今更、話すことなどございません

わらびもち

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エセルの尊厳

「ふう……」

 豪奢な絹のドレスではなく、質素な修道服を身に纏ったエセルは井戸から汲んだ水桶を運んでいた。
 かつてはカトラリーよりも重い物など持ったことのなかった手は、労働により少しだけ赤くなっている。それでも彼女の横顔には穏やかな充足があった。

「シスター・エセル」

 振り返ると、修道院長が穏やかな微笑みを浮かべて立っていた。
 エセルは反射のように淑女の礼を取ろうとする。だが、両手には水桶がある為その仕草は叶わなかった。
 ──否。
 そもそも、あの礼を取る資格はすでに失われている。もう、エセルは貴族の令嬢ではないのだから。

「ここでの暮らしは慣れましたか?」

 こちらを慮る優しい問いにエセルは迷いなく頷いた。

「はい、おかげさまでつつがなく過ごしております。初めは勝手の違うことばかりで戸惑いもいたしましたが……今はこの場に身を置けましたこと、ありがたく存じております」

 エセルの答えに院長は目を細めた。

「そうですか。それは嬉しいことですね」

「ここでの時間はとても穏やかで優しく……心が落ち着きます。誰かのために祈り、働き、感謝して眠る。そんな一日がこんなにも満ち足りているとは以前の私は知りませんでした」

 その声には過去を悔いる色はなかった。

「あなたがそう感じているなら、それ以上のことはありませんね。ここは何かを失う場所ではなく、本来の自分を取り戻す場所ですから」

「ええ。肩書きも装いもなくなって、ようやく軽くなれた気がいたします」

「それでも、あなたが積み重ねてきた日々が消えるわけではありませんよ。それらは今、優しさや思慮というかたちで、ここに息づいています」

 庭を抜ける風が二人の修道服の裾をそっと揺らす。
「無理はしていませんね?」と院長が念のために問うと、エセルは首を横に振った。

「ええ。本当に、心からここを選んでよかったと……そう思っております」

 そう言った瞬間、エセルの脳裏をよぎるのは、かつて滞在したベネディクト伯爵家の屋敷の光景。
 無関心という壁の向こうにいる屋敷の人々と、その内側にも外側にも属せない自分。
 母でいることを放棄した母親、そして──アリオス・ベネディクトのあの嘲るような笑み。
 嫌味たらしい言葉を投げ、エセルの尊厳をことごとく踏みにじる。
 耐えていた、はずだった。だが思いのほか堪えていたらしい。彼の顔をもう見なくていい。それだけで驚くほど気分が軽い。

 あの日々を思い出し、エセルは小さく息を吐く。
 もう、彼の姿に怯えなくていい。
 もう、どんな嫌味を投げかけてくるのかと身構える必要はない。
 それが……信じられないほど嬉しい。

 院長はエセルの表情の変化に気づき、優しく尋ねる。

「何か思い出しましたか?」

「はい……。以前は……いつも気を張っておりました。言葉ひとつ、仕草ひとつで責められることもありましたから……」

 院長は何も詮索せず、ただ静かにエセルの言葉に耳を傾けていた。

「ここではそうした心配がございません。誰にも怯えず日々を過ごせることが……こんなにも安らぐものだとは」

 エセルはそっと胸元の十字架に触れ、俯いた。

「その日に受けた嫌な言葉を思い出す生活から解放され、夜はとても穏やかな気持ちで眠れるのです。それだけで、私はここに来てよかったと思えます」

「そうですか……。安心してよいのですよ。ここでは誰も、あなたを傷つけることで己を満たそうとはしません」

 その言葉にエセルの肩から力が抜ける。

「……はい」

 ここでは、誰もエセルを傷つけない。
 その当たり前がどれほど尊いことか――。

「やっと、自分の尊厳を取り戻した──そんな気がします」

 エセルの呟きを院長は静かに微笑みながら耳を傾けていた。

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