初夜に訪れたのは夫ではなくお義母様でした

わらびもち

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もう、うんざりです

 昼下がりの陽光が邸宅を柔らかく包んでいた。数日前の大雨が嘘であったかのように空気は穏やかで、雲ひとつない。けれどその静けさはどこか張り詰めたようでもあった。

 石畳の私道の奥から、馬車の音が近づいてくる。蹄の規則正しい打音と、車輪が小砂利を押し分ける微かな振動。  
 やがて、重厚な四輪馬車が正門をくぐり、車寄せの半円にゆっくりと入った。
 静かに馬車が止まり、御者が跳ね上げるように席を降りる。礼儀正しく一礼すると、後部の扉を開ける。

 馬車の中から姿を現したのは、全身に疲労をまとったエリオットであった。
 彼はレストランで子供のように泣きじゃくるキャサリンを必死になだめ、彼女の家まで送り届けてきたのだった。

「…………疲れた」

 そう呟いたエリオットに、ロベールは非難の眼差しを向けた。
 領地の災害対応に奔走している屋敷の者たちの方がよほど疲れているはずなのに、女のために疲れたなどとよくもまあ口にできたものだ。恥を知らないのかと呆れてしまう。

 そんな彼等を出迎えたのは険しい顔を隠しもしない執事だった。

「お帰りなさいませ、旦那様」

「……ああ。いま戻った」

「帰って早々申し訳ございませんが、ただちに応接間へお越しくださるよう仰せです」

「仰せ……とは、セシリアがそう言ったのか?」

「いいえ、奥様ではございません。……行けば分かりますので、このままお進みください」

 言葉そのものは礼儀に満ちていたが、その声色は厳しい。いつものように手袋を受け取ろうとせず、これ以上のやり取りは不要だとでも言うかのように。

 その圧力に負け、エリオットは外套の裾を軽く払って肩から下ろし、屋敷の中へと足を踏み入れた。
 昼の光が大理石の床に反射し、廊下を満たしていた。だが、その光の白さは妙に冷たく、広間に並ぶ肖像画たちはどれも、目を伏せるように沈黙していた。

 邸は静まり返っている。まるで、彼の帰宅を誰も歓迎していないかのように──。

 廊下を抜け、応接間の扉が開かれると、室内に満ちる重苦しい沈黙が肌に絡みついた。
 正面には、伯父ガーネット公爵がエリオットを射殺さんばかりの目で睨みつけていた。その隣では、セシリアが背筋を伸ばし、微動だにせず座っている。

 セシリアは目を伏せたまま一言も発さず、指先を膝の上で結び、じっと動かない。
 公爵の視線だけがまるで裁きの剣のようにエリオットに注がれていた。

 エリオットは無意識のうちに喉を鳴らした。汗が背筋を伝う。公爵の視線がじっと彼に向けられている。
 動かずとも、鋭く突き刺すような視線だった。

 扉が背後で静かに閉じられると同時に──その沈黙が破られた。

「どこへ行っていた?」

 低く、だがはっきりと響く声。その一言で、室内の空気が変わった。
 エリオットは咄嗟に言葉を探したが、口が思うように動かない。

「……少し、出ていただけです。所用で──」

「所用だと!?」

 声が一気に爆ぜた。重厚な家具と石壁に響き、燭台の炎までも震えたように見えた。

「己の領地の一大事に、所用を優先する領主がどこにいる! この、愚か者めがッ!!」

 エリオットの膝がわずかに震えた。無意識に一歩下がろうとして絨毯に足を取られ、かすかに体が揺れる。
 顔から血の気が引き、青白くなった頬に冷たい汗が浮かぶ。

「お前が誰と何をしていたか、すでに知っている。その、”誰”とやらの名を言わせる気か?」

 その言葉にエリオットは肩を強張らせた。歯の根が合わず、指先がわずかに震える。
 視線を彷徨わせ、セシリアを見やったが、妻は一度も彼を見返さない。沈黙は拒絶よりも冷たかった。

「……伯父上、僕は……その……」

「言い訳は聞いておらんッ!!」

 怒号が雷のように叩きつけられ、エリオットは頭を垂れた。
 額に滲んだ汗が床に落ちる音さえ聞こえるような気さえする。

「領地の災害対応を妻に任せて遊興に耽るなど恥を知れ! 貴様はガーネット侯爵という立場がどれほどの重みを持つかわかっているのか!」

 公爵の怒号が飛ぶ度エリオットは怯えて体を縮め、ただ黙って耐えていた。
 反論する気力もない。否、反論など許されるはずがない。

 怒りはさらに続いた。だが彼には、もはや言葉が耳に届いていなかった。ただただ、冷たい重圧の中で、伯父の怒声に身を震わせるばかりだった。

 怒声が途切れたのは部屋の空気が限界まで張りつめた後のことだった。
 公爵は呼吸を整えるように深く息を吐き、エリオットを冷ややかな目で見下ろす。彼はなおも頭を垂れ、顔色は青白く、肩が小刻みに震えていた。怯え、萎縮し、もう何も言えない――言葉を発することすら恐れている。

 重苦しい沈黙が部屋を満たす。そのときだった。

「もう、結構です。エリオット様にはほとほと愛想が尽きました……」

 静かな声が響いた。
 その場にいる誰よりも柔らかく、しかし最も鋭く、空気を切り裂くような響きだった。

 エリオットは驚愕の色を浮かべて顔を上げ、公爵も僅かに視線を動かし、隣の椅子を見る。

 セシリアは座ったまま、まっすぐにエリオットを見ていた。背筋を伸ばし、身じろぎ一つせず、瞳には怒りも悲しみもない。ただ、すべてを見届けた者の静けさがあった。

「責任の意味も知らない方の妻でいるのは恥でしかありません。どうやらキャサリン様と深い仲になられたようですし……契約書に則り離婚しましょう」

 セシリアの静かだがはっきりとした決別の言葉にエリオットの唇が震える。口を開きかけて、何も出てこない。
 必死に言葉を探すが、脳が追いつかない。理解はしている。しかし、それを受け入れることができないまま、息が詰まった。

「ま、待ってくれ、セシリア、それは――」

「……あなたがどこで、誰と、どんな時間を過ごしていたのか、私はすでに知っています。でも、それを責めるつもりはありません。それよりも、被災した領民よりもキャサリン様と乳繰り合う方をとったことが許せません」

 静かな語り口でありながら、その言葉は凍てついた刃のように鋭く、深くエリオットを貫いた。

「ち、ちがう……キャサリンとは食事をしただけで……」

「何をしたか、はどうだってよいのです。領主の立場にありながら、領民よりも女をとったことが私は許せない。あなたは……妻よりも、領民よりも、キャサリン様を優先する。だったらもう、一生キャサリン様といればよいのですよ。わたしはもううんざりですから」

 セシリアの拒絶の言葉に、エリオットは胸を打ち抜かれたような衝撃を受けた。

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