Ambivalent

ユージーン

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147. Front Bird

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「あの……なにをされているんですか?」
 里中葵は、トレーニングルームに居た綾塚沙耶と鵠美穂に問う。二人はとても奇妙な体勢をしていた。
「アクロヨガよ、知らないの?」
 沙耶の足に支えられて美穂が言った。
「知らないです……でもなんだか楽しそうですね」
「あんたもやってみる? 腹筋鍛えられて、次の日は悶え苦しむわよ」
「前言撤回します」
 沙耶の方はマットを敷いた床面に横たわり、足を骨盤の真上に持ち上げている。そして美穂は天井に伸びた沙耶の足裏に腹筋を乗せて、バランスを保っていた。まるでマントを付けたヒーローが空を飛ぶかのように。
「ところで……どうかしたのか?」
 沙耶が美穂を支えながら訊いてくる。一部分だけ赤く染めてある彼女の前髪は汗でベトついていた。
「はい。えっと……早見さんからミーティングがあるとの連絡がきました」
「ミーティング?」
「合同作戦があるみたいなので、その打ち合わせだと思います。わたしも同席します」
 美穂が沙耶と顔を見合わせてから、降りた。現役捜査官二人の鍛えられた身体。腹部にはうっすらと腹筋が見えている。現場に出る捜査官は同然ながら、体力が必要不可欠だ。あんなふうにスレンダーになれるなら、自分もここを訪れて鍛えるべきだろうか、と葵は思った。
 トレーニングルームに隣接してるシャワー室に二人は向かっていった。しばらく待つように言われたので、葵は時計を確認する。ミーティングは一時間後、時間はまだある。
 葵はタブレット端末を取り出すと、綾塚沙耶の経歴を確認した。
 【彼岸花】のアカデミーに入学する以前から、彼女は対吸血鬼との戦闘に自ら進んで突っ込んでいる。それについては、何度か厳重注意されたものの、それでも止めることはなく、非公式にどれだけ吸血鬼を殺したのかは記録できていない。しかも、戦闘においては近接戦闘でナイフを使うことが主だ。射撃の腕に関しては──これは公表されてないが──目をつむる必要があるくらい、言ってしまえば毛が生えた素人の方がマシらしい。
 葵は何度も読んだ沙耶のプロファイルを見て、胸が熱くなるのを感じた。組織に属することなく、自分の信念に従って行動している、それがよく伝わってくる。彼女のようなもっと人がいれば、血を吸う怪物に悩まされる人は今よりも、ぐっと減るはずだ。そして、彼女に仕えることができるなら、自分もその役に立つことができる。そうして、殲滅するのだ。化け物たちを。
 続いて、葵は美穂のプロファイルも閲覧した。沙耶ほど熱心に読み返しはしてないが、彼女のこれまでの人生は、一度読むだけでも壮絶なものだとわかる。
 両親に売り飛ばされ、青春時代を捧げた相手は吸血鬼。その数年間の間は、彼女は吸血鬼に血を捧げるだけの家畜同然の存在。それを救ったのが、当時から身勝手にそして自由に吸血鬼狩りに勤しんでいた綾塚沙耶。彼女に助けられてから、美穂はこの道に進むことを選んだ。
 美穂の現在の立ち位置は努力の賜物と言えた。勉学に励む時間を吸血鬼に奪われても、アカデミー在学中の僅か一年で理数系の成績で上位を叩き出していた。数学的な要素は狙撃手スナイパーにとって必須であり、美穂の潜在能力は、それに特化している。
 接近戦を得意とする沙耶にとっても、美穂の狙撃による援護は必要不可欠なものとなっていた。まさにパートナーと呼ぶにふさわしい。その二人の手助けができるなら、どれだけ光栄なことだろうか。
 少しして、汗を流し終えた二人が出てきた。格好は同じままだが、服は新しく着替えたのか柔軟剤の香りがほのかに漂ってくる。
 トレーニングルームを出ると、二人に並ぶように葵は付いていく。
「それで、わたしたちだけなの? ミーティングとかやるなら、どこか他の隊と一緒ってパターンじゃないの?」
「はい。たしか、蜂谷はちや隊の人たちと合同って聞きました」
 葵が言うと、沙耶が足を止めた。
「蜂谷……?」沙耶は眉をひそめ、険しい表情を作っていた。
「どうかしたんですか、副隊長?」
「いや……蜂谷、か……」
「知ってる人なんですか?」
 葵が訊くと、沙耶はため息をついた。表情もどこか憂鬱そうに見える。
「アカデミー時代のときに講師だった。射撃関係や戦術面とかのな」
