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目黒不動尊
しおりを挟む「――おお、あれに見えるは目黒不動尊ぢゃなっ」
日本橋から目黒不動尊まで二里半。(約10km)
サギの早馬は小半時(約三十分)も掛からず目黒へ到着した。
横断歩道の信号も無い時代なので一時停止もなく一直線だ。
青々とした田畑。
長閑な農村の風景が広がっている。
「ええ景色ぢゃあ」
サギは黒鹿毛からピョンと飛び下りると手綱を引きながらゆっくりと歩いた。
「エンヤ~コラヤ~♪」
気分良く調子外れな唄も出る。
そこへ、
パッカ、
パッカ、
「こらこら、そこの馬子」
馬に乗った侍がサギを追ってきて咎めるような口調で呼び止めた。
「わしゃ、馬子ぢゃないぞっ」
サギはムッとして振り返ってハッとした。
その馬上の侍はハッとするほどの美男であったのだ。
背筋のスッと伸びた姿、切れ長の聡明そうな眼差し、彫刻のように整った鼻筋、キリッと引き締まった口元。
非の打ち所のない美男の侍である。
美男侍はヒラリと格好良く馬から下りるや否や、
「脚の裏を見せてみろ」
命令口調で偉そうにサギに言った。
「――へっ?こうか?」
サギは何のことやらと片足を上げて草鞋の裏を見せた。
「馬鹿者。お前ではない。馬の脚だっ」
美男侍はサギの乗ってきた黒鹿毛の右の後ろ脚をヒョイと曲げて持ち上げた。
「ほれ、思ったとおりだ。馬草鞋と蹄の間に石コロが挟まっておる」
美男侍は黒鹿毛の蹄からアサリほどの大きさの石コロを取り除いた。
「馬が右の後ろ脚を振るように歩いておったのに気付かんかったか」
美男侍は偉そうにサギを叱りつける。
「うん~、気付かんかった。すまんぢゃあ」
サギはつい圧倒されて謝った。
「わしにではなく馬に謝れ。馬鹿者め」
美男侍は黒鹿毛の鼻面をいたわるように撫でる。
相当な馬好きなのであろう。
「ぅぅ――」
サギは美男侍を睨んで低く唸った。
見ず知らずの男に一度ならず二度までも馬鹿者と言われた。
「馬が汗びっしょりだ。ようく拭いておけ。なに?手拭いも持っておらぬ?馬鹿者め」
二度ならず三度までも馬鹿者と言われた。
「これで拭けっ」
美男侍は懐から出した手拭いをサギに投げ渡す。
「むう~」
サギは手拭いを借りても礼を言うどころかブスッとして黒鹿毛の鞍を外し、
「ちぇっ、なんちゅう威張りん坊ぢゃっ」
悪態をつきながら馬の背に浮かんだ玉の汗をせっせと拭いた。
「馬に水をたっぷりと飲ませるのだ」
美男侍に命令口調で促され、サギはすぐ側の目黒川へ黒鹿毛を引いていった。
「ううむ、我が愛馬、黄金丸の品格には遠く及ばぬが、なかなかスラリと姿の良い馬だ」
美男侍は風呂敷包みから画材を取り出すと、原っぱに腰を下ろして黒鹿毛と黄金丸が水を飲む姿を写生し始めた。
その画材はすべてオランダ渡来の品だ。
「その筆はオランダからの物か?」
サギは美男侍の背後へ廻って鉛筆が画用紙に描く線を物珍しげに見つめた。
この時代は鉛筆も将軍家や大名家へ恭しく献上するようなオランダ渡来の高級品である。
「へええ、上手いものぢゃのう。ホントの馬のようぢゃ」
浮世絵と違って美男侍の描く絵は写実的である。
「わしが描いておるのは長崎でオランダ人に習うた洋風画だ。光の当たる部分と影の部分とを立体的に描き出すことで奥行きが表れ、あたかも紙から実像が浮かび上がるかのように見えるのだ」
美男侍は洋風画について熱く語ったが、サギの耳を右から左へ素通りした。
「ふうん」
サギが美男侍の脇に置かれた画帳をパラパラと繰って見ると馬の絵ばかりだ。
「本物の馬が目の前におるのに描く意味が分からんのう」
サギは仲良く戯れている二匹の馬を見やって首を傾げた。
「馬鹿者め。お前は世の無常というものが分からぬのか?今、目の前にあるものが常にあるとは限らんのだ。そもそも――」
美男侍はまた何か熱く語ろうとしているが、ややこしい話は真っ平ご免だ。
「おう、そもそも、わしゃ、河童と海女さんの絡みとか天狗と陰間の絡みとか見たこともない珍奇な絵が好きなんぢゃっ」
サギはヌケヌケと言った。
「か、絡み?それは春画のことか?よくもそのような不埒な戯言を。洋風画が春画に劣るとでも言うつもりかっ」
美男侍は気色ばんだ。
どうやら怒らせたらしい。
ここは逃げの一手だ。
「あっ、そうぢゃ。わしゃ、粟餅を買いに来たんぢゃった」
サギは急に思い出した振りをして立ち上がり、キョロキョロと辺りを見渡した。
いつの間にか目黒川の太鼓橋を参拝客がゾロゾロと渡って寺の前方にある店へと集まっている。
店には名代粟餅という看板が見える。
「粟餅ぢゃっ」
サギはパタパタと粟餅屋へ走った。
「あっ、おい、待てっ」
美男侍は苦々しい顔で画材をまとめて立ち上がった。
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