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たぬきの算段
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正午の鐘。
お葉はひとまず小休止して、昼ご飯にすることにした。
上着は鬱金茶の色無地に決めたが、午後には上着に合わせる下着の反物を加賀屋が持ってくることになっている。
この時代は上着と下着で重ね着するので着物は二枚も誂えるのだ。
さらに、履物屋も袋物屋も櫛や簪の飾り職人も呼ぶつもりだ。
頭のてっぺんから足元までお初に揃えるのでお葉のよそゆき選びはまだまだ一日仕事である。
「田貫様は黄金色がお好きだからの。それで鬱金茶の色無地に決めたんだえ」
お葉は得たり顔する。
「やっぱり、あたしの言うたとおりだったえ?美男侍は田貫様の若殿様だったんだわな」
お花はサギに威張ってみせる。
「うん。そいぢゃけど、美男侍は威張りん坊のわりにそんな偉い身分には見えんかったからのう」
サギはモグモグしながら三膳目のおかわりの茶碗をおタネに突き出す。
「田貫様はそりゃあ気さくなお人柄だえ。若殿様もお父上様と同じように気さくなお方に違いないわなあ」
お葉はここぞとばかりに父、弁十郎の長崎遊学仲間であった田貫兼次の人となりを話して聞かせた。
下級武士の出ながら先代の将軍様の篤い信頼を得て、幕府の最高職の老中にまで出世した田貫兼次は至って気さくな人柄で堅苦しい儀礼を嫌って身分に関係なく親しい者と無礼講でざっくばらんに冗談などで大笑いして盛り上がるという。
「うんっ。美男侍も『うははっ』って大笑いするんぢゃ」
田貫兼次が妻に迎えたのも身分に関係なく武家の娘ではない庶民の矢場の女だ。
「ヤバって何ぢゃ?」
「矢場は弓で矢を射って的に当てて遊ぶ遊興場だえ。客が射た矢を拾い集める仕事は矢場の看板娘の美人と決まっとるんだわな」
「ヤバい」という言葉はこの矢場が語源らしい。
「そいぢゃ、美男侍のお母上も美人ということぢゃな」
サギは納得したように頷いた。
美男といわれる田貫兼次と矢場の看板娘の美人の良いとこ取りの結果があの美男侍の美男っぷりであろうと思った。
将軍様の腰元でさえも美人というだけで庶民の古着屋の娘や八百屋の娘がいたほどなので身分の高い武家にも美人妻なら庶民の出は多い。
身分違いの庶民の娘を妻にする場合はいったん武家の養女にして武家の娘を貰ったように体裁を整えるので武家の美人妻には庶民の出がうじゃうじゃといたのだ。
田貫兼次は賄賂で名高く金の亡者と呼ばれているが、山吹色の小判をただ眺めて喜んでいるだけでは決してなく、当然のことながら金は有意義に使う。
蘭学を奨励し、珍しいもの面白いものを好んで、オランダ渡来の器械類を収集する趣味があり、あの平賀源内の発明に資金を援助している後援者でもある。
自身の干支が子年でその裏干支にあたるのが午年なので馬をこよなく愛し、馬具にも贅沢している。
生まれ年の干支と反対側の干支をお守りにして持つと縁起が良いといわれているのだ。
「わしとお花は酉年ぢゃから、裏干支は――」
「兎だわな」
お花は六歳違いの弟の実之介が卯年なのでスルッと裏干支が出た。
殊に田貫兼次は芸術に造詣が深く、芸術家を育てるために惜しみなく金を出し、尽力している。
「たぬき会がそれぢゃなっ」
元はといえば田貫兼次が幕府の税収を増やすための政治改革で商家に様々な特権を与え、優遇したために武家よりも商家のほうが裕福になるという武家と商家に貧富の差が生じた。
武家ばかりが質素倹約に暮らし、豪商ばかりが贅沢三昧していると田貫兼次の政策には反感も多いのだが、町人が豊かになったおかげで美術、芸能、美食など多種多様な娯楽が発展した。
江戸の芸術文化の繁栄はこの時代に田貫兼次が進めた政策である重商主義の賜物なのだ。
「やっぱり田貫様はご立派なお方だわな。たぬき会に児雷也をお呼び下さるなんて、優れた芸能を見極めるお目が高いなによりの証拠だわな」
お花は熱を込めて言う。
屁放男も呼ばれているがお花はそこには触れない。
「うんっ。まっこと田貫様はご立派なお方ぢゃっ」
サギもつくづく田貫兼次の人となりを聞いて、すっかり田貫の味方になっていた。
ついこの間まで『賄賂、賄賂のタヌキのカネヅクの悪い奴ぢゃなっ』と言っていたことなどケロッと忘れたかのような手のひら返しだ。
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