Ambivalent

ユージーン

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apoptosis

68. Geranium

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 喉を掻っ切った吸血鬼が灰になったことを確認したカイエはナイフを仕舞う。袖に付着した吸血鬼の血を見てため息を一つ。外回りで気に入っている服を着るのは止めようと、遅すぎる誓いを立てた。
「……本当にここなんですか?」
 カイエは、副隊長の綾塚沙耶に訊く。沙耶からの連絡を受けて指定された場所に赴くと、一緒に来るように銘じられた。説明によれば、この付近で吸血鬼の目撃証言があったらしく、その討伐に来いとのこと。
「そうだ」
「数はどれくらいです?」
「さあな。一人だけ能力種がいる、それだけ注意しておけ」
「……ですか?」
 例の──永遠宮千尋のことだろうか。電話口で沙耶はなにも語らなかったが、微かな予感はしていた。
「だったら?」
「自分たちの隊は関わることも禁止なはずですけど?」
 首を突っこめば、処分が下るだろう。たとえ標的の吸血鬼を倒したとしても、違反は違反だ。
「頭を柔らかくしろ、美濃原。見回り中に吸血鬼の目撃証言があった。だったら、出向いて捜索中の吸血鬼に遭遇して、戦闘になっても問題はないだろう?」
 沙耶は冷めた目をして言うが、口元には少しだけ笑みを残している。裏をかいたとか、出し抜いたとかそんな感情が微かに込められていた。この行いが作為的なのは明確だった。
「申し訳ないですが、隊長に連絡します」
 スマートフォンを取り出そうとしたところで沙耶はカイエの手を掴む。
 痛みをカイエは感じた。沙耶は小さな身体に似合わず怪力を備えている。本気ではないにせよ、この行いが上司によるパワハラなのは間違いないだろう。
「お前はもう少し聞き分けがいいと思っていたが」
「俺ももう少し常識ある人と思ってましたよ」
 カイエは沙耶を睨む。しばらくの間、なにも言わずに両者は睨み合う。突然、カイエは銃を引き抜き──沙耶の背後に迫っていた吸血鬼を撃った。
「……、美濃原」
 至近距離での銃声に顔を歪めた沙耶から一言。警戒と狼狽の声が周辺で聞こえ始めた。
「あとで頭を撫でてやろうか」
「それは、鵠さんにしてやってください」
 やられた、とカイエは内心舌打ちをする。沙耶はわざと自分に撃たせた。自身の危険などかえりみず、周りの吸血鬼たちを呼び寄せるために。こうなれば、戦闘は避けられない。
 沙耶の吸血鬼への執着は、京やあんじゅから聞いていたカイエだが、改めて思い知る。
「それで、どうするんですか?」
「仕事をするだけだ」
 銃声のした方に一番乗りでたどり着いた不運な吸血鬼の心臓を沙耶はナイフでえぐる。
「ところで、柚村さんは?」
 柚村京の姿が見えないことに、カイエは着いた時から疑問を抱いていた。だが沙耶の方も心当たりがないのだろうか、かぶりを振る。
 近づいて来る足音が徐々に増えてきた。現れた吸血鬼をカイエは射殺する。
「私は北から行く。お前は西側の入り口から入って、目に入った吸血鬼を全て撃て」
「……了解です」
 承諾したカイエは、命令通り西側に向かう。
 綾塚沙耶。本当にメチャクチャな上司だ。



