36 / 53
疲弊するエセルの心
空が墨を流したように黒く染まり、星がかすかに瞬く夜。
皆が寝静まった修道院の一室でエセルはひとり窓辺に寄り添い空を見つめていた。
「……こんな、ご迷惑をおかけするなんて……」
微かな声が誰にも届かぬまま静かな夜の闇に消えていく。
彼女の表情は暗く、時折ため息が漏れた。
心の中にあるのはもう会わないと決めて別れた母のこと。娘である自分よりも新しい夫と義理の息子を選んだことに失望し、自ら縁を断った。今もなお、顔さえ見たくないほどその思いは深い。
そんな母が先日この修道院へ押しかけてきた。姿は見ていないが、院内に響くほど騒いでいたあの声は間違いなく母のものだった。淑女として教育されてきた貴族の婦人があんなふうに外でわめくなんて――信じられなかった。あってほしくないと思った。しかし、あの声はどう考えても母のものだ。
再婚以降、今まで知らなかった母の嫌な面ばかりが目に入り心が重くなる。
しかし、そんな自分の気持ちよりも先にまず手を打たねばならないのは母の非常識な振る舞いだ。
まさか王族が管理する修道院に貴族が押しかけるなんて考えもしなかった。
ここならば──貴族は王家の権威を恐れて手を出せないだろうと思っていたのに、甘かった。
お世話になっている修道院に迷惑をかけてしまい、申し訳なさで胸が詰まる。
「お母様……ご自分がどんな恐ろしい真似をしているか分からないの……! こんなこと、有り得ないわ……」
王族所有の建物に門番が制止するのを無視して入ろうとするなんて、許されるものではない。
どれほど不敬なことかを理解せずに振る舞う貴族がいるとは、そしてそれが自分の母親だなんて……信じられなかった。
今回の件でベネディクト伯爵家には王太后陛下から抗議があったはずだ。王族の怒りがどれほど恐ろしいか、考えるだけでぞっとする。あの家は間違いなく窮地に立たされるだろう。
別にベネディクト伯爵家がどうなろうと知ったことではない。散々こちらを蔑ろにした家だ。どうにかしてあげたいという気持ちすら湧かない。問題は、母の生家であるサンディ男爵家にまで今回の騒動の影響が及ぶのではないかということだ。
(私がここにいる限り、お母様はまた来るかもしれない……。これ以上、修道院にも院長にもご迷惑をおかけしたくない。それに、お祖父様たちの立場が危うくなるかもしれないと思うと……)
エセルの表情がさらに暗く沈む。
母に巻き込まれた再婚茶番劇から逃げたくてここに来た。やっと安心して日々を過ごせた。
なのに──また母がそれを壊そうとしている。それが悲しくて悔しくてたまらない。
「もう……ここを出た方がいいのかもしれない」
自分がここからいなくなれば、母がここに来ることもない。そうすればもう迷惑をかけずに済む。
だが、ここを出てどこへ行けばいいのか――そう考えたときふと気づいた。
「そうだ……隣国。国外へ出てしまえば、母も簡単に追ってこれないはず……」
追い詰められたエセルの脳裏によぎったのは隣国の王妃からの誘いだった。それを受けて王妃の侍女になれば、母も手出しはできないはずだ。良い考えだと思う一方で、こんな理由でそのような畏れ多い誘いを受けていいのかと葛藤する。
どうして母はここまで自分を苦しめるのか……。理由は分かっている。娘である自分がいなくなり、外聞が悪くなったからだ。おそらくそれが夫婦仲にまで影を落としたのだろう。だからこそ、すべてを元に戻すために自分を取り戻そうとしている。
「……そんなの、私の知ったことではないわ。お母様の思い通りになどさせない……」
そのとき、エセルの瞳に宿ったのは悲しみではなく怒りだった。
もう二度と母の言いなりにはならない――。改めてそう固く決意するのだった。
皆が寝静まった修道院の一室でエセルはひとり窓辺に寄り添い空を見つめていた。
「……こんな、ご迷惑をおかけするなんて……」
微かな声が誰にも届かぬまま静かな夜の闇に消えていく。
彼女の表情は暗く、時折ため息が漏れた。
