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蜂の一刺し
しおりを挟む「……?」
何が「これでよしっ」なのかと熊蜂姐さんは訝しげに背後を振り返って縁起棚を見上げた。
「――っ」
とたんにカッと目が剥かれる。
熊蜂姐さんの顔はたちまち天女から鬼女へと変化した。
(ひょえ?)
(ありゃ?)
お花とおクキはビックリと揃ってのけぞる。
「――?」
サギはただならぬ殺気を感じて振り向いた。
「ひえっ?」
熊蜂姐さんの変化に思わずビックリと声が出る。
「ちょいと、鶴と亀は対なんだから離したら駄目ぢゃないか。ほれ、亀を前にお出しっ」
熊蜂姐さんがサギに居丈高に命じた。
(むうぅ――)
サギは頭ごなしに偉そうに指図されるのは我慢がならない。
たとえ自分のほうに非があろうとも。
「イ、ヤ、ぢゃ。鶴は亀なんぞと仲良うせんのぢゃ。鳥は鳥と並ぶのがええんぢゃっ」
サギは余所様の家だというのに勝手に飾り棚の置物を並べ変えて悪びれる様子もない。
熊蜂姐さんはキッとして立ち上がるや、
「おどきっ」
縁起棚の前からサギを突き飛ばし、
「亀なんぞ?言うに事欠いて、亀なんぞと言ったかえ?亀なんぞと。ええっ?」
奥にやられた亀の置物を手に取ると、サギの手垢が付いたとばかりに着物の袖口でゴシゴシと磨き始めた。
「うちの人の名はね、亀五郎ってんだ。亀は玄武一家の守り神なんだからね、亀を粗末に扱ったら承知しないよっ」
玄武の親分は亀五郎という名だったのだ。
うちの人と言うも玄武の親分は独り者で熊蜂姐さんを含む十数人の妾がいる。
日本橋芳町で玄武一家の営む料理茶屋、陰間茶屋、待合い茶屋、矢場などはそれぞれを妾に任せていた。
「これでよし」
熊蜂姐さんは亀の置物をピカピカに磨き上げて手前の鶴の隣に置き直し、
「ふん」
サギに片頬で不敵に笑ってみせて、また煙管を吸い付け、
「ふう~っ」
わざとサギに向けて煙を吐き掛けた。
「ぶふえっ」
サギは顔をしかめて煙をパタパタと扇ぐ。
忍びの者は誰も煙草を吸わぬし、桔梗屋でも菓子にニオイが移る煙草は厳禁なので誰も吸わない。
そのうえサギの嗅覚は人並み以上である。
煙草の煙は臭くて臭くて辛抱ならない。
「ふうっ、ふうっ」
熊蜂姐さんはこれでもかと煙を吐き掛ける。
「ぶへっ、ぐへっ、ちくしょうめ、覚えてろっ」
サギは蚊遣りの煙にいぶされて退散する蚊のようにジタバタともがきながら蜜乃家を飛び出した。
「ほーっほほほっ」
熊蜂姐さんは勝ち誇ったように高笑いする。
「……」
お花もおクキも煙に巻かれたように唖然とした。
「……」
おマメは依然として死んだふりで正座のまま微動だにせず。
「ほほほっ、話に聞いていたとおり、サギというのは面白い子だこと」
熊蜂姐さんはサッと着物の裾を返して長火鉢の前に座ると、何事もなかったかのように天女の顔に戻って妖艶な笑みを浮かべた。
「――え?サギのことをご存知でござりましたか?」
お花はおっかなビックリと熊蜂姐さんに訊ねる。
「あ、ああ、錦庵さんの妹のようなものが江戸へ来なすったと、蜂蜜か小梅か松千代か、誰かに聞いたんでごさんすえ」
熊蜂姐さんは曖昧に答える。
実のところ玄武一家はとっくのとうにサギのことは知っていたのだ。
「あーあっ、髪も着物もヤニ臭うなったっ」
サギはほうほうの体で蜜乃家を逃げ出すと尻尾のような髪をブンブンと振り廻し、パンパンと筒袖とたっつけ袴を叩いた。
元々、お花に付き合わされてしぶしぶと付いてきただけなのに、とんだ目に遇った。
「ええと、こっちの通りへ出たら火の用心の夜廻りと同じ道順ぢゃな」
サギは夜廻りの時分と違って、まだ日の暮れやらぬ色町をキョロキョロとしながら進んだ。
どこの茶屋もまだ支度中で軒の提灯に灯りも点らぬうちから人通りは多い。
そこへ、
「なんと言うても吉原よりこっちゃがええでな」
「なにしろ金が掛からん」
「わしゃ三度目ぞ」
見るからに田舎侍といったツンツルテンに短い袴の藩士らしき三人組がウキウキと急ぎ足で角を曲がっていく。
(どこぞへ行くんぢゃろ?)
サギが田舎侍の後に続いて角を曲がってみると通りをびっしりと埋め尽くした人垣の向こうに葦簀の屋台が見えた。
(あれ?夜廻りの時はなかったぞっ)
昼間のうちだけやっている露店であろうか?
あれだけの人が押し寄せているのだから、さぞかし美味しいものがあるに違いない。
「うわぃ」
サギは食べ物の屋台だとばかり思い込んで一目散に走っていった。
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