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牢獄の中で
湿った空気が肌に張りつく。石造りの壁は冷たく、夜になるとまるで墓の底のように静寂に包まれる。
独房の隅にひとりの男がいた。
ぼろ布のような囚人服に身を包み、背を丸め、鉄格子の向こうにあるかすかな月明かりを見つめている。
かつて絹の外套を羽織り、誰もがその名を口にした“元貴族”の姿はもうそこにはなかった。
その囚人──元ガーネット侯爵エリオットは震える手で一通の手紙を開く。
読み返すたび、意味が変わることをどこかで期待していた。
だが何度目に目を走らせても文字は変わらない。一見情熱的に見えるが、その実、皮肉と嘲り、拒絶に満ちている。
「……なぜだ。」
独房の中に声が漏れた。最初は呟きのような小さな声。
だが次の瞬間、抑えきれないほどの叫びが辺りに響き渡る。
「なぜだ! 離縁したとはいえ。一度は夫婦になった仲じゃないか……! 愛した夫がこんな目に遭っているというのに……何故救い出そうとしない!?」
セシリアが聞いていたら「愛したことなど一度も無い」と鼻で笑いそうな台詞をエリオットは叫んだ。
その叫び声に看守の影が一瞬だけ覗いたが、誰も何も言わなかった。
この牢の中で、彼の叫びなど風と同じ――ただ響いて、消えるだけ。いちいち構っていられないと看守は様子を見に行くこともしなかった。
エリオットの手紙を握る手に力がこもり、紙がくしゃりと音を立てる。
涙は出なかった。あまりに長い後悔と孤独の中で、涙というものはとうに枯れ果てていた。
「やっぱり怒っているのか? 君を放置して他の女をかまっていたから……」
蝋燭の炎だけが頼りの暗闇の中、エリオットは過去の己の行動をひどく悔やんでいた。
悔やむべき行いは数知れないが、とりわけ、結婚式の夜に新妻セシリアを置き去りにして、元婚約者キャサリンに会いに行ってしまったことを。
「あの時、キャサリンの訴えなど無視しておけばよかった。使用人が言ったようにあれは狂言でしかなく、本当に命を絶つ気などキャサリンにあるはずないのに……」
どこまでも甘ったれで幼いキャサリンが、自死を選ぶなど有り得ないと心のどこかで分かっていた。
それでも彼女の元に行ったのは、ただ好意を向けられていることが気持ちよかったからだ。
妻がいながら他の女性に好かれている自分を心地よく思い、ただその感覚に酔っていた。
「けど……セシリアだってあんなに怒らなくてもいいじゃないか。謝って関係を修復しようと思ったのに、あれほど拒まれてはその思いも萎えてしまう。セシリアさえ笑って許してくれていたら……キャサリンなんかに慰めてもらわなかったのに」
キャサリンの元から帰って来た日、誠心誠意謝罪しようとしたエリオットはセシリアから冷たく拒絶され、自分勝手にも気持ちが萎えてしまったのだ。それでもその後、初夜のやり直しを試みようとしたところ、セシリアから危うく実力行使されかけた。
それで自分勝手にも彼は“妻に拒まれた哀れな自分”を慰めるために、己を求めてくれるキャサリンへと心を寄せていった。感情をすぐ表に出すキャサリンからの好意はエリオットの自尊心を満たし、妻に冷たくされる悲しさを癒してくれる。それが心地よく、流されるままに彼女と関係を持ってしまい、ついには妻と離婚してキャサリンと再婚することになってしまったのだ。
冷たい妻から逃れ、愛する女と一緒になれる。本来ならばそう喜ぶべきかもしれないが、エリオットは自分が引き起こした結果に内心では困惑していた。怖いし冷たいセシリアだが当主夫人としての仕事は完璧で、それこそエリオットが遊び惚けていても家も領地も問題なく機能する。これがキャサリンなら……と考えなくても分かる。貴族夫人の器として考えるとキャサリンはセシリアの足元にも及ばない。その皺寄せは当然エリオットの方へとやってくるだろうことは確かだった。
そう考えたらキャサリンとの再婚はエリオットにとっての利益はなく、むしろ不利益ばかりだ。
キャサリンに対する好意は確かにあった。けれど、それは再婚を望むほど深いものではない。
しかも何故か再教育まで強制されてしまい、公爵邸で勉強漬けの日々が始まる。
そうしていくうちにまた気持ちが萎えてしまい、キャサリンへの好意も段々と薄れていった。
そんな時に会ったのが王女だ。初めて会った時には何とも思わなかったが、夜会で再会した際に頬を赤らめて恥じらう顔があまりにも可愛らしくて心を奪われた。おまけにセシリアが王女を遠ざけようとしてくる姿が嫉妬のように思えて、何とも言えない高揚感を覚えたのだ。それに王女には何故かキャサリンよりも心を惹かれる。