心の中にあるのはもう会わないと決めて別れた母のこと。娘である自分よりも新しい夫と義理の息子を選んだことに失望し、自ら縁を断った。今もなお、顔さえ見たくないほどその思いは深い。
そんな母が先日この修道院へ押しかけてきた。姿は見ていないが、院内に響くほど騒いでいたあの声は間違いなく母のものだった。淑女として教育されてきた貴族の婦人があんなふうに外でわめくなんて――信じられなかった。あってほしくないと思った。しかし、あの声はどう考えても母のものだ。
再婚以降、今まで知らなかった母の嫌な面ばかりが目に入り心が重くなる。
しかし、そんな自分の気持ちよりも先にまず手を打たねばならないのは母の非常識な振る舞いだ。
まさか王族が管理する修道院に貴族が押しかけるなんて考えもしなかった。
ここならば──貴族は王家の権威を恐れて手を出せないだろうと思っていたのに、甘かった。
お世話になっている修道院に迷惑をかけてしまい、申し訳なさで胸が詰まる。
「お母様……ご自分がどんな恐ろしい真似をしているか分からないの……! こんなこと、有り得ないわ……」
王族所有の建物に門番が制止するのを無視して入ろうとするなんて、許されるものではない。
どれほど不敬なことかを理解せずに振る舞う貴族がいるとは、そしてそれが自分の母親だなんて……信じられなかった。
今回の件でベネディクト伯爵家には王太后陛下から抗議があったはずだ。王族の怒りがどれほど恐ろしいか、考えるだけでぞっとする。あの家は間違いなく窮地に立たされるだろう。
別にベネディクト伯爵家がどうなろうと知ったことではない。散々こちらを蔑ろにした家だ。どうにかしてあげたいという気持ちすら湧かない。問題は、母の生家であるサンディ男爵家にまで今回の騒動の影響が及ぶのではないかということだ。
(私がここにいる限り、お母様はまた来るかもしれない……。これ以上、修道院にも院長にもご迷惑をおかけしたくない。それに、お祖父様たちの立場が危うくなるかもしれないと思うと……)
エセルの表情がさらに暗く沈む。
母に巻き込まれた再婚茶番劇から逃げたくてここに来た。やっと安心して日々を過ごせた。
なのに──また母がそれを壊そうとしている。それが悲しくて悔しくてたまらない。
「もう……ここを出た方がいいのかもしれない」
自分がここからいなくなれば、母がここに来ることもない。そうすればもう迷惑をかけずに済む。
だが、ここを出てどこへ行けばいいのか――そう考えたときふと気づいた。
「そうだ……隣国。国外へ出てしまえば、母も簡単に追ってこれないはず……」
追い詰められたエセルの脳裏によぎったのは隣国の王妃からの誘いだった。それを受けて王妃の侍女になれば、母も手出しはできないはずだ。良い考えだと思う一方で、こんな理由でそのような畏れ多い誘いを受けていいのかと葛藤する。
どうして母はここまで自分を苦しめるのか……。理由は分かっている。娘である自分がいなくなり、外聞が悪くなったからだ。おそらくそれが夫婦仲にまで影を落としたのだろう。だからこそ、すべてを元に戻すために自分を取り戻そうとしている。
「……そんなの、私の知ったことではないわ。お母様の思い通りになどさせない……」
そのとき、エセルの瞳に宿ったのは悲しみではなく怒りだった。
もう二度と母の言いなりにはならない――。改めてそう固く決意するのだった。
あなたにおすすめの小説
もう、愛はいりませんから
さくたろう
恋愛
ローザリア王国公爵令嬢ルクレティア・フォルセティに、ある日突然、未来の記憶が蘇った。
王子リーヴァイの愛する人を殺害しようとした罪により投獄され、兄に差し出された毒を煽り死んだ記憶だ。それが未来の出来事だと確信したルクレティアは、そんな未来に怯えるが、その記憶のおかしさに気がつき、謎を探ることにする。そうしてやがて、ある人のひたむきな愛を知ることになる。
今から婚約者に会いに行きます。〜私は運命の相手ではないから
毛蟹
恋愛
