今更、話すことなどございません

わらびもち

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疲弊するエセルの心

 空が墨を流したように黒く染まり、星がかすかに瞬く夜。
 皆が寝静まった修道院の一室でエセルはひとり窓辺に寄り添い空を見つめていた。

「……こんな、ご迷惑をおかけするなんて……」

 微かな声が誰にも届かぬまま静かな夜の闇に消えていく。
 彼女の表情は暗く、時折ため息が漏れた。
 心の中にあるのはもう会わないと決めて別れた母のこと。娘である自分よりも新しい夫と義理の息子を選んだことに失望し、自ら縁を断った。今もなお、顔さえ見たくないほどその思いは深い。

 そんな母が先日この修道院へ押しかけてきた。姿は見ていないが、院内に響くほど騒いでいたあの声は間違いなく母のものだった。淑女として教育されてきた貴族の婦人があんなふうに外でわめくなんて――信じられなかった。あってほしくないと思った。しかし、あの声はどう考えても母のものだ。

 再婚以降、今まで知らなかった母の嫌な面ばかりが目に入り心が重くなる。
 しかし、そんな自分の気持ちよりも先にまず手を打たねばならないのは母の非常識な振る舞いだ。
 まさか王族が管理する修道院に貴族が押しかけるなんて考えもしなかった。
 ここならば──貴族は王家の権威を恐れて手を出せないだろうと思っていたのに、甘かった。
 お世話になっている修道院に迷惑をかけてしまい、申し訳なさで胸が詰まる。

「お母様……ご自分がどんな恐ろしい真似をしているか分からないの……! こんなこと、有り得ないわ……」

 王族所有の建物に門番が制止するのを無視して入ろうとするなんて、許されるものではない。
 どれほど不敬なことかを理解せずに振る舞う貴族がいるとは、そしてそれが自分の母親だなんて……信じられなかった。
 今回の件でベネディクト伯爵家には王太后陛下から抗議があったはずだ。王族の怒りがどれほど恐ろしいか、考えるだけでぞっとする。あの家は間違いなく窮地に立たされるだろう。
 別にベネディクト伯爵家がどうなろうと知ったことではない。散々こちらを蔑ろにした家だ。どうにかしてあげたいという気持ちすら湧かない。問題は、母の生家であるサンディ男爵家にまで今回の騒動の影響が及ぶのではないかということだ。

(私がここにいる限り、お母様はまた来るかもしれない……。これ以上、修道院にも院長にもご迷惑をおかけしたくない。それに、お祖父様たちの立場が危うくなるかもしれないと思うと……)

 エセルの表情がさらに暗く沈む。
 母に巻き込まれた再婚茶番劇から逃げたくてここに来た。やっと安心して日々を過ごせた。
 なのに──また母がそれを壊そうとしている。それが悲しくて悔しくてたまらない。
 
「もう……ここを出た方がいいのかもしれない」

 自分がここからいなくなれば、母がここに来ることもない。そうすればもう迷惑をかけずに済む。
 だが、ここを出てどこへ行けばいいのか――そう考えたときふと気づいた。

「そうだ……隣国。国外へ出てしまえば、母も簡単に追ってこれないはず……」

 追い詰められたエセルの脳裏によぎったのは隣国の王妃からの誘いだった。それを受けて王妃の侍女になれば、母も手出しはできないはずだ。良い考えだと思う一方で、こんな理由でそのような畏れ多い誘いを受けていいのかと葛藤する。

 どうして母はここまで自分を苦しめるのか……。理由は分かっている。娘である自分がいなくなり、外聞が悪くなったからだ。おそらくそれが夫婦仲にまで影を落としたのだろう。だからこそ、すべてを元に戻すために自分を取り戻そうとしている。

「……そんなの、私の知ったことではないわ。お母様の思い通りになどさせない……」

 そのとき、エセルの瞳に宿ったのは悲しみではなく怒りだった。
 もう二度と母の言いなりにはならない――。改めてそう固く決意するのだった。

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