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義理の母子の喧嘩
伯爵が伯母の屋敷に赴いていたその頃、ベネディクト家では甲高い女の叫びが響き渡っていた。
「アリオス! 王女と結婚するなんて聞いていないわ! どういうことなの!?」
声の主は屋敷の名ばかりの女主人、エリザベート。近頃になってようやく謹慎が解け、屋敷の中だけは自由に歩き回ることが許された。だが外出だけは今もなお禁じられたままだ。
「……そんなに大声を出さないでください。頭に響く」
義理の母親が声を荒らげて詰め寄る中、アリオスは寝そべっていた長椅子からのそりと体を起こした。
厚いカーテンに閉ざされた部屋は昼と夜の区別さえ失っていた。そこは彼の私室でありながら、次期当主の部屋とは思えぬほど荒れている。開け放たれたクローゼット、投げ捨てられた上着、そして机の上や床に無造作に転がる酒瓶。満足に換気がされていないのか空気はどこか濁っている。甘い酒精の残り香が豪奢な部屋に不似合いな生々しさを漂わせていた。
アリオスは酒に溺れ、崩れた顔のまま虚ろに長椅子へ沈んでいた。乱れた服は貴族の体面を失わせ、そこには怠惰な青年の姿だけがあった。エリザベートは視線を部屋に走らせ、散乱する酒瓶に一瞬言葉を失う。
「お酒臭い……。昼間からこんなに飲むなんて……」
「……飲まなきゃやってられないんですよ」
だるそうに髪をかき上げるたアリオスが、不機嫌そうにそう呟いた。その表情はあからさまなまでに苛立ちを隠さない。
「で? なんの用です、義母上」
「なんの用、じゃないわよ! 王女と結婚するなんてどういうこと? あなたはエセルを妻にするはずだったのでしょう!」
「ええ……そのつもりでしたよ」
「ならばどうして! あなたがエセルを見初めたから……旦那様はあの子を養女にしなかったのよ? 結局、別の女を妻にするというのなら……わたくし達は何のために……」
怒りとも悲しみともつかぬまま震えるエリザベートを一瞥したアリオスは、すぐに興味を失ったように目を逸らした。
「……恥ずかしいまでに感情的な方だ。そのつもりだったと先程言ったでしょう? 状況が変わったのだと理解できないものですかね」
頬杖をついたまま、アリオスは小馬鹿にしたような態度で答える。
その挑発にエリザベートは顔を赤くし、一瞬声を詰まらせた。
「なっ……その態度はなに! 馬鹿にしてるの!」
「……へえ、ご自分が馬鹿にされると怒るんですね。エセルが私に馬鹿にされた時は怒りもしなかったのに。娘はよくともご自分は嫌なのですか。随分と勝手な人だ」
「…………ッ!!」
いきなり義理の息子の口から嘲るような言葉が落ち、エリザベートは怒りと混乱で言葉を失った。
これまで彼からそんな風に貶められたことはない。おまけに触れてほしくない部分を突かれたことで羞恥が胸の奥にじわりと広がった。
「な……な、なんなの! その口の利き方は……」
「図星を突かれて動揺するとは……義母上は淑女どころか社交の場に立つには向かないご性格のようですね。そのように感情を顔に出しては容易く足を掬われますよ」
「──なんですって! ふざけないでちょうだい!!」
「ふざけてなどいません。父上からも苦言を呈されているのでしょう? 知っていますよ。社交の場での立ち回りの拙さに失望されたことも、恥知らずにも修道院に押し掛けたことも。あまり我が家を辱める真似は謹んでいただきたいですね」
自らも王女を利用し、エセルを取り戻そうとして王太后の怒りを買ったというのに、アリオスはそれを棚に上げて義理の母をなじる。ついに我慢の限界に達し、エリザベートは彼の前につかつかと歩み寄ると、ためらいもなくその頬を叩いた。パン、と渇いた音が部屋に響く。
「なんて酷い言い方……あなたがそんな陰湿な性格だからエセルが出て行ってしまったのよ! ……ああ、馬鹿らしい。こんな男に娘を嫁がせようなんて考えるんじゃなかったわ。あなたのつまらない願いを聞きさえしなければ……今頃は……」
アリオスがエセルを求めたせいですべてがおかしくなった。彼に全ての責任を転嫁したエリザベートは過去の選択を悔やんだ。娘が出て行ってしまった原因のひとつに『新しい夫に夢中で子供のことなどどうでもいい母親』という自分が含まれていることなどすっかり忘れ、アリオスがすべて悪いと嘆き悲しむ。
「……うるさい! 気品も知性もない下劣な女が私に意見するなど、許されると思っているのか!」
格下だと内心蔑んでいた義理の母親の反抗的な態度に腹を立てたアリオスは、あろうことか床に落ちている酒瓶を掴み、彼女に向かって投げつけた。
「──ッ!?」
放たれた空瓶はエリザベートの頬すれすれを掠め、そのまま背後の壁へと激突した。
鈍い破裂音が響き、ガラスが砕け、破片が飛び散る。遅れて、かすかに残っていた酒が壁を伝って流れ落ちた。
「……あ……」
エリザベートはその場に崩れ落ちるように座り込んだ。ドレスの裾が広がり、震える手が何かを掴もうとして空を切る。腰が抜けていた。
その瞬間、廊下の向こうで慌ただしい足音が響き、扉が勢いよく開かれる。
「若様! 奥様! 今の音はいったい……」
音を聞きつけた使用人たちが一斉に室内へ入り、目の前の光景に息を呑む。
砕けた瓶、散ったガラス、酒の匂い──そして床に崩れたエリザベート。
