獣血の刻印

小緑静子

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十三話 道中(2)

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 幌馬車でフロリアナを発ち、いくつもの轍が残る街道を進む。
 車輪が土くれを押し潰すたび、砂塵が巻き上がり、後方の雑草はかすんでいった。そこに木々は見あたらない。ただ乾いた風が、水をさらうように吹き抜けていた。
 砂のせいで喉が少しいがらっぽくなる。
 悠真は口と鼻を外套で覆い、荷室の縁からそっと離れた。
 あらためて、フロリアナを流れる水の存在が、異質だと実感する。いくつかの地割れを越えた先から、かすかに潮の香りが漂っていた。かさついた土壌。不安定な地盤。水路を築くことさえ、容易ではなかっただろう。
 ――もしかすると、他にもこんな土地があるのかもしれない。
 まだ見ない風景に憂いがわき、悠真は膝を抱え直した。
 こつっと靴先に何かがあたる。同時に弦が弾くような軽い音がした。
 厚い布地に巻かれたそれは、洋梨に似た形をしているが、長いのような部分がある。楽器だろうか。悠真の対面に座る青年の腕から、車体の振動にあわせて、ずり落ちてきていた。
 深緑色の外套をかぶった、青年の頭は舟をこいでいる。かぶり口からのぞく髪先は、ふわふわと羽ぼうきのように揺れていた。
 その隣では眼鏡の男が無言の読書をつづけている。他には編み物をする女や、地図を眺める老爺など。よく見れば荷物に埋もれて座る者もおり、荷室は所狭しだった。
 悠真は隣をちらりと見やる。
 ジヴァンが二の腕を組み、岩のごとく座っていた。両脚のあいだに使い古された麻袋の荷物を置き、他の同乗者と同様に最低限の範囲でおさまっていた。
 それなのに彼が巨躯なせいだろうか。周囲は威圧に押されたように、一定の距離を保っていた。
 必然的に悠真たちは身を寄せ合っているように見えてしまう。
 それがなぜだか座りが悪く感じられ、悠真は腰を浮かした。
「わっ!」
 車体の縦揺れに全身が浮く。
 どこにも捕まっていなかったせいで、体勢を崩してしまった。
 ぐらりと荷室から身を乗り出す。砂をまき散らす後輪が視界に飛び込む。
 悠真は転がり落ちる覚悟をした。
 だがジヴァンに肩を強く抱かれ、瞬く間もなく、軽々と元の場所へ引き戻された。
 よろけた勢いで、床に手をつく。
「あ、ありがとう」
 激しく脈を打つ心臓のせいで、うわずった声しかでない。
 あやうく、幌馬車から転げ落ちるところだった。
「気をつけろ。おまえの軽さじゃ、落ちるどころか振り飛ばされるぞ」
 悠真の胸中を読んだのか。ジヴァンが嘆息まじりに言う。
 これでも悠希より、少しは重いのだが。
「ジヴァンの基準じゃ、大抵のひとは風に飛ばされそうだけど」
 苦笑いを浮かべ、肩におかれた手を悠真は叩く。
 もう大丈夫。そう、ジヴァンに伝えたつもりだった。
 それなのに今度は腰へ腕をまわされる。堅固な腕と体に挟まれ、悠真は身動きができなくなった。
「ちょっと」
 困惑から、控えめに抗議をする。
 ジヴァンが片眉をあげて見下ろしてきた。
「いちいち、おまえを見張るのは面倒だと思わないか?」
「だからって、ここまでしなくても……」
 一度だけ周囲を一瞥し、言いよどむ。続けて「窮屈じゃないか?」と気まずげに問えば、「よけいな心配だな」と、すげなく返されてしまった。
 ジヴァンが目を伏せ、眠るようにうつむく。
 歯牙にもかけない態度をとられ、悠真は諦めるしかなかった。
 夜は理由があるので仕方がない。けれど今の状況は、慣れない扱いのせいか、どうにも落ち着かなかった。
 ――恋人関係を偽装するなら、ちょうどいい恰好かもしれないけど。
 ジヴァンにそのような意図はないだろう。悠真に自然でいいと言ってくれたのだから。
 それなら自分の自然とはなんだろう。
 悠真は悠希の姿が思い浮かんだ。悠希にするように、ジヴァンの体へ身をあずけてみる。頭が彼の胸にあたり、心音が耳底に響いてきた。
 当たり前のように、悠希とは違う。
 無骨な態度からは想像できないほど、繊細で静かな鼓動だった。
 なぜだか“らしい“と思ってしまう。それに気がつかないまま、いつのまにか口元が緩んでいた。
 ふいに、風が前髪に触れる。
 幌の端がはためき、風景が見え隠れする。
 そこに、白い小砦の姿が、遠くに見えた。
 荒れた平地にぽつんと佇んでいる様子は、まるで砂海を漂流する小舟のよう。だがその実態は、アストリオン教会が赫物の進攻を監視するため、西大陸の果てに建てた施設だと聞いている。
 つまり、あれが国境だ。
 ゆっくりと幌馬車がマリティマの領土へ足を踏み入れる。街道に検問はなく、代わりに境界を示す杭が打ち付けられていた。
 小砦が流れるように遠のいていく。
 奇妙な沈黙を貫きつつ、こちらを窺っているように。
 その姿は悠真の胸へ、形にならない違和感を残していった。
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