 ○



 遠くで聞き慣れた乾いた音が聞こえた。その正体が銃声なことを京はすぐに理解した。問題は、引き金を引いたのは誰か、という点だ。味方だと早合点はしない、むしろ警戒心の方が先に出てきた。銃声は何度も鳴り、その度に周囲の声や足音が慌ただしくなっていく。
 京は手錠を再び外そうとする。動きを制限されているこの状態では、なにかが起こった時に対処するのは容易ではなかった。それに、この混乱を利用して抜け出せるかもしれない。
「クッソ……あいつ……!」
 何度も腕を引っ張るが痛むだけだった。京は諦めて周囲を見回すが、使えそうなものはない。そうこうしていると、また銃声が響いた。今度は先ほどよりも近くで。
 発砲音は少しずつ近くなっていた。それに伴い、吸血鬼の気配のなかった周辺もざわつく音が聞こえ始めた。
 突然、一人の男の吸血鬼が京の前に現れた。吸血鬼は、京を見るとその場で固まった。目を丸くし、京の様子を観察するように上から下までジッと凝視している。そのうちに、京が身動きできない状態だと知ると、吸血鬼は目の色を変えた。
 最悪だ。京は頭を抱えたくなった(手錠のおかげでできなかったが)。銃声が響き渡る中で、吸血鬼は発砲者の正体を確かめに行くより、近づいてきた
「お、おい……待て、これ見ろ、これ!」
 京は自分のおでこを指差す。先ほど千尋がマジックで書いた文字に注目させようとした。作戦通り、吸血鬼は寸前で歩みを止めた。だが、すぐに鬼のような形相に変わる。
「……少しくらいなら問題ねえだろ。こっちは、作戦間近で忙しくて人工血液しか飲んでねえんだ……!」
 苛立った吸血鬼の牙が京の喉元を狙う。歯が皮膚に触れるその寸前、吸血鬼が引き離された。何者かが京から吸血鬼を引き離したのは。
「字が読めないの? 僕のだよ」
 千尋の声がした。声には怒りの念がこめられている。引き離された吸血鬼の方も、食事にありつけれなかった怒りを千尋にぶつけだした。
「ふざけんじゃねえ! ひょっこり現れて、能力種だからってデカい口叩きやがって! 一番新入りのテメエがよぉ!」
 吐き散らしながら、吸血鬼は千尋を指差す。
「寝返りクソビッチが……! テメエが仁さんに気に入られてるからなんだってんだ! 誰もテメエのことを仲間だなんて思って──」
 吸血鬼の言葉は弾丸によって断ち切られた。撃ったのは、他でもない千尋だった。仲間を撃った千尋はなにも言わずに振り返ると、京の手錠を外す。
「これで自由だよ」
 京に笑みを見せる千尋。その表情は、不自然さを抱くくらいに明るい。今さっき言われた言葉に傷ついているのがひしひしと伝わってくる。
 千尋、と出かかった言葉が喉元で止まる。千尋がなにを考えているのか京にはわからなかった。仲間だと認められてもいない組織に属して、自分たちの敵になる。なんのためにそんなことを行なっているのか。
「ほら、行きなよ。どさくさに紛れて今なら逃げれるよ」
 言い終えた刹那、ナイフが千尋の頬をかすめた。刃が千尋の頬を一文字に削ぎ、血が滴り落ちる。京の方も、あと数センチのズレで刃の餌食になるところだった。
「……沙耶か」
 頬の出血を押さえて千尋が振り返る。立ち上がった京も、数メートル先に佇む沙耶の姿を捉えた。
「挨拶にナイフを投げつけるなんて。やれやれ、本当に恐ろしいことをするね、きみは」
 千尋は遠くに立つ沙耶に声をかけるが、沙耶の方はなにも答えない。冷ややかな目付きをしたままじっと千尋を見据えていた。
「……だんまりかい」
 千尋がため息をつく。沙耶は不気味なくらいなにも喋らない。寡黙を貫いたまま、沙耶はもう片方の仕舞っていたナイフを引き抜いた。
「京」
 寡黙を破った沙耶は目の前にいる千尋を無視して、その向こうにいる京を呼ぶ。
「ナイフを。早くそいつを殺せ」
 無情に言葉を投げつけると、沙耶は新しいナイフを取り出して構える。仲間だったという気持ちは一片たりとも含まれていなかった。
「ああ……やっぱり、。沙耶」
 寂しそうな口調でそう言うと、千尋は沙耶に銃を向ける。言葉を交わして、傷つかず血の流れない方向には持っていけそうにない。話し合いを破棄したのは沙耶の意思だ。そして、千尋も確かにそれを受けとり、承諾した。だから、銃口をかつての仲間に向けている。気が乗らないといった風だが、そうさせたのは沙耶の方だと言わんばかりの口調で一言告げる。
「残念だよ、本当に」
「……京」
 千尋の言葉を無視した沙耶は再び京を焚きつける。京の正面には千尋の背中が見えていた。ナイフを突き立ててくれと言わんばかりの、無防備で無警戒な背。
 京は沙耶が先ほど投げたナイフを見る。だが、次の動作には移れなかった。手に取って、そうすれば、なにもかも終わるはずなのに。
「京」沙耶の語気が一層強くなった。「そいつのせいで、また誰かが吸血鬼と化したり、死ぬことになるぞ」
 その言葉を受けて、京の脳裏に一人の人物が浮かぶ。モールであんじゅが助けると約束したが、結局射殺することを余儀なくされた、あの母親。自分が殺めることになった、あの吸血鬼。今ここで千尋を逃せば、彼らと同じような運命を辿る人間がまた増える。無関係な者たちが苦しむことになる。
 京は壁に刺さったナイフを取る。千尋の隙だらけの背中を一度だけ確認する。次の瞬間、閃光と衝撃波、耳をつんざく爆音に襲われた。



