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とある男の後悔
昼下がりの静寂が石造りの館を深く満たしていた。書斎では暖炉の火が静かに揺れ、燃え残った薪がかすかな音を立てている。重厚な机の上には一通の手紙がきれいに折られて置かれていた。上質な紙、整えられた縁、ほのかに香る香油。そして封蝋に刻まれた家紋。そこには流れるように整った文字が並んでいる。几帳面な妻の気質をそのまま写し取ったかのような美しい筆跡だ。
重厚な机に向かう男――既に実権を失った名ばかりの当主、リンデン公爵は深く腰掛けたまま、天井を見上げていた。視線は何も映していない。ただ、記憶にある妻の姿を思い浮かべていた。
「エリス…………」
胸の奥からせり上がるように妻の名前が口から零れた。
美しく聡明で気高い妻──彼女とは、もう何年も顔を合わせていない。
王都にいる妻との関係がここまで冷え切ったのは、誰であろう彼自身が犯した過ちによるものだ。
側妃の色香に惑わされ、長年守り続けてきた名家を自らの手で傾けてしまった。その時から夫婦の間にあった信頼は音を立てて崩れ落ちた。
「……愛していたんだ、エリス」
誰に聞かせるでもない言葉が静かな書斎に落ちる。失ってから気づく愛ほど愚かで残酷なものはない。彼女が王都に留まり、自分がこの領地に身を置くのもすべては彼自身が蒔いた種だ。窓の外に目を向けると、畑の向こうに灰色の空が広がっていた。領主の務めに身を投じることで償おうとしてきたが心の空白は残ったままだった。
手紙とは別に添えられた書類に目を通すと、静かに机の上へ置いた。
羽ペンを手にし、インクに浸したペン先を滑らせるようにその書類へ署名する。
それは”エーリヒ”という青年との養子縁組に関する手続きの書類と、カレンデュラ公女との婚約締結書だった。
(エーリヒという名の子息は一族の中にいなかったはずだ。この青年が誰なのかは気になるところだが、聞いても教えてはくれないだろうな……)
妻からの手紙には「レオナルドの後釜となる青年を養子とし、あわせて公女との婚約締結書に署名すること」という内容しか記載されておらず、その青年がどこの誰かまでは書かれていない。自分の知らない男を自分の養子にしろという指示も、その男をカレンデュラ公女と婚約をさせるという決定事項も、理不尽とは思わず公爵は黙って受け入れた。裏切りの償いとして妻の言うことは何でも聞くと誓ったからだ。
「……レオナルドも私と同じ過ちを犯してしまったか」
先日、息子のレオナルドが王都から久しぶりにこちらへやってきた。妻から知らされた情報によれば、息子は婚約者に数々の無礼な態度をとった挙句にお家乗っ取りまで企み婚約を解消されたらしい。女に傾倒した挙句に家を傾けるという自身のやらかしを遥かに超えた悍ましい罪に及ぼうとした息子がただ信じられなかった。
久しぶりに会った息子はひどく窶れていた。そこには記憶に残る華やかな貴公子の面影は影も形もない。
自分は悪い女に騙されただけ。本当に愛しているのはクロエだったのに。そう騒ぐ息子があの日の自分と重なって見えた。
それからレオナルドは部屋に籠ったまま出てこない。叱る資格も無いと自覚している公爵は、何も言わずしばらくはそっとしておくことにした。
あんなにも素晴らしい淑女と婚約しておきながら、誤った道を歩んでしまった息子の根底にあるものは自分と同じだと公爵はため息をつく。
――劣等感。
それが過ちの根底にあったものだと、今ならはっきり分かる。
妻のエリスはあまりにも出来が良すぎた。血筋、知性、立ち居振る舞い、そのすべてが洗練され、王都の社交界でも一目置かれる存在だった。彼女が微笑めば場は和み、意見を述べれば誰もが耳を傾ける。リンデン家の当主は自分よりも彼女の方がよほど「相応しい」と囁かれることすらあった。
