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嫉妬と後悔
修道院からの帰り道、馬車の中でマリーベルは暗い面持ちのまま足元へ視線を落としていた。
向かいの席には放心した様子のアリオスが座り、虚空に視線を投げている。
かつてはその横顔を見ているだけで多幸感に包まれていたというのに、いまでは苛立ちばかりが胸の内に広がっていく。
(……来なければよかった)
マリーベルの頭の中をあの時の選択の後悔が渦のように巡っていた。
彼のためなら何でもできると思っていた。その思いに突き動かされて馬鹿げた行動さえ取った。けれど残ったのは取り返しのつかない後悔と、胸の奥で芽生えた嫉妬だけ。
こんな思いをするくらいならやらなければよかった。そんな苛立ちを目の前で放心している男にぶつけたくなる衝動をマリーベルは必死に抑えていた。
(馬鹿みたい……。みっともない……。こんな男の妻にならなければいけないなんて……)
あれほどまでに愛しいと信じていた気持ちは今ではもう影も形もない。
あるのは、みっともない格好までして、みっともない欲を叶えようとした男への軽蔑。そして、そんな男へ嫁がなければならないという未来への絶望。
アリオスが義理の妹に歪んだ執着を抱いていたことを、ようやく思い知らされた。そのために自分が使われていたことも。愛する男に騙された痛みは確かにあったはずなのに、今はもう、その感覚さえ薄れていた。それよりマリーベルの自尊心を傷つけたのは、エセルが隣国ロレーヌの王弟に求婚されたという事実。
(あの女は下位貴族の出でありながら隣国の王家に嫁ぐというのに……わたくしは伯爵家の、こんな恥知らずな男の妻に……)
そう考えた瞬間、マリーベルは胸がキュッと締め付けられるような感覚を覚えた。
彼女の目から見たエセルは、一国の王族に嫁ぐに相応しい品格と教養を持ち合わせていた。
所作も、言葉遣いも、気品も、そして地味な修道女の服を身に着けても尚光る清廉な美貌も。どれもマリーベルが持ち合わせていないものばかりだ。
あれが、『選ばれる者』の姿。かつては自分もそこにいたはずなのに、気づけばその場所は遠く離れていた。
(……わたくしだって、王族に嫁ぐ資格はあったはずなのに……)
胸の奥で、何かが小さく軋む。
マリーベルにとって勉強は退屈だった。歴史も外交も、なぜ自分がそこまで覚えなければならないのか理解できなかった。作法など、息苦しいだけで、少し崩したところで何が変わるのかと笑っていた。
周囲は何度も言った。「殿下のお立場ならば、身につけないなど有り得ませぬ」と。
けれど、あの頃のマリーベルはそれを煩わしいとしか思わなかった。
その結果がこれだ。自分よりも遥かに身分の低い娘が、異国の王家に迎えられようとしている。――マリーベルには、声すらかからなかったというのに。
その事実がどうしようもなくマリーベルの自尊心を傷つける。
まるで、王女の自分が身分の低い娘よりも下だと言われているようで。
いや、実際にそうなのだ。王女であるにもかかわらず、他国の王家から選ばれなかった出来損ない。これまで目を背けてきた他人の評価を嫌でも思い知らされている。
「……どうして」
ぽつりと零れた言葉は誰に向けたものでもない。目の前で呆けている婚約者もそれには反応しなかった。
胸の奥がざわつく。落ち着こうとすればするほど逆に思考が絡まり、ほどけなくなっていく。
(ロレーヌの王弟は、どうしてあんな身分の低い娘を……)
隣国の王弟の妻という立場は、王女の自分にこそ相応しいものであるはずなのに。選ばれたのは格下の娘。
申し込みすらなかった時点で、答えは出ている。自分が相応しくないことくらい、分かっている。
それでも感情が追いつかない。どうしても――下賤な女ではなく、この自分にこそその座があるはずだと思ってしまう。
今まで形式ばった会話に耐えきれず、学ぶべきことを後回しにして。作法の稽古も、途中で投げ出して。自分に甘くし続けた結果がこれだ。
頭では理解しているはずなのに、うまく実感が伴わない。代わりに浮かぶのは、気品ある美貌の格下の娘の姿と、それに重なる、かつての“もしも”の自分。
喉の奥が熱くなる。
悔しいのか、羨ましいのか、それとも──惨めなのか。おそらく全部だろう。醜く混ざった負の感情だけが膨らんでいく。
「……馬鹿みたい」
思わず、自嘲が漏れた。今さらだ。何もかも。
ここにさえ来なければ、心から愛しいと思える人に嫁ぐという喜びだけを心に満たせたのに。
王家に生まれた女の中で誰よりも幸福だと思えていたのに。
ほんの一瞬だけ視線を向ける。真正面で呆けている未来の夫に。
かつてあれほど眩しく見えていた貴公子の姿はもうない。そこにいるのは義理の妹を手に入れるために自ら品位を捨てた男だった。
「…………ッ!!」
好きでもなくなった男、しかも格下の伯爵家へ嫁ぐなど、どこに価値があるのか。
どうせ愛のない結婚なら、王族に嫁ぐほうがよほど名誉だというのに。
それでも、この男に嫁ぐ以外に選択できる未来などない。
あの頃、ほんの少しでも踏みとどまっていれば。
退屈だと背を向けず、言われた通りに学び、身につけていれば。
──違う未来があったのだろうか。高貴な相手から望まれる姫になれただろうか。
答えの出ない問いが、何度も何度も胸の中を巡る。