「奥様、大丈夫でございますか!」
侍女が膝をつき、震えるエリザベートの手を取る。
「医師を──すぐに!」
別の使用人が声を上げ、慌ただしく廊下へ駆けていく。
主不在の屋敷に混乱が一気に広がっていった。
「アリオス! 王女と結婚するなんて聞いていないわ! どういうことなの!?」
声の主は屋敷の名ばかりの女主人、エリザベート。近頃になってようやく謹慎が解け、屋敷の中だけは自由に歩き回ることが許された。だが外出だけは今もなお禁じられたままだ。
「……そんなに大声を出さないでください。頭に響く」
義理の母親が声を荒らげて詰め寄る中、アリオスは寝そべっていた長椅子からのそりと体を起こした。
厚いカーテンに閉ざされた部屋は昼と夜の区別さえ失っていた。そこは彼の私室でありながら、次期当主の部屋とは思えぬほど荒れている。開け放たれたクローゼット、投げ捨てられた上着、そして机の上や床に無造作に転がる酒瓶。満足に換気がされていないのか空気はどこか濁っている。甘い酒精の残り香が豪奢な部屋に不似合いな生々しさを漂わせていた。
アリオスは酒に溺れ、崩れた顔のまま虚ろに長椅子へ沈んでいた。乱れた服は貴族の体面を失わせ、そこには怠惰な青年の姿だけがあった。エリザベートは視線を部屋に走らせ、散乱する酒瓶に一瞬言葉を失う。
「お酒臭い……。昼間からこんなに飲むなんて……」
「……飲まなきゃやってられないんですよ」
だるそうに髪をかき上げるたアリオスが、不機嫌そうにそう呟いた。その表情はあからさまなまでに苛立ちを隠さない。
「で? なんの用です、義母上」
「なんの用、じゃないわよ! 王女と結婚するなんてどういうこと? あなたはエセルを妻にするはずだったのでしょう!」
「ええ……そのつもりでしたよ」
「ならばどうして! あなたがエセルを見初めたから……旦那様はあの子を養女にしなかったのよ? 結局、別の女を妻にするというのなら……わたくし達は何のために……」
怒りとも悲しみともつかぬまま震えるエリザベートを一瞥したアリオスは、すぐに興味を失ったように目を逸らした。
「……恥ずかしいまでに感情的な方だ。そのつもりだったと先程言ったでしょう? 状況が変わったのだと理解できないものですかね」
頬杖をついたまま、アリオスは小馬鹿にしたような態度で答える。
その挑発にエリザベートは顔を赤くし、一瞬声を詰まらせた。
「なっ……その態度はなに! 馬鹿にしてるの!」
「……へえ、ご自分が馬鹿にされると怒るんですね。エセルが私に馬鹿にされた時は怒りもしなかったのに。娘はよくともご自分は嫌なのですか。随分と勝手な人だ」
「…………ッ!!」
いきなり義理の息子の口から嘲るような言葉が落ち、エリザベートは怒りと混乱で言葉を失った。
これまで彼からそんな風に貶められたことはない。おまけに触れてほしくない部分を突かれたことで羞恥が胸の奥にじわりと広がった。
「な……な、なんなの! その口の利き方は……」
「図星を突かれて動揺するとは……義母上は淑女どころか社交の場に立つには向かないご性格のようですね。そのように感情を顔に出しては容易く足を掬われますよ」
「──なんですって! ふざけないでちょうだい!!」
「ふざけてなどいません。父上からも苦言を呈されているのでしょう? 知っていますよ。社交の場での立ち回りの拙さに失望されたことも、恥知らずにも修道院に押し掛けたことも。あまり我が家を辱める真似は謹んでいただきたいですね」
自らも王女を利用し、エセルを取り戻そうとして王太后の怒りを買ったというのに、アリオスはそれを棚に上げて義理の母をなじる。ついに我慢の限界に達し、エリザベートは彼の前につかつかと歩み寄ると、ためらいもなくその頬を叩いた。パン、と渇いた音が部屋に響く。
「なんて酷い言い方……あなたがそんな陰湿な性格だからエセルが出て行ってしまったのよ! ……ああ、馬鹿らしい。こんな男に娘を嫁がせようなんて考えるんじゃなかったわ。あなたのつまらない願いを聞きさえしなければ……今頃は……」
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「……うるさい! 気品も知性もない下劣な女が私に意見するなど、許されると思っているのか!」
格下だと内心蔑んでいた義理の母親の反抗的な態度に腹を立てたアリオスは、あろうことか床に落ちている酒瓶を掴み、彼女に向かって投げつけた。
「──ッ!?」
放たれた空瓶はエリザベートの頬すれすれを掠め、そのまま背後の壁へと激突した。
鈍い破裂音が響き、ガラスが砕け、破片が飛び散る。遅れて、かすかに残っていた酒が壁を伝って流れ落ちた。
「……あ……」
エリザベートはその場に崩れ落ちるように座り込んだ。ドレスの裾が広がり、震える手が何かを掴もうとして空を切る。腰が抜けていた。
その瞬間、廊下の向こうで慌ただしい足音が響き、扉が勢いよく開かれる。
「若様! 奥様! 今の音はいったい……」
音を聞きつけた使用人たちが一斉に室内へ入り、目の前の光景に息を呑む。
砕けた瓶、散ったガラス、酒の匂い──そして床に崩れたエリザベート。
「奥様、大丈夫でございますか!」
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