 耳鳴りがした。世界の音が完全に遮断されたみたいに感じた。
「くっ……そ……」
 京は覆い被さっていた段ボールの束をどかせると、身体を起こした。起こしてから、自分が床に倒れこんでいたことを知った。
「なんだよ……痛っ……」
 悪態をつき、なにが起きたのか周りを見渡す。目の前に海が見えた。その場所は先ほどまで倉庫の汚れた壁で遮られていたはずなのに、今は東京湾が見える。強い焦げ臭さと微かな潮の臭いが鼻を刺激した。
 京は倉庫の壁を形成していた場所を見る。なにかが爆発して、壁を吹き飛ばした。そう理解するのは簡単だったが、なにが自分を吹き飛ばしたのかはわからなかった。ふと、京の頭に二つの存在が浮かぶ。沙耶と千尋はどうなったのか。そう思っていると、目の前の瓦礫の山が盛り上がり崩れ落ちる。中から沙耶が現れた。
「大丈夫か?」
 京は手を差し出すが、沙耶はそれを払いのけて辺りを見回す。千尋の姿は見当たらない。灰はない。瓦礫に埋もれた可能性も考えたが、千尋が身に纏っていた衣類も見当たらない。もし死亡していたら、身に纏っていたものは残るはずだ。それが見当たらないということは、爆発の混乱に乗じて逃げたのだろう。
「どうしてすぐに殺さなかった」沙耶の口から厳しい譴責けんせきの言葉が飛ぶ。「二体一でなら確実に仕留められた。お前が迷いさえしなければな」
 沙耶の非難は口だけではなく、険悪に見据えてくる目からも充分に感じられた。お前のせいだ、と言いたげなのが伝わってきた。
「悪いとは思ってるが、そう簡単にできるわけねえだろ。あいつは俺らの仲間だったんだ」
「今は吸血鬼だ」
 冷たく言い放つと、沙耶は再び痕跡を探し始める。吸血鬼に対して冷淡無情なのはいつも通りだった。だが今回は他の、見知らぬ吸血鬼とは違う。自分たちのよく知った、人間だった頃を知っている吸血鬼が相手だ。いざ目の前にして、そう簡単に心を切り替えられるはずがない。
室積むろずみさんのときにお前なら簡単だろうな」
 京は皮肉と苛立ちを込めて沙耶に言う。その言葉に反応した沙耶は、京に近づくと胸ぐらを掴んだ。珍しく感情的な行いをした沙耶だが次に発せられた言葉はいつも通り、淡々としていた。
「次にまたその話をしたら、その歯をへし折るぞ、京」
 手を放した沙耶は千尋の痕跡を再び探す。だが見つからないと判断してか、諦めて再び京をめつけた。
「一つ訊くが、どうしてここにいた?」
「千尋のやつに連れてこられた」
 それを聞かされて、沙耶は眉をひそめた。
「銃はどうした?」厳しい口調だった。銃さえあれば、そうやすやすと主導権は奪われはしないはずだ。
「……取られた」
 京は少しばかり答えるのに躊躇ってしまった。捜査官が銃を奪われて、それで吸血鬼にアジトまで連行された。こうして思い返せば実に情けないことだし、ありえないだろう。
「正直に言う。……私の中でお前の評価がものすごく下がってきている」
「うるせえ」
 信じられないといった目で見てくる沙耶に一言返す。失態を犯したことは京自身が一番わかっている。
「……そのわけのわからんはあいつか?」
 ああ、と京は答える。そういえば、顔に悪戯書きをされていたことを思い出した。今になって千尋を恨む。他人に見られることでひたいと頬の文字がより一層厄介なものに思えてきた。