婚約者が王立学園の卒業を間近に控えていたある日。
ポーリーンのところに、婚約者の恋人だと名乗る女性がやってきた。
彼女は別れろ。と、一方的に迫り。
最後には暴言を吐いた。
「ああ、本当に嫌だわ。こんな田舎。肥溜めの臭いがするみたい。……貴女からも漂ってるわよ」
洗練された都会に住む自分の方がトリスタンにふさわしい。と、言わんばかりに彼女は微笑んだ。
「ねえ、卒業パーティーには来ないでね。恥をかくのは貴女よ。婚約破棄されてもまだ間に合うでしょう?早く相手を見つけたら?」
彼女が去ると、ポーリーンはある事を考えた。
ちゃんと、別れ話をしようと。
ポーリーンはこっそりと屋敷から抜け出して、婚約者のところへと向かった。
なんども濡れ衣で責められるので、いい加減諦めて崖から身を投げてみた
下菊みこと
恋愛
悪役令嬢の最後の抵抗は吉と出るか凶と出るか。
ご都合主義のハッピーエンドのSSです。
でも周りは全くハッピーじゃないです。
小説家になろう様でも投稿しています。
【完結】愛されないと知った時、私は
yanako
恋愛
私は聞いてしまった。
彼の本心を。
私は小さな、けれど豊かな領地を持つ、男爵家の娘。
父が私の結婚相手を見つけてきた。
隣の領地の次男の彼。
幼馴染というほど親しくは無いけれど、素敵な人だと思っていた。
そう、思っていたのだ。
愛してくれない人たちを愛するのはやめました これからは自由に生きますのでもう私に構わないでください!
花々
恋愛
ベルニ公爵家の令嬢として生まれたエルシーリア。
エルシーリアには病弱な双子の妹がおり、家族はいつも妹ばかり優先していた。エルシーリアは八歳のとき、妹の代わりのように聖女として神殿に送られる。
それでも頑張っていればいつか愛してもらえると、聖女の仕事を頑張っていたエルシーリア。
十二歳になると、エルシーリアと第一王子ジルベルトの婚約が決まる。ジルベルトは家族から蔑ろにされていたエルシーリアにも優しく、エルシーリアはすっかり彼に依存するように。
しかし、それから五年が経ち、エルシーリアが十七歳になったある日、エルシーリアは王子と双子の妹が密会しているのを見てしまう。さらに、王家はエルシーリアを利用するために王子の婚約者にしたということまで知ってしまう。
何もかもがどうでもよくなったエルシーリアは、家も神殿も王子も捨てて家出することを決意。しかし、エルシーリアより妹の方がいいと言っていたはずの王子がなぜか追ってきて……。
〇カクヨムにも掲載しています
【完】貴方達が出ていかないと言うのなら、私が出て行きます!その後の事は知りませんからね
さこの
恋愛
私には婚約者がいる。
婚約者は伯爵家の次男、ジェラール様。
私の家は侯爵家で男児がいないから家を継ぐのは私です。お婿さんに来てもらい、侯爵家を未来へ繋いでいく、そう思っていました。
全17話です。
執筆済みなので完結保証( ̇ᵕ ̇ )
ホットランキングに入りました。ありがとうございますペコリ(⋆ᵕᴗᵕ⋆).+*
2021/10/04
冬薔薇の謀りごと
ono
恋愛
シャルロッテは婚約者である王太子サイモンから謝罪を受ける。
サイモンは平民のパン職人の娘ミーテと恋に落ち、シャルロッテとの婚約破棄を望んだのだった。
そしてシャルロッテは彼の話を聞いて「誰も傷つかない完璧な婚約破棄」を実現するために協力を申し出る。
冷徹で有能なジェレミア公爵やミーテも巻き込み、それぞれが幸せを掴むまで。
ざまぁ・断罪はありません。すっきりハッピーエンドです。
旦那様は、義妹の味方をしたことを心から後悔されているみたいですね♪
睡蓮
恋愛
マリーナとの婚約関係を築いていたクルーゲル伯爵、しかし彼はマリーナにとって義妹にあたるリオーネラとの関係を深めてしまい、その果てに子どもを作ってしまう。伯爵はマリーナを捨ててリオーネラを正式な婚約者にするよう動こうとするものの、その行いこそが自分たちを破滅に導く第一歩となってしまうのだった…。