潜った。
「神様、仏様、何卒、若旦那様をご無事に――」
おタネとおクキは手を合わせてブツブツと拝み出した。
「なあ?おかしいわな。兄さんは銀次郎と背丈は変わらんのに、何で兄さんは川へ潜ってしまうんだえ?」
お花は何が何だか分からぬという顔でキョロキョロとする。
「あっ、ひょっとして川底のどこかに深い穴でも空いとるのかもしれん」
サギは屋根の上からピョンと飛び下りた。
お花もサギも屋形船から身を乗り出して川を覗き込む。
ポチャン。
お花が頭を下げた拍子に簪が抜けて川へ落ちた。
「――あ――」
蝶の銀のピラピラ簪だ。
しかし、今はお花も簪どころではない。
「――はあ、船の下はいくら探っても何も手応えはござりませんっ」
銀次郎は屋根船の周りをジャブジャブと移動しては何度も潜って竿で川底を探っている。
どうやら深い穴はどこにもなさそうだ。
「……」
我蛇丸、ハト、シメは固い表情で様子を眺めている。
「――わ――っ」
だしぬけに屋根船の半玉の小梅が顔を覆って泣き崩れた。
「泣くのはおよしっ」
蜂蜜が殺気立った声で叱り付ける。
「――うぐっ」
あまりの蜂蜜の迫力に小梅はグッと喉が詰まったように押し黙った。
「お、おや?文公はっ?」
屋形船の船頭が文公が潜ったきり一度も上がってこないことに気付いた。
「――え?そういえば、わたしが潜っている時も川の中は何の気配も――」
銀次郎はゾッと身震いする。
「なにぃ?船頭まで上がってこねえ?」
い組の虎也は訝しげに顔をしかめた。
「川で行方知れずが二人とあっちゃ尋常ぢゃねえ。今から組の連中に召集をかけやしょう」
虎也は船の上で軽く跳躍すると、また長い竿を川の中へ突いてヒラリと川沿いへ飛び移った。
川沿いをタタタッと駆けていく虎也の後ろ姿があっという間に遠くなる。
「ありゃ、ご同業ぢゃの」
虎也を目で追っていた我蛇丸がボソッと呟いた。
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