どれだけ考えても過去は変わらない。
それでもなお、心は同じ場所をぐるぐると回り続ける。まるで出口のない迷路のように……。
向かいの席には放心した様子のアリオスが座り、虚空に視線を投げている。
かつてはその横顔を見ているだけで多幸感に包まれていたというのに、いまでは苛立ちばかりが胸の内に広がっていく。
(……来なければよかった)
マリーベルの頭の中をあの時の選択の後悔が渦のように巡っていた。
彼のためなら何でもできると思っていた。その思いに突き動かされて馬鹿げた行動さえ取った。けれど残ったのは取り返しのつかない後悔と、胸の奥で芽生えた嫉妬だけ。
こんな思いをするくらいならやらなければよかった。そんな苛立ちを目の前で放心している男にぶつけたくなる衝動をマリーベルは必死に抑えていた。
(馬鹿みたい……。みっともない……。こんな男の妻にならなければいけないなんて……)
あれほどまでに愛しいと信じていた気持ちは今ではもう影も形もない。
あるのは、みっともない格好までして、みっともない欲を叶えようとした男への軽蔑。そして、そんな男へ嫁がなければならないという未来への絶望。
アリオスが義理の妹に歪んだ執着を抱いていたことを、ようやく思い知らされた。そのために自分が使われていたことも。愛する男に騙された痛みは確かにあったはずなのに、今はもう、その感覚さえ薄れていた。それよりマリーベルの自尊心を傷つけたのは、エセルが隣国ロレーヌの王弟に求婚されたという事実。
(あの女は下位貴族の出でありながら隣国の王家に嫁ぐというのに……わたくしは伯爵家の、こんな恥知らずな男の妻に……)
そう考えた瞬間、マリーベルは胸がキュッと締め付けられるような感覚を覚えた。
彼女の目から見たエセルは、一国の王族に嫁ぐに相応しい品格と教養を持ち合わせていた。
所作も、言葉遣いも、気品も、そして地味な修道女の服を身に着けても尚光る清廉な美貌も。どれもマリーベルが持ち合わせていないものばかりだ。
あれが、『選ばれる者』の姿。かつては自分もそこにいたはずなのに、気づけばその場所は遠く離れていた。
(……わたくしだって、王族に嫁ぐ資格はあったはずなのに……)
胸の奥で、何かが小さく軋む。
マリーベルにとって勉強は退屈だった。歴史も外交も、なぜ自分がそこまで覚えなければならないのか理解できなかった。作法など、息苦しいだけで、少し崩したところで何が変わるのかと笑っていた。
周囲は何度も言った。「殿下のお立場ならば、身につけないなど有り得ませぬ」と。
けれど、あの頃のマリーベルはそれを煩わしいとしか思わなかった。
その結果がこれだ。自分よりも遥かに身分の低い娘が、異国の王家に迎えられようとしている。――マリーベルには、声すらかからなかったというのに。
その事実がどうしようもなくマリーベルの自尊心を傷つける。
まるで、王女の自分が身分の低い娘よりも下だと言われているようで。
いや、実際にそうなのだ。王女であるにもかかわらず、他国の王家から選ばれなかった出来損ない。これまで目を背けてきた他人の評価を嫌でも思い知らされている。
「……どうして」
ぽつりと零れた言葉は誰に向けたものでもない。目の前で呆けている婚約者もそれには反応しなかった。
胸の奥がざわつく。落ち着こうとすればするほど逆に思考が絡まり、ほどけなくなっていく。
(ロレーヌの王弟は、どうしてあんな身分の低い娘を……)
隣国の王弟の妻という立場は、王女の自分にこそ相応しいものであるはずなのに。選ばれたのは格下の娘。
申し込みすらなかった時点で、答えは出ている。自分が相応しくないことくらい、分かっている。
それでも感情が追いつかない。どうしても――下賤な女ではなく、この自分にこそその座があるはずだと思ってしまう。
今まで形式ばった会話に耐えきれず、学ぶべきことを後回しにして。作法の稽古も、途中で投げ出して。自分に甘くし続けた結果がこれだ。
頭では理解しているはずなのに、うまく実感が伴わない。代わりに浮かぶのは、気品ある美貌の格下の娘の姿と、それに重なる、かつての“もしも”の自分。
喉の奥が熱くなる。
悔しいのか、羨ましいのか、それとも──惨めなのか。おそらく全部だろう。醜く混ざった負の感情だけが膨らんでいく。
「……馬鹿みたい」
思わず、自嘲が漏れた。今さらだ。何もかも。
ここにさえ来なければ、心から愛しいと思える人に嫁ぐという喜びだけを心に満たせたのに。
王家に生まれた女の中で誰よりも幸福だと思えていたのに。
ほんの一瞬だけ視線を向ける。真正面で呆けている未来の夫に。
かつてあれほど眩しく見えていた貴公子の姿はもうない。そこにいるのは義理の妹を手に入れるために自ら品位を捨てた男だった。
「…………ッ!!」
好きでもなくなった男、しかも格下の伯爵家へ嫁ぐなど、どこに価値があるのか。
どうせ愛のない結婚なら、王族に嫁ぐほうがよほど名誉だというのに。
それでも、この男に嫁ぐ以外に選択できる未来などない。
あの頃、ほんの少しでも踏みとどまっていれば。
退屈だと背を向けず、言われた通りに学び、身につけていれば。
──違う未来があったのだろうか。高貴な相手から望まれる姫になれただろうか。
答えの出ない問いが、何度も何度も胸の中を巡る。
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