獣血の刻印

小緑静子

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四話 権能について

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 ふたりは街道を避け、丘に茂る森をぬけることにした。そこは鬱蒼としており、ひとが通れる道を探しては進む。時折、地面の泥濘や足場の悪い傾斜に、時間を取られることもあった。

 ふと仰げば、木々が日暮れの空を覗かせている。今日も森の中で野宿だ。

「おまえの分だ。一粒で二日はもつ。なくすなよ。簡単に手に入るものじゃないからな」

 そう言って、ジヴァンに渡された木製の小さな筒を、悠真はるまはローブのポケットから取り出した。

 蓋を外し、筒から例の薬をゆすり落とす。ころっとてのひらに転がったそれは、赤黒く、まるで瘡蓋かさぶたのよう。

 最初は服用して大丈夫なのかと震えたが、二日経っても健康に異常はみられなかった。問題があったとすれば、異世界人だからか、薬の効きが遅かったくらいだろう。

 悠真は薬の効果がきれる前に一粒のみくだす。

 ──自然と元の色に戻るって言われたから、今回も大丈夫、だよな。

 鏡となるナイフが今はないので、瞳の色を確かめることができない。ジヴァンが夕食を獲りに、森の奥へ向かったからだ。

 一昨日は木の実でやり過ごし、昨日は罠にかかった小動物を食べた。初めてこの世界の小動物を間近で見たが、当然のように奇妙な姿をしていた。兎のようでありながら、鋭い鉤爪と牙をもち、肉食のようで草食だという。そのうえ、味は鶏肉に近く、美味しかった。

 もしかするとジヴァンはまた、あの小動物を獲りに行っているのだろうか。そう思うと、空腹と罪悪感がせめぎあう。悠真は加工食品があたりまえで育ったためか、生き物をさばく行為に抵抗を拭えないでいた。数分前に事切れた生き物の姿は、なぜだか身につまされる思いをいだく。アウレリアの首都でおきたことが、尾を引いているのかもしれない。

 それでも空腹を感じてしまうのが、人間という生き物だと思う。贅沢は言っていられない。命をいただくとはそういうことだ、と自身に言い聞かせ、悠真は焚き火の準備をした。

 ふたつの青い小石を擦りあわせ、火を熾す。ジヴァンに使い方を教えてもらったが、一度でも見てしまえば、なんてことない作業となった。

「手際がいいな。野宿の経験があるのか?」

 ジヴァンは戻ってきて開口一番、そんなことを言う。手には木の枝で串刺しにした川魚を六匹もっており、それを悠真へ渡してくる。今夜の献立は魚のようだ。悠真は少なからず、血を見ずに済んだことにほっとした。どことなく鮎に似たそれらを、焚き火の周囲に立てて焼く。

「テントで寝泊まりならしたことがあるけど、あれは野宿じゃないか。まあ、これくらいならあんたが教えてくれたし、なんとかなるよ」

 ジヴァンに「気楽に話せ」と言われ、最初はぎこちなかったが、徐々になれてきた。

 悠真はジヴァンから塩が入った小瓶を受け取り、川魚にまぶす。火がぱちりと小さくはぜた。

 辺りはすっかり暗くなり、ふたりの姿が火に照らされる。悠真はジヴァンが焚き火を挟んだ向こう側で、じっとこちらを見ていることに気がついた。

「なに?」
「いや。ヴェルムテラに着くまでに、おまえの権能がわかればいいと思ってな。そうすれば道中の対策と安全を考慮できるだろ?」
「対策と安全……」

 ジヴァンから簡単に話は訊いていた。

 竜の権能には霧の先まで見通す目、山頂の風音も聞き分ける耳、さらに言えば、時間を操れるものまで存在するらしい。ほんの一部の例とはいえ、ひとが持つには次元がおかしいと理解できる。ジヴァンや赫物けものを恐れるひとびとが、警戒するのは無理もない。しかし、それなら悠真にも気になることがあった。

「ジヴァンも赫物なら権能をもっているんだろ? どういうものなんだ?」

 対策と安全を悠真に求めるなら、それはジヴァンに対しても言えることだろう。悠真は自分も知る権利があるのでは、と考えた。

「おまえの権能がわかれば教えてやる」
「それって、いま聞くとよくないのか?」
「さあな」

 ジヴァンは手前の川魚をくるっとひっくり返す。悠真もそれに倣って、川魚の焼き加減を確かめた。

 ちらっと向かいを盗み見たが、ジヴァンはこの話題を広げる気はなさそうだった。

 ──手の内は見せたくないんだろうな。俺のことを助けてくれたけど、信用はしてないってことか。

 少しさびしい気もするが、当然だと思う。右も左もわからない異世界人に、あれこれ自身のことを話すひとはいないだろう。だが、悠真に教えたところで、なにかおこせるとは思えないのも事実。

 ──言いたくないような権能なのかな?

