今更、話すことなどございません

わらびもち

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すべてを捨てる覚悟

 父のおかげで得た絶好の機会。それをエセルは胸の痛みを覚えながらも断った。
 これを逃せば王宮の侍女になる道は二度と開かれないと十分理解している。
 それでも、エセルはこの申し出に頷くことはできなかった。

 なぜなら……ベネディクト伯爵に養子縁組の話を持ち出すこと自体が耐えがたかったからだ。

 伯爵がどういう理由でエセルと養子縁組をしなかったのかは分からない。
 それに、その理由を知りたいとは思わなかった。どんな理由があろうとも、慣習に逆らってまでエセルを養女として迎えたくなかったことは確かなのだから。

 エセルの中にあった伯爵への信頼はこの一件で完全に失われてしまった。
 真摯に謝罪する姿を見て、彼を誠実な人間だと疑いもしなかった。
 だが、それはただの勘違いだった。彼もまた、義兄や母のようにエセルを”異物”としか思っていない。
 もう……屋敷の人間は誰も信用できない。

 まさか断られるとは思ってもいなかった文官は心底驚き、なおも言葉を尽くして考え直すよう訴えた。
 そこまで自分を評価してくれることを嬉しく思いながらも、エセルは申し訳なさを胸に丁寧に詫びた。
 王宮侍女になることよりも、伯爵と関わることを避けたいという思いの方が上回る。勝手に信じていただけだと分かっている。それでも裏切られたという思いがエセルの胸に深く傷を残す。

 文官が名残惜しそうに屋敷から去った後、エセルは足早に自分の部屋へと向かった。

「……よかった、前もって準備しておいて」

 部屋に入るなり、エセルはクローゼットから大きめの鞄を取り出した。
 そこには金貨や銀貨の入った袋、簡素な服が数枚、地図、そして携帯食料が収納されている。
 まるで逃避行に出るための荷物のようなものが詰め込まれていた。

「もう、無理だわ……。こんなところ……これ以上留まりたくない」

 涙を零しながらエセルは鞄の中身を一つひとつ確かめた。すべてを確認し終えると静かに鞄の口を閉じる。
 彼女の胸を支配するのは哀しさと悔しさと、諦め。
 どうして──自分がこんな扱いを受けなければならないのか。
 どうして──母は娘が辛い想いをしていても知らないふりをするのか。
 どうして──この家の籍にも入っていない自分が、この屋敷に住んでいなければならないのか。

 そんな疑問がいくつも頭に浮かぶ。けれどそれに対してまともに答えてくれる人は誰もいない。
 この屋敷では、誰も真面目にエセルと向き合おうとしない。
 そんな場所に留まる理由なんてあるはずもない。

 エセルは侍女の試験に不合格だった場合に備え、あらかじめ一つの準備をしていた。
 それは修道院へ駆け込むための支度である。

 今日を最後に、この屋敷を去る。そう心に決めたエセルは決別の手紙をしたためるべく机へと向かった。




 その夜、舞踏会へ向かう馬車の音が屋敷の正門から遠ざかっていくのを、エセルは階段の死角に身をひそめ、じっと耳を澄ませていた。

 ──今だ。

 エセルは深く息を吸い、スカートの裾を握りしめる。身に纏うのは貴族の令嬢には似つかわしくない町娘風の簡素なワンピース。腕には大きなカバンがひとつ。誰にも見つからないように屋敷の影を縫って進む。

 裏門へ続く小径までそこまで距離はないのに、今宵はやけに長く感じられた。
 灯りは最低限、夜会で使用人の多くが正門側に回っている時間帯。屋敷を抜け出す機会は今しかない。

 ようやく裏門まで辿り着く。人の気配はない。エセルは心臓が激しく音を立てるのを感じながら扉に手をかけた。
 夜風に晒された鉄製の扉はひんやりと冷たい。その感触にほんの一瞬だけ迷いが胸をよぎる。
 だが、その迷いを振り払うように首を振る。

 ──怖がってどうするの……。このままここにいても、あの人達に好き放題傷つけられるだけだわ。
   
 これ以上傷つくくらいなら、すべてを捨てたほうがましだ。
 貴族であることも、母も、すべてを捨てる覚悟はすでにできている。躊躇している場合ではない。
 
 思い切って扉を押すと、きい、と小さな音を立てて開き、外の世界の冷たい風が頬を撫でる。
 砂利が靴の下で鳴る音がやけに大きく響いた。

 エセルはほんの一瞬だけ立ち止まり、肩越しに灯りの残る屋敷を振り返る。

「……さようなら」

 かすかに呟いた別れの言葉は冷たい空気の中に消えていき、誰にも届かない。
 エセルは再び前を向き、夜の闇へと歩き出した。
 もう二度と戻らない。そう決意を胸に刻んで。

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