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金々先生栄花夢
しおりを挟む「カスティラ斬りまで暇ぢゃあ」
サギは口を尖らす。
「それ、そこらへんにある本でも読んどればええわいなあ」
女中のおクキが板間にある本棚を指した。
台所と作業場は隣り合っているのでおクキは台所からサギの様子をチラチラと見ていた。
どうせサギは桔梗屋のお客扱いなので菓子職人の邪魔さえしなければいいのだ。
「うん~」
サギはしぶしぶと板間へ行って本棚に平積みの一番上の黄表紙を手に取った。
「金々先生栄花夢。画工、恋川春町、戯作」
安永四年の刊行。
「おや、そりゃあ、大人気の本だわいのう」
おクキは乱雑に重なった本の向きを丁寧に揃える。
桔梗屋では貸本屋に借りた本は板間の本棚に置いて廻し読みしていた。
自分で借りる小遣い銭を持たぬ小僧等でも多くの本を読むことが出来るようにとの配慮だ。
「どれどれ」
本をパラパラと繰ってみると、すべての頁の見開きに美麗な挿絵がある。
「うわぁ、絵がいっぱいぢゃあ」
サギはたちまち黄表紙が気に入り、作業場の壁際の空き樽に腰を下ろして音読を始めた。
江戸時代の読書は音読が基本である。
「今はむかし、片田舎に金村屋金兵衛といふ者ありけり。生れつき心優にして、浮世の楽しみをつくさんと思へども、いたつて貧しくして心にまかせず。よつてつくづく思ひつき、繁華の都へ出て奉公をかせぎ、世に出て思ふままに浮世の楽しみをきわめんと思い立ち、まづ江戸の方とこころざしけるが、名に高き目黒不動尊は運の神なれば、これへ参拝して運のほどを祈らんと詣でけるが、はや日も夕方になり、いと空腹になりければ、名代の粟餅を食わんと立ちよりける」
サギはピタッと音読をやめた。
「のう?名代の粟餅って美味いのか?」
作中の名代の粟餅なるものがとたんに気になったのだ。
「なんだい。せっかく金々先生を読むの聞いとったに」
見習いの甘太が卵の殻を鉢に集めながら振り返る。
三年目の甘太でも作業場の掃除、洗い物、後片付けばかりで大した仕事はさせて貰っていないらしい。
「金々先生より粟餅ぢゃあ。どこぞに売っとるんぢゃ?」
サギはしつこい。
「目黒不動尊の名物だわいのう。目黒は日本橋からはだいぶん遠いわいなあ」
おクキは本棚から取り出した江戸府内の切絵図(地図)を広げてサギに見せた。
目黒は落語の『目黒のさんま』で有名であるが、目黒不動尊の辺りは将軍様が鷹狩りへ行く緑豊かな農地で周辺一帯は寺社や諸大名の下屋敷が数え切れぬほど立ち並んでいる。
「ここが日本橋でズズーッと行って、ここが目黒かあ」
サギは紙面を指先でなぞった。
実際に遠そうだ。
「目黒といったら――」
「ああ、先代の旦那様がよう遠乗りにお出掛けになられたのも目黒の辺りだったでなあ――」
熟練の菓子職人の四人は先代の弁十郎の遠乗りでの落馬による不幸を思い出し、にわかに顔を曇らせた。
(遠乗りかあ。馬なら一気ぢゃろうなあ)
サギの目は切絵図に釘付けで菓子職人等のしんみりした顔は見ていない。
サギは忍びの習いで早馬も乗りこなせるので、馬で目黒まで行きたいものだと思った。
だが、江戸の町では武家しか馬を持ってはならぬのが決まりで商家の桔梗屋に馬などいる訳はない。
先代の弁十郎は元々は武家の出なので乗馬も達者で昵懇の武家に招かれて遠乗りなどしていたのだ。
裕福な商家に多額の借金をする財政難の大名もいるほどなので大店の旦那は町人といえども様々な特権を与えられ、武家に丁重なもてなしを受けていた。
「この近くでは馬はどこぞにおるんぢゃ?」
サギはもう早馬で目黒まで粟餅を買いに行く気満々だ。
「そりゃあ、日本橋にゃ馬喰町だの、大伝馬町だの、小伝馬町だのいう町があるで、そこらに馬はおるでな」
見習いの甘太がサギに教える。
馬喰とは馬の見立て、仲買いする職業のことで宿の多くある馬喰町には江戸へ来た馬喰が泊まる。
大伝馬町は幕府公用の荷を江戸府より外の遠方まで運ぶ伝馬役が置かれた町だ。
伝馬は遠方へ荷を運ぶ場合には五街道の宿場ごとに馬も乗り手も交代して運ぶのだ。
「馬がおるのは大伝馬町ぢゃなっ」
タタターッ、
サギは独り合点して作業場を飛び出ていった。
大伝馬町は遠方への伝馬役だが、小伝馬町には江戸府内の近辺の荷を運ぶ伝馬役が置かれている。
目黒なら江戸府内なので小伝馬町である。
どっちにしても粟餅を買いに行くからと幕府公用の伝馬を借してくれるであろうかは謎だ。
「まさか、本気で目黒まで粟餅を買いに行くつもりで?」
女中のおクキは開きっ放しの『金々先生栄花夢』の頁と江戸府内の切絵図を交互に見つめた。
『金々先生栄花夢』
サギの音読は右頁。
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