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薬種問屋の旦那
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「ご免なすって」
虎也は日本橋本町の薬種問屋を訪れた。
日本橋本町は日本一高い羊羮で有名な菓子司の鈴木越後もあるが薬種問屋の多く集まる町である。
「おや、虎也さん。どうぞ、奥へ。旦那様はお出掛けにござりますが、追っ付けお戻りになられましょう」
一番番頭が愛想良く出迎え、女中が虎也を奥の客間へ案内する。
この薬種問屋は日本橋本町で一番大きい丁子屋。
その丁子屋の旦那とは誰あろう虎也の父、又吉である。
又吉は十歳でこの丁子屋に小僧として奉公へ上がって、とんとん拍子に番頭まで出世し、十年前に丁子屋の娘婿になると、まもなく先代が亡くなったので首尾良く旦那の座に収まった。
又吉に芸妓のお虎との間に虎也という子がいることも丁子屋のみなが承知している。
前述のとおり商家の奉公人は十九歳で手代になると大人の遊興が許されるので芸妓との間に子がいても何ら不思議はないのだ。
(――むん、桂皮のニオイか)
冷え性に効く桂皮(シナモンのこと)の入った薬湯を沸かしているらしく芳ばしいニオイが漂ってくる。
虎也はクセの強いニオイにちょっと顔をしかめた。
晩には芳町の茶屋の恵比寿へ行くので移り香でここへ来たことを知られたくはない。
そこへ、
「虎也さ~ん、いらっしゃ~い」
明るい間延びした声が障子の向こうから響いた。
お茶を持ってきたのは丁子屋の娘で、又吉の女房のお桂だ。
「こないだ、来たんでしょ~?あたしに顔も見せずに帰っちゃって水臭いぢゃないの~」
まだ二十四歳という若さで虎也と五歳しか変わらない。
お桂はポンポンの大きな腹をしている。
「――あ、赤子が?」
虎也は(またか)という顔でお桂の大きな腹に目を留めた。
お桂が又吉と夫婦になったのは十四歳の時で産みも産んだりすでに七人の子供がいる。
この時代の庶民は十三歳から婚姻が出来るし、娘は初潮が始まれば嫁入りの資格を得たも同然なのだ。
「そう、八人目~。来月の初めにも産まれるんだけど~、なるたけ動かないとお産が重くなるから~」
お桂は女中ではなく自分でお茶を運んできた言い訳のような口振りだ。
(来月の初め?寄りによって、たぬき会のある時期に産まれるとは――)
虎也はますます父、又吉に将軍様の暗殺という無謀な計略などやめさせなくてはと意を強くした。
「お腹が目立ってきてから出掛けらんないでしょ~?退屈で堪んないの~」
お桂は大店の箱入り娘らしい甘えん坊な口調であるが、いかんせん、その器量はお多福であった。
へちゃむくれを絵に描いたようなお多福で身重ということを割り引いてもぼってりした鈍重な女だ。
「虎也さん、こないだの山算屋の火事で目を傷めなすったって~?」
「はあ――」
「あたしゃ火事場を窓から見ようとしてな~、おっ母さんにこっぴどく叱られたんだえ~」
「ほお――」
「身重の時に火事を見るといかんて言うけど何でだろ~?虎也さん、火消の纒持ちだし~、聞いたことないかえ~?」
「さあ――」
「火ぃ見たらいかんのなら釜戸で飯炊きもしたらいかんと思わんかえ~?」
「まあ――」
虎也は二文字だけの返事の使い分けでお桂のどうでもいいおしゃべりに付き合っていた。
器量自慢の鼻持ちならぬ性悪の猫魔の女と違ってお多福で屈託なく気立ての良いお桂でも、ことごとく女は苦手である。
だが、常日頃から気軽に丁子屋へ出入りする関係を保つことは、なにより大事だ。
虎也はつい先日も又吉の留守に訪れて、こっそりと眠り茸を頂戴したのだ。
眠り茸は毎年、秋になると間者のお縞が富羅鳥山から採ってきて又吉に渡していた。
ほどなくして、
「おお、虎也、いったいどうした風の吹き廻しだ?」
帰宅した又吉が客間へ入ってきた。
昨日、羽衣屋で虎也に将軍様の暗殺計略を聞かせたばかりだというのに久々に逢ったかのようにトボケた芝居をする。
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