富羅鳥城の陰謀

薔薇美

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待てど暮らせど

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 また一方、

「――遅いっ」

 サギはずっと桔梗屋の裏庭の縁側から裏木戸を睨み続けていた。

 そろそろ昼八つ(午後二時頃)が近い。

「オヤツが来るのが遅いんぢゃあっ」

 サギは縁側に座った足をバタバタさせる。

 もうとっくにお花も稽古から帰ってきて、とっくに昼ご飯も済ませたのに今日のオヤツがまだ来ないのだ。

「オヤツってお侍さんのことだえ?お侍さんだって、そうそう毎日、暇ぢゃないわな」

 お花は座敷で刺繍台に向かって熱心に手鞠てまりの図案の刺繍を刺している。


「それっ、三連発だっ」

 ブ、ブ、ブー。

「わしは二連発っ」

 ブ、ブー。

 裏庭では休憩の小僧の四人がいつもの屁放へっぴくらべをして遊んでいる。

「……」

 お桐は仕立て物の座敷から杉作と同じ年頃の小僧等の楽しげな様子を切なげに眺めていた。

 今頃、杉作は一人で重たいまき背負しょって売り歩いているのだ。

「おいらは四連発っ」

 ブ、ブ、ブ、ブー。

「さすが八十吉どんっ」

 小僧等の笑い声が弾ける。


「……」

 桔梗屋の小僧と比べても見劣りせぬどころか杉作のほうがよっぽど賢そうなのにと思わずにはいられない。

 お桐は虚しくてならなかった。


 そこへ、

「毎度、貸本にござります」

 貸本屋の文次が裏木戸から入ってきた。

「ちえっ、文次か。オヤツぢゃのうてガッカリぢゃっ」

 サギにとって文次は自分を騙してコケにした我蛇丸と同じく憎々しい仇敵だ。

「おう、サギぃ」

 文次はしれっとしてサギに笑い掛ける。

「なんぢゃ、馴れ馴れしい。わしゃお前なんぞ知らんがのう。どこぞの誰ぢゃったかのう?」

 サギはフンと鼻息を飛ばしてそっぽを向く。

「お前、今、『ちえっ、文次か』と言うておったくせに」

 文次はやれやれという顔をした。

 午前中から貸本の得意先を廻っているので我蛇丸が富羅鳥へ戻ったことはまだ知らない。

「――おや?森田屋の番頭さんの――?」

 文次は背負った風呂敷包みを縁側に下ろす時に座敷で針仕事しているお桐に気付いた。

「あの――、ご無沙汰を――」

 お桐は貸本屋の文次に気付いていたが、どう挨拶したものか困っていたのだ。

 三年前まで文次は三日に上げず森田屋の番頭の家へ貸本に通っていた。

 番頭の女房の頃のお桐は好きな針仕事だけして、掃除、洗濯、炊事はすべて女中任せだった。

 いつも自分で縫った自慢の着物をとっかえひっかえしてお洒落に優雅に暮らしていたのだ。

 その着物も火事でみな焼けてしまったが。

「……」

 お桐は落ちぶれて今では色褪せした古い着物を着ている自分を文次に見られたことが恥ずかしくてならなかった。

 そんなお桐の気持ちを察するように文次は座敷へは目を向けず、さっさと風呂敷を開いて木箱を出した。

「わしも後でうちの子に赤本か何か借りようかね」
「あたしも」
「子をダシにしてぇ」
「自分が文次さんとしゃべくりたいくせに」
「そりゃそうさ」

 下女中五人はウキウキとしている。

 文次は決して美男という訳ではないが忍びの者ならではの清潔感の溢るる爽やかなシャキッとした見た目で女客に人気があった。

「貸本屋さーん」

 小僧はみなしつけが行き届いているので貸本に触る前にちゃんと井戸端で手を洗ってきた。

「平賀源内の『屁放論へっぴりろん』の後編はあるかいっ?手代の銅三郎さんがおいらに借りて下さるんだ」

 小僧の八十吉は前に借りた『古今屁歌集』を文次に返す。

「あいすみません。二年前に出た本にござりますが、まだまだ屁放へっぴり人気で順番待ちにござりまして――」

「えぇえ、ずうっと貸し出し中なのかい?」

 八十吉はガックリと肩を落とす。

「平賀源内の本なら他にもござりますが、小僧さんには――まだ――あいや、なんとも――」

 文次は平賀源内の『江戸男色細見 菊の園』や『男色評判記 男色品定』などを小僧に勧める訳にもいかず苦笑いする。

 まさか、このわずか三ヶ月ほど後に平賀源内が酒に酔った上の勘違いから一緒に飲んでいた大工を斬り殺し、投獄されて獄死してしまうとは誰も夢にも思っていなかった。

 
 ゴォン。

 昼八つの鐘。

「――あっ、オヤツの時分ぢゃ。まだオヤツが来んのにっ」

 サギはまた縁側で裏木戸を睨み続けた。

 
 そのうち実之介が手習い所から帰ってきた。

 いつもの桔梗屋のカスティラの耳がオヤツに出された。

 実之介とお枝はお栗と一緒にオヤツの後は裏庭でニョキニョキ草をピョンピョンと飛び出した。

 お花は目覚ましく上達した刺繍にもう夢中だ。

「遅いぃぃっ」

 サギはカスティラの耳をムシャムシャと齧りながら裏木戸をひたすらに睨み続けた。

 しかし、待てども待てどもオヤツの八木は桔梗屋に姿を現さなかった。
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