 千も万もある竜の権能なら、ひとが笑ってしまうような種類もあるかもしれない。竜という生き物は、悠真にとって、架空の生き物だ。未知でしかない。

「俺がいた世界には竜がいないから、想像しかできないけど、竜ってどんな姿をしているんだ?」

 地球で竜はさまざまな姿で語られていた。世間で定着している竜の──ドラゴンとも呼ぶ──姿の他に、蛇や蜥蜴とかげに鳥の翼があるもの。また、神や悪魔として、人間の姿で登場することもある。

「よく描かれているのは、首が長くて、翼があるな」
「え、それって……」

 こんな感じかと、ジーンズのポケットから、携帯電話を取り出そうとした。薄く冷たい無機物に触れ、はっとする。つい癖のように携帯電話で検索をしようとしたが、この世界には電波がない。そのうえ、見た限りでは文明が地球より遅いと思われる。移動が徒歩や馬というのがその証拠だ。

 さすがのジヴァンでも、異質な物体には驚くだろう。そうして誤って破壊されてしまえば、目も当てられない。これには悠希との画像が残っているのだから。

 悠真はジヴァンの隣に移動し、小枝で地面に線をひく。大学のゼミの先輩から借りた画集に載っていた、竜を簡素に描いてみた。色までは表現できないが、焚き火の灯りが、それを赤く印象づける。

「うまいものだな」
「あ、ありがと……」

 ひとを褒めることがあるのだな、と悠真は失礼なことを思いつつ、照れが遅れてやってくる。

「そうだな。だいたいこんな感じだ」
「色はやっぱり赤?」
「やはりというのはよくわからないが、白か銀で描かれることが多いな。月が竜を象徴するせいもあるのだろうが」
「そういうのは向こうでもあるよ。特に神様に関してだけど」

 悠真は焼けた川魚を火から離す。すると、遠くから聞き覚えのある音が耳に届いた。低く伸びのある風のような音。しかし、焚き火に変化はなく、風ではないと物語る。動物と考えるのが妥当かもしれないが、あの音は大聖堂で逃げていた時に聞いたものだった。

「あれが竜の声だ」

 ジヴァンが静かに声をこぼす。

「赫物を、呼んでるんだな……」

 千年も孤独に赫物を呼び続ける竜の声。

 悠真は大聖堂であの声にも導かれていたのだと、気づかされる。

 以前よりも、悲しい響きに切なさが込み上げた。自分が赫物だと自覚したせいだろうか。

 なかなか意識を離せないでいると、ジヴァンが「気にするな」と悠真を現実へ引き戻す。

「じきになれる。そうでなければ廃人だ」
「廃人……」

 赫物の存在に冷静さを失うことが当たり前ならば、竜の声に気が触れる者がいてもおかしくはない。悠真のように気づかない者はいないだろう。赫物になった者だけが聞こえるとなれば、察しがつく。

「それよりも、おまえは自分の心配をしたほうがいい」

 悠真がジヴァンに向き直ると、彼は手にした串刺しの川魚で夜空をさす。

「もうすぐ満月だ。月は竜の象徴であると同時に、空のはらと言われている。特に満月は生命に影響をあたえ、繁栄を促してくる。ひとは理性があるぶん対処するが、赫物となればそうもいかない。権能の類によっては厄介事になる。おまえの権能がわからない以上、身辺でなにがおきても、不思議ではないと覚えておけ」

 そう言って、ジヴァンは焼けた川魚にかぶりつく。悠真にいたっては空腹感を一瞬わすれていた。

 説明されないよりはずっといい。丁寧な説明もありがたい。だが、どんな言葉を並べても、理解が追いつかないこともある。この世界の事情に関しては特に。

 ──これが、異世界人の弊害……。

 海外旅行とはわけが違う。常識外れな出来事に心を強く持たねば、と考えさせられた。

 悠真はひとつ頷き、「いただきます」と、うつろな瞳の川魚へ合掌する。

 舌にのせたそれは、椎茸のような味だった。
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