「まさかとは思うが、京。お前吸血鬼の側についてるのか?」
「さすがにそこまで疑われんのは心外だぞ」
 京は何度か手で顔を擦って、文字が落ちたかを沙耶に訊くが、一瞥するだけでなにも答えてくれない。京は再び皮膚が削れるくらい擦る。摩擦でひたいが熱を帯びた。
 これくらいでいいだろう、と思い、拭う作業をやめた京は沙耶にナイフを返す。だが、沙耶の方はかぶりを振って受け取らなかった。まだ持っておけということなのだろう。
「一人で来たのか? それとも、鵠と?」
 未だに離れた場所では銃声が鳴り響いていた。誰かが吸血鬼を攻撃している(その逆も考えられたが)のだろう。
「いや、呼んだのは美濃原だけだ」
 となれば、吸血鬼の相手をしているのは美濃原カイエか。カイエの対吸血鬼戦闘の能力は折り紙つきだがまだ新人だ。吸血鬼のアジトに呼び出して単身で放り出していいのだろうか。
「あいつ一人で大丈夫なのかよ」
 京が危惧していると、背後から物音が聞こえた。警戒した京と沙耶は振り返るが、やってきたのは噂をすればの人物だった。
「大丈夫ですか?」
 ああ、と京は現れたカイエに答える。京の姿を見たカイエは一瞬反応を示したが、なぜここにいるかなど、言及してくることはなかった。
「二人ともひどい格好ですよ」
 その代わりに指摘してきたのは、京と沙耶の汚れた姿だった。先の爆発の影響でかなり二人とも汚れている。
「こいつよりはマシだ」
 沙耶が京の顔を見て言う。
「確かにそうですね」
 同じく顔を見て、しれっとそう言ったカイエに京は顔をしかめる。まだ落ちてないのだろうか。もう一度顔を擦ろうとしたそのとき、銃声が鳴り響いた。音を聞いた京は警戒した面持ちになって顔を上げる。銃声はカイエじゃない。だとすれば、誰だ。誰が誰を撃っているのか。
「ここに来たのって、お前らだけか?」
 京は二人に訊く。返事が返ってくるよりも先に、背中に痛みを感じて、倒された。
「とっ捕まえましたわよ、この吸血鬼ッ!」
 背後から突然勇ましい女の声がした。自分の身体に体重をかけている者の正体を確かめようとした京だが、頭を押さえつけられた。抜け出そうと試みる京だが、より一層力を込めて押さえつけられる。
「あらあら、あなたおバカさんかしら? 抵抗は無駄ですわよ!」
 荒々しいお嬢様風な声がした。自分を押さえつけている人物だろうか。どこかで聞いたことのある声だったが、誰かは京は思い出せなかった。
「悪いですわね。わたくし、被害に遭われた吸血鬼には寛容ですが、悪者に関しては容赦はしませんわ!」
「ちょ……ちょっと待ってくれ」
「往生際が悪いですわよ!」
 押さえつけてくる力が一層強くなる。
「気の毒ですが、収容所へは送れませんわ。ごめんあそばせ──」
「離れろ」
「えっ……ちょお!?」
 沙耶の声と小さな悲鳴がして、京を押さえつけていた手が離れた。解放された京は首を曲げて振り向く。首筋に沙耶のナイフを当てがわれ、怯えて青ざめた表情の女性が自分の背中に乗っている。京はその女性に見覚えがあった。
 美堂隊の副隊長、空金そらがねなぎさ
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