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善は急げ
しおりを挟む「おマメも小梅みたいに半玉になりたいんぢゃろ?」
サギは裏長屋の縁側におマメと並んで腰を下ろし、さして興味もないおマメの将来の望みなど聞いていた。
「すぴ~」
赤子の雉丸は座敷に大の字でスヤスヤと眠っている。
「うん。そりゃ、なりたいさ。小唄は六歳の六月六日から始めて七年も稽古してるし、器量だってそこいらの半玉よりも上だって小梅さんが言ったんだから」
昔から稽古事は六歳の六月六日から始める習わしであった。
三月三日の雛祭りでも、五月五日の端午の節句でも、七月七日の七夕でも、九月九日の重陽の節句でも、とにかくゾロ目が好きなのだと思われる。
「わっちゃ、小梅さんと同じ蜜乃家に置いて貰いたいんだけどさ、おっ母さんもみんなも他の芸妓屋にしろって言うんだ。けど、蜜乃家には評判の美人芸妓の蜂蜜姐さんだっているし、贔屓の客も豪商の旦那や身分の高いお武家様なんだって。だから、蜜乃家が良いに決まってんのさ。それなのに、みんなして蜜乃家は駄目だってんだから、癪に障るったらありゃしない」
おマメは今まで文句を言う相手がいなかったので、ここぞとばかりに不満がポンポンと口から出る。
たしかに蜜乃家は日本橋では一番には違いないが博徒の玄武一家の芸妓屋なので反対しているのであろう。
「ほおお」「へええ」「ふうん」
サギはおマメの早口に間の合わぬ適当な相槌を打ちながら錦庵の調理場の水口をチラチラと見やった。
誰も裏庭へ顔も出しやしない。
サギが来ていることは先ほどの『にゃあああん影えええぇぇ』の大声で気付いているはずである。
だが、誰もサギの顔を見に来やしない。
「むうう――」
時間稼ぎにおマメの話を聞いていたサギはイライラとしてきた。
(錦庵の連中はわしのことが気にならんのか?)
(桔梗屋へ行ったきり戻らんでもええと思うとるのか?)
(さては、みんなで示し合わせて、わしに知らん顔して小馬鹿にして笑うとるのか?)
カッカと頭に血が昇ってくる。
実のところ、今、錦庵は大一座の客で立て込んでいて我蛇丸は蕎麦を茹で、ハトは器を洗い、シメは出前へ出て、おクキはお運びで、誰もサギに構っている暇などなかった。
そうとも知らず、
(ふんっ、いけ好かん連中ぢゃっ)
サギはムシャクシャと縁側から立ち上がった。
「わしゃ、桔梗屋へ帰るっ。おマメもこんなとこにおることはないぞ。早う蜜乃家へ置いて貰えばええんぢゃ。みんなが反対しとるのは雉丸の子守りがおらんと困るからぢゃ。ここの連中はおマメのことなんぞ考えとらんぞっ」
八つ当たり気味にそう決め付ける。
「おマメは自分の好きな芸妓屋へ入ったらええんぢゃっ」
サギは無責任におマメを焚き付けた。
「う、うんっ」
おマメは強く頷く。
思いがけずサギに背中を押されて決心が付いた。
反対されても自分の決めたとおりにすればいいのだ。
「そうだよねっ?なんならサギさんみたいに家出しちゃえばいいんだよねっ?」
おマメも思わず立ち上がる。
「おう、その意気ぢゃっ。善は急げっ。思い立ったが吉日ぢゃっ」
サギは無責任におマメを焚き付けたうえに、さらに扇ぎ立てた。
「うんっ」
おマメの胸の小さな炎は一気にボンと燃え上がった。
縁側から自分の住まいの一軒へ入るとおマメは荷物を風呂敷にまとめ始めた。
早くも家出の支度である。
「ええぞ、ええぞ」
サギは扇ぎ立てまくる。
ただ、おマメが家出してしまって、いけ好かん連中が困ればザマミロというだけの気持ちであった。
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