そうしたことがある度に胸の奥では名状しがたい焦燥が燻っていた。妻を貶めて自分よりも下の存在に置きたいとすら思うようになった。そんな歪んだ感情と向き合う勇気もなく、彼は安易な逃げ道を選んだ。自分を無条件に称え、甘い言葉を投げかけてくる存在に身も心も委ねた。第三者から見れば分かりやすいほど騙されているだけだというのに、側妃の前では自分が頼れる素晴らしい男だと思えたのだ。
気が大きくなった自分は領民の血税を言われるがまま側妃へと貢ぎ、止めようとする妻に酷い言葉を投げかけた。
自分の言葉に傷つく妻を見ては昏い満足感に酔いしれた。
あまりにも愚かで、卑劣で、無責任な行為だったと、今なら理解できる。自分の劣等感が原因で妻子や使用人、他家の貴族からの信頼を壊し、家まで傾けてしまう最悪の結果となった。
息子もおそらくはそうなのだろう。自分よりも優れた婚約者に気後れし、その反動のように自分より劣る存在へと惹かれ、やがて依存していった。そしてその結果、全てを失い後悔する。自分と全く同じ道を辿った息子にかける言葉が見つからない。
「……私の歪んだ性質が息子にまで遺伝してしまったか」
掠れた声が書斎に落ちる。劣等感から目を逸らし妻を傷つける形で自尊心を保とうとした代償は、あまりにも大きい。素直に打ち明けていれば、優しい妻は自分に寄り添ってくれただろう。それをする勇気もなく、逃げるように過ちを犯した自分がひどく情けなかった。
あの時の妻の悲しい顔を思い出すたびに胸の奥が痛んだ。
愛していたのに、大切にしようと誓ったのに、結局傷つけてしまった。
しかも後始末を全て妻にやってもらっているのだから余計に情けない。
公爵は一度ペンを止め、窓の外を見た。灰色の雲の隙間から、わずかな光が畑を照らしている。
「……エリス、もう一度、君に会いたい……」
その想いが叶う事はないということはよくわかっている。その資格などないことも。
今はただ、従うだけの関係であっても、妻と関われることが嬉しい。
許される日など来ないと分かっていても──。
重厚な机に向かう男――既に実権を失った名ばかりの当主、リンデン公爵は深く腰掛けたまま、天井を見上げていた。視線は何も映していない。ただ、記憶にある妻の姿を思い浮かべていた。
「エリス…………」
胸の奥からせり上がるように妻の名前が口から零れた。
美しく聡明で気高い妻──彼女とは、もう何年も顔を合わせていない。
王都にいる妻との関係がここまで冷え切ったのは、誰であろう彼自身が犯した過ちによるものだ。
側妃の色香に惑わされ、長年守り続けてきた名家を自らの手で傾けてしまった。その時から夫婦の間にあった信頼は音を立てて崩れ落ちた。
「……愛していたんだ、エリス」
誰に聞かせるでもない言葉が静かな書斎に落ちる。失ってから気づく愛ほど愚かで残酷なものはない。彼女が王都に留まり、自分がこの領地に身を置くのもすべては彼自身が蒔いた種だ。窓の外に目を向けると、畑の向こうに灰色の空が広がっていた。領主の務めに身を投じることで償おうとしてきたが心の空白は残ったままだった。
手紙とは別に添えられた書類に目を通すと、静かに机の上へ置いた。
羽ペンを手にし、インクに浸したペン先を滑らせるようにその書類へ署名する。
それは”エーリヒ”という青年との養子縁組に関する手続きの書類と、カレンデュラ公女との婚約締結書だった。
(エーリヒという名の子息は一族の中にいなかったはずだ。この青年が誰なのかは気になるところだが、聞いても教えてはくれないだろうな……)