「なにかあったんですか?」
「いや、別にわたしは気にしてはない。口酸っぱく言われたことも多かったが。それよりも、京の方が嫌だろうな」
「柚村先輩が……?」
「スパルタだったからな。あの遅刻魔も奇跡的に半年間だけは時間どおりに動けたよ」
「それ本当なんですか?」
 美穂が懐疑的に言う。柚村京に遅刻癖があることは、葵も認知していた。
「なんで半年だけ? 射撃の訓練は、ほぼ年中やってますよね?」
「途中で教官が変わった。蜂谷が現場で問題を起こしてな」
 沙耶は一呼吸置いてから続けた。
「逃走していた吸血鬼をおびき出すために、その家族に銃を向けて脅したらしい。そして、現れた吸血鬼を家族の目の前で射殺した。家族の方も、匿っていた可能性を考慮して拘束して尋問した。それがマスコミにバレて、蜂谷は世間から大きく非難された。捜査官としては優秀だったから、半年の謹慎処分ですんだ。講師の任は解かれたが」
「そうなんですね」
 葵は事情を聞き、頷く。やり方に非難される要因があるのは当然だが、 それが素直な感想であり、世間の理不尽さに苛立つ。
「なんで捜査官って後ろ指をされなきゃいけないんですかね。吸血鬼と戦って平和の維持に貢献しているってのに」
「そういう気持ちはわかるけど、仕方ないわよ。外からだと、どうとでも言えるんだから」
「でも納得できません。世間の人は誰が危険を顧みずに働いてるかもう少し考えるべきです」
 葵が言い終えると、遠くからこちらにやってくる三人の人影が見えた。早見隊長と、上條真樹夫、そして美濃原カイエだった。
「おつかれ、トレーニングしてたの?」
「はい、そちらは?」
「ミーティング前の準備って感じね。一人が欠場だから」
 早見はそう言ってカイエの頭を撫でる。
「具合はどうなんですか?」
 葵はカイエに訊いた。カイエの経歴や成績は平均的なものだと葵は記憶している。目立つようなことも特にない。先日、怪我をして吸血鬼を逃したことも新人という免罪符が助けてくれていることだろう。
「まあ、経過は順調ですね」
 唯一引っ掛かりがあるとすれば、敬語が嘘っぽいというところだった。この点は無理して使っていると解釈すればその通りだし、葵自身も敬意を払うべき人間は選んでみているので別に指摘する気もなかった。
「復帰したらたのむぞ」
 沙耶が短く言うと、美穂も反応した。
「余計な心配かけるんじゃないわよ、わかってるの?」
 少し厳しい美穂の物言いに、カイエは小さく笑みを作る。これもどこかな、と葵は思った。彼が素直に嫌な顔をしたら、果たして美穂はどんな反応をするだろうか、とも考えた。
「あとは、お仕事中の京くんとあんじゅちゃんに、オフの幸宏の三人ね」
 早見が言い終えると、タイミングよくその三人が現れた。なにやら騒がしく議論を交わしながらこちらに向かってくる。
「それは、諦めた方がいいですよ」
「なんとか上手く持って帰ってもらう方向にいけねえかな。柚村もなんかアイデアねえのか?」
「いや、彼女のナース服なんて職場に行けばいつでも見れるだろ」
「そうですよ。そもそも氷姫さんは愛さんの仕事着なんか家に持って帰って、なにに使う気ですか?」
「……なにっておまえ……なんとなくわかるだろ」と京
「え? あっ……! ああ……、氷姫さん。男ですもんね」
「ちょっと待て! 俺をそんな軽蔑した目で見るのやめてくれねえか!?」
「そういえば前科ありましたね。すっぽんぽんで二人でイチャイチャの」
「おまえ……後輩になに見せつけてんだ。相当な上級者だな」
「ちげえって! 俺の話聞けよ!」
 なんの話をしているのかわからず、葵含め他の面々はきょとんとしている。
「どうしたの? えらく真剣に議論してるけど、なんの話?」
「いや、それは……」
「なによ? 付き合い長いのに今さら隠し事?」
「いや……付き合い長くてもダメな話題とかありますよね早見さん」
 幸宏は歯切れが悪く困り顔になった。
「恋人の仕事着を家に持って帰って楽しみたいけど、なかなか了承してくれないから、いい案ないか考えてもらえますか?」
「おいぃぃ!? 柚村お前ぇぇ!!」
 京が代弁し終えると、沙耶と美穂が呆れ果てた。早見の方は部下の若さ故の行いに、理解力のある落ち着いた笑顔を見せる。男性陣は特にコメントはしない。
 葵は、頭の中の氷姫幸宏のプロファイルに“性癖、コスプレ好き”と付け加えた。
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