高貴で美しい王女が自分を慕ってくる。その事実が、エリオットの心に甘美な優越感を満たしていった。
独房の隅にひとりの男がいた。
ぼろ布のような囚人服に身を包み、背を丸め、鉄格子の向こうにあるかすかな月明かりを見つめている。
かつて絹の外套を羽織り、誰もがその名を口にした“元貴族”の姿はもうそこにはなかった。
その囚人──元ガーネット侯爵エリオットは震える手で一通の手紙を開く。
読み返すたび、意味が変わることをどこかで期待していた。
だが何度目に目を走らせても文字は変わらない。一見情熱的に見えるが、その実、皮肉と嘲り、拒絶に満ちている。
「……なぜだ。」
独房の中に声が漏れた。最初は呟きのような小さな声。
だが次の瞬間、抑えきれないほどの叫びが辺りに響き渡る。
「なぜだ! 離縁したとはいえ。一度は夫婦になった仲じゃないか……! 愛した夫がこんな目に遭っているというのに……何故救い出そうとしない!?」
セシリアが聞いていたら「愛したことなど一度も無い」と鼻で笑いそうな台詞をエリオットは叫んだ。
その叫び声に看守の影が一瞬だけ覗いたが、誰も何も言わなかった。
この牢の中で、彼の叫びなど風と同じ――ただ響いて、消えるだけ。いちいち構っていられないと看守は様子を見に行くこともしなかった。
エリオットの手紙を握る手に力がこもり、紙がくしゃりと音を立てる。
涙は出なかった。あまりに長い後悔と孤独の中で、涙というものはとうに枯れ果てていた。
「やっぱり怒っているのか? 君を放置して他の女をかまっていたから……」
蝋燭の炎だけが頼りの暗闇の中、エリオットは過去の己の行動をひどく悔やんでいた。
悔やむべき行いは数知れないが、とりわけ、結婚式の夜に新妻セシリアを置き去りにして、元婚約者キャサリンに会いに行ってしまったことを。
「あの時、キャサリンの訴えなど無視しておけばよかった。使用人が言ったようにあれは狂言でしかなく、本当に命を絶つ気などキャサリンにあるはずないのに……」
どこまでも甘ったれで幼いキャサリンが、自死を選ぶなど有り得ないと心のどこかで分かっていた。
それでも彼女の元に行ったのは、ただ好意を向けられていることが気持ちよかったからだ。
妻がいながら他の女性に好かれている自分を心地よく思い、ただその感覚に酔っていた。
「けど……セシリアだってあんなに怒らなくてもいいじゃないか。謝って関係を修復しようと思ったのに、あれほど拒まれてはその思いも萎えてしまう。セシリアさえ笑って許してくれていたら……キャサリンなんかに慰めてもらわなかったのに」
キャサリンの元から帰って来た日、誠心誠意謝罪しようとしたエリオットはセシリアから冷たく拒絶され、自分勝手にも気持ちが萎えてしまったのだ。それでもその後、初夜のやり直しを試みようとしたところ、セシリアから危うく実力行使されかけた。
それで自分勝手にも彼は“妻に拒まれた哀れな自分”を慰めるために、己を求めてくれるキャサリンへと心を寄せていった。感情をすぐ表に出すキャサリンからの好意はエリオットの自尊心を満たし、妻に冷たくされる悲しさを癒してくれる。それが心地よく、流されるままに彼女と関係を持ってしまい、ついには妻と離婚してキャサリンと再婚することになってしまったのだ。
冷たい妻から逃れ、愛する女と一緒になれる。本来ならばそう喜ぶべきかもしれないが、エリオットは自分が引き起こした結果に内心では困惑していた。怖いし冷たいセシリアだが当主夫人としての仕事は完璧で、それこそエリオットが遊び惚けていても家も領地も問題なく機能する。これがキャサリンなら……と考えなくても分かる。貴族夫人の器として考えるとキャサリンはセシリアの足元にも及ばない。その皺寄せは当然エリオットの方へとやってくるだろうことは確かだった。
そう考えたらキャサリンとの再婚はエリオットにとっての利益はなく、むしろ不利益ばかりだ。
キャサリンに対する好意は確かにあった。けれど、それは再婚を望むほど深いものではない。
しかも何故か再教育まで強制されてしまい、公爵邸で勉強漬けの日々が始まる。
そうしていくうちにまた気持ちが萎えてしまい、キャサリンへの好意も段々と薄れていった。
そんな時に会ったのが王女だ。初めて会った時には何とも思わなかったが、夜会で再会した際に頬を赤らめて恥じらう顔があまりにも可愛らしくて心を奪われた。おまけにセシリアが王女を遠ざけようとしてくる姿が嫉妬のように思えて、何とも言えない高揚感を覚えたのだ。それに王女には何故かキャサリンよりも心を惹かれる。
高貴で美しい王女が自分を慕ってくる。その事実が、エリオットの心に甘美な優越感を満たしていった。
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