妻からの手紙には「レオナルドの後釜となる青年を養子とし、あわせて公女との婚約締結書に署名すること」という内容しか記載されておらず、その青年がどこの誰かまでは書かれていない。自分の知らない男を自分の養子にしろという指示も、その男をカレンデュラ公女と婚約をさせるという決定事項も、理不尽とは思わず公爵は黙って受け入れた。裏切りの償いとして妻の言うことは何でも聞くと誓ったからだ。
「……レオナルドも私と同じ過ちを犯してしまったか」
先日、息子のレオナルドが王都から久しぶりにこちらへやってきた。妻から知らされた情報によれば、息子は婚約者に数々の無礼な態度をとった挙句にお家乗っ取りまで企み婚約を解消されたらしい。女に傾倒した挙句に家を傾けるという自身のやらかしを遥かに超えた悍ましい罪に及ぼうとした息子がただ信じられなかった。
久しぶりに会った息子はひどく窶れていた。そこには記憶に残る華やかな貴公子の面影は影も形もない。
自分は悪い女に騙されただけ。本当に愛しているのはクロエだったのに。そう騒ぐ息子があの日の自分と重なって見えた。
それからレオナルドは部屋に籠ったまま出てこない。叱る資格も無いと自覚している公爵は、何も言わずしばらくはそっとしておくことにした。
あんなにも素晴らしい淑女と婚約しておきながら、誤った道を歩んでしまった息子の根底にあるものは自分と同じだと公爵はため息をつく。
――劣等感。
それが過ちの根底にあったものだと、今ならはっきり分かる。
妻のエリスはあまりにも出来が良すぎた。血筋、知性、立ち居振る舞い、そのすべてが洗練され、王都の社交界でも一目置かれる存在だった。彼女が微笑めば場は和み、意見を述べれば誰もが耳を傾ける。リンデン家の当主は自分よりも彼女の方がよほど「相応しい」と囁かれることすらあった。
そうしたことがある度に胸の奥では名状しがたい焦燥が燻っていた。妻を貶めて自分よりも下の存在に置きたいとすら思うようになった。そんな歪んだ感情と向き合う勇気もなく、彼は安易な逃げ道を選んだ。自分を無条件に称え、甘い言葉を投げかけてくる存在に身も心も委ねた。第三者から見れば分かりやすいほど騙されているだけだというのに、側妃の前では自分が頼れる素晴らしい男だと思えたのだ。
気が大きくなった自分は領民の血税を言われるがまま側妃へと貢ぎ、止めようとする妻に酷い言葉を投げかけた。
自分の言葉に傷つく妻を見ては昏い満足感に酔いしれた。
あまりにも愚かで、卑劣で、無責任な行為だったと、今なら理解できる。自分の劣等感が原因で妻子や使用人、他家の貴族からの信頼を壊し、家まで傾けてしまう最悪の結果となった。
息子もおそらくはそうなのだろう。自分よりも優れた婚約者に気後れし、その反動のように自分より劣る存在へと惹かれ、やがて依存していった。そしてその結果、全てを失い後悔する。自分と全く同じ道を辿った息子にかける言葉が見つからない。
「……私の歪んだ性質が息子にまで遺伝してしまったか」
掠れた声が書斎に落ちる。劣等感から目を逸らし妻を傷つける形で自尊心を保とうとした代償は、あまりにも大きい。素直に打ち明けていれば、優しい妻は自分に寄り添ってくれただろう。それをする勇気もなく、逃げるように過ちを犯した自分がひどく情けなかった。
あの時の妻の悲しい顔を思い出すたびに胸の奥が痛んだ。
愛していたのに、大切にしようと誓ったのに、結局傷つけてしまった。
しかも後始末を全て妻にやってもらっているのだから余計に情けない。
公爵は一度ペンを止め、窓の外を見た。灰色の雲の隙間から、わずかな光が畑を照らしている。
「……エリス、もう一度、君に会いたい……」
その想いが叶う事はないということはよくわかっている。その資格などないことも。
今はただ、従うだけの関係であっても、妻と関われることが嬉しい。
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