獣血の刻印

小緑静子

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十三話 道中(1)

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 翌朝――。
 フロリアナの鐘の音に悠真はるまは起こされた。
 ぼんやりとした意識の中で、体が異様に重く感じる。なにか夢をみた気がするが、そのせいだろうか。
 ――もう少しだけ眠っていたい。
 けれど規則正しい鐘の拍子と、室内を満たす陽に乾いた木々の香りに、けだるい眠気をはらわれた。
 仕方なく寝台から起き上がる。古い木床に素足を下ろすと、じんわりと足裏が温かくなった。
 肩口をさらりとなでる風が心地よい。
 悠真は上半身が裸だと気がついた。
 衣服を脱いで寝る習慣はない。いったい、いつ脱いだのだろう。
 壁際の寝台から、ぼんやりと周囲を目でさがす。敷布シーツがない隣の寝台。無人の小円卓の椅子。卓上に置かれた昨晩のパン。
 目端でなにかがちらつく。悠真の上衣が、窓辺で風にそよいでいた。
 青空を背景に黒鳶色くろとびいろの布がふわりと揺れている。絵に描いたような朝の光景だった。
 どうしてあそこに?
 違和感をおぼえ、目をすがめる。
 ――たしか、昨日は薬が足りない話をして、そのあと……。
 悠真の瞳の色を戻すために、ジヴァンから聞いた代替案を、この部屋で施した。
 何度、羞恥から上衣を握りしめたことか。
 それが干されているのは、おそらくジヴァンが配慮してくれたのだろう。
 悠真は自分の下腹部を見下ろす。
 腹に巣食う権能は、ジヴァンをおさめて満足したのか、静かだった。
 だからか、悠真の心も不思議と落ち着いている。あれだけ恥ずかしいと堪えていたのに。
 ――飢えるわけでも、死ぬわけでもないから。
 過ぎてしまえば、なんてことのない行為に思えていた。
 いま重要なのは昨晩の効果がでているのか、だ。
 悠真は目蓋をそっとなぞってみた。
 そのとき、出入口の脇にある扉が軋みながら開いた。
 薄汚れた板の影から、ジヴァンが姿をあらわす。彼の赤銅色の髪は水をかぶったように濡れて、褐色の上裸に雫をぽたぽたと落としていた。
 フロリアナは水が潤沢なため、安宿でも各部屋に手狭な浴室がある――天井に一本の配管を通しただけの簡素な作りだが――それでも汚れを流すには十分だった。
「起きたのか」
 手の布で前髪を乱雑に掻きあげ、灰色の瞳が悠真を確かめる。
 ジヴァンはすでに薬を飲んだようだ。
 暗がりでも燦然としていた赤い瞳はそこにない。彼はいつもどおり。静寂とした冬山のような気配をただよわせていた。
「片づけまでさせてごめん。つぎは途中で寝ないようにするよ」
 穏やかに返し、悠真は窓辺を一瞥する。
 さっぱりとしていたのは、上衣だけではない。悠真の肌も同様だった。
「たいしたことはしていない」
 ジヴァンが悠然と窓側の寝台に腰かける。
 昨晩、行為におよんだその場所で、彼が膝を突き合わせてきた。
 それでも悠真の心情が乱れることはなかった。
 ――よかった。
 ジヴァンと同じように、あの出来事を義務として受け入れられている自分に安堵した。
「それより、うまくいったようだな」
 探るように瞳を見据えられる。
 どうやら悠真の瞳は黒色に戻っているらしい。けれど権能について話題にしてこないあたり、正体は依然として不明なままのようだ。
「六日間は持続する。忘れるな」
 そう念を押され、悠真は素直にうなずいた。
 昨晩食べそこねたパンを宿屋ですませ、悠真たちは帆馬車が集う通りへ向かった。
 舗装されていない土の大通りを、複数の馬や幌馬車が走り抜ける。両端の水路には蓋がされ、そこが歩行路となっていた。すれ違う通行人のほとんどが旅装姿だ。
「裏門に行く人が多いんだな」
 人々が向かう先を悠真は見つめた。
 フロリアナにはふたつの市門がある。
 首都から来た悠真たちが、到着時にくぐった門を“表”、マリティマに近い門は“裏”と呼ばれている。アウレリア大聖堂の女神を尊ぶ構造なのだろう。
 しかし信仰とは裏腹に、人々の脚は裏門へと向かっていた。
「マリティマは西と東をつなぐ地形のおかげで、富と知識が集中した国だからな。狭い領土だが、出稼ぎや留学には条件がいい」
 出発する一台を見送り、ジヴァンが言う。
「でも景気が悪いんじゃないのか? 首都の検問で、物価高だって話してただろ」
「それでも得るものが多い、という証拠だな」逆側にある家の屋根をジヴァンが指さす。「あれがなにか、わかるか?」
 棟からのぞく市壁の上部。その側面に埋め込まれた、白い半円柱が見えた。市壁の装飾のように、等間隔で並んでいる内のひとつだ。あえて意識しなければ、気に留めない外観をしている。
「塔、に見えなくもないけど」
 しかし窓がない。まっさらな白墨チョークのようだ。
「『造水装置』という代物だ。東から引いた海水をあれで真水に変え、街の水路に流している。いまでは想像できないだろうが、この土地は水の資源が昔から乏しくてな。過去の地震で、元々わずかだった水脈をすべて断たれて以来、ひとは住めない環境とされていた」
「それがマリティマの技術で可能になった?」
 市壁で感じた潮の匂いがよみがえる。
 あれは気のせいではなかった。
「元をたどれば、フロリアナはマリティマによって築かれた街だからな。設計技術はもちろん。その動力資源である『山脈の鱗レルマクア』についてもだ。出向くには十分な魅力があるだろう」
「レルマクア?」
 初めて聞く言葉だ。
 首をかしげ、悠真は隣を仰ぐ。
 ジヴァンが小さく頷いた。
「東大陸の山脈のみで採掘される鉱物だ。使い方次第で海や空を渡れると言うな。だが地形の関係で、マリティマがほぼ独占しているのが現状だ。そのかぎり、可能性が狭い資源とも呼べるだろうが」
「マリティマを通らないと、西側に運べないから」
「そうだ。だからアウレリアでは希少資源として扱われる。フロリアナ以外で造水装置を動かすほどの資源を所有するのは稀だろう。小石ひとつで裕福なたぐいになるんだからな」
 悠真は息をのむ。
 つまりマリティマは膨大な資源を掌握する国。西より栄えているのは想像に難くない。
 いったいどのような景色が広がっているのだろう。
 裏門を過ぎれば、国境はすぐそこだ。
 悠希ゆきとの距離があいていく心配を残したまま、悠真は西大陸を離れる実感がわいた。
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