獣血の刻印

小緑静子

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五話 赫物との遭遇(1)

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 森を進むと林道に差し掛かった。緑陰がちらつく通りに、鳥のさえずりがちちりと響く。

 悠真はるまは草木の朝露をはらい、渇いた土へと踏み込んだ。いくつかの蹄跡とわだちがざりっと崩れ、そこからひとの気配が漂ってくるようだった。

「ここから街道へ出て、マリティマに向かう」

 ジヴァンは羽織っていた亜麻色の布を頭へ被り直した。赤銅色の髪は目立たなくなり、巨漢という特徴だけが残される。

「追手は心配しなくて大丈夫なのか?」

 悠真は茶色いフードを目深に押さえ、ジヴァンを不思議そうに見上げた。

 マリティマといえば検問を抜ける際に聞いた国だ。物価についてジヴァンたちが話していた。地図で見たかぎりでは、東と西の大陸を唯一つなぐ国でもある。

 要するに、国境がひとつしかないということ。これほど網をかけやすい場所はないように思う。

 だが、ジヴァンは「それは問題ない」と歩みを進めた。悠真は小走りし、隣に並ぶ。

「やつらには首都での役割がある。逃した赫物を執拗に追うことはない」
「役割……」

 それは赫物を竜に近寄らせないという話のことだろう。赫物は竜に応えて首都へやってくる。わざわざ草の根を分ける必要はない、ということか。

 悠真はなるほど、と胸中で頷く。

「おそらく伝令馬で、各管轄に検問の指示は出しているだろうがな。おまえの人相書きが出回っていれば、そこだけが問題だろう」

 ジヴァンの返答に、悠真は自分の顔を思わず触る。

「すごくそっくりに描かれるだろうな。向こうには悠希ゆきがいるから」
「まさか、ふたつ子なのか?」

 ジヴァンはわずかに眉根を上げた。その反応に、悠真はふと、自分が悠希と双子だということを伝えていなかったと気がついた。表情をゆるませ「よく似ているんだ」と肯定する。

 するとジヴァンは「不幸中の幸いだな」と口端を上げた。

「なにが?」
「ここでは神子の肖像画を描く行為は、神聖不可侵の原則に反して不敬にあたる」
「つまり、おれを描いたとしても、世間からは法を犯したように見えるってことか? 人相書きを作っても、たいして似てなさそうだな」

「そういうことだ」と、ジヴァンは軽く頷く。そして、

「検問では瞳の色さえ偽装すれば通れるだろう」

 憂いがひとつ解消されたようだった。代わりに悠真は疑問が浮かぶ。 

 ──女神を偶像崇拝しているのに、神子の場合はなぜ許されないんだ?

 悠真はこの世界でみた女神像を思い起こす。あの時は逃げることに必死だったが、美の女神の絵画と見紛うほど、精緻な石像はいまだに印象深い。だからか、神子との対比に違和感を覚えた。

 突然、鳥の羽がばささと音をたてた。

 同時に馬のいななきと悲鳴が響き、がたがたと何かが倒れる音が奥から聞こえてくる。

 そのけたたましい音に悠真は驚いて隣を仰いだ。ジヴァンは前方を静かに見据えていた。悲鳴やいななきが鳴きやまない。わずかに目をすっと細めた様子が窺えた。

「確かめた方がよさそうだな」

 ジヴァンは麻袋を背負い直す。

 悠真へ着いてくるよう一瞥すると、街道に向かって走りだした。



  
 ほどなくして林道の出口が見えてきた。

 密集する木々は散在としていき、開けた緑地が視界に飛び込む。

 先を走るジヴァンが手で静止を促した。やぶへ身を潜めたので、悠真もそれに倣う。

 なにがあったのか。それは訊かなくとも、周囲に轟く咆哮で察しがついた。

 ──なんだ、あれ。

 緑地に広がる光景に、悠真は恐怖から息を呑む。

 最初は狼がいると思った。灰褐色の毛並みに菫の毛色が交ざる狼だ。だが虎に似た胴体は、成人男性をかつげるほど大きい。それが二頭もひとびとに襲いかかっていた。

 街道で横倒しにされた荷馬車を背に、数人の男女が身を寄せている。その中には子供の姿もあった。

 傭兵と思われる男はひとりだけ。攻撃を防ぐことで手一杯の様子だ。短刀を構える短躯な男もいたが、傭兵の後ろで兢兢きょうきょうとただ身構えている。

 どう足掻いても、じり貧状態に思われた。

 こんな時、都合よく悠真たちの追手が鉢合わせないかと願ってしまう。悠真の手元には地面に転がる石しかない。猛獣と思われる生き物に、これで立ち向かう想像はできなかった。

 そんな悠真の心情を知って知らずか、ジヴァンは静かに言う。

赫物けものだな。西大陸の山岳に生息するジャルガンだ。おそらく海を超えてきたんだろう」
「動物も赫物になるのか?」

 悠真はひとだけが赫物になるのではないという事実に驚愕する。

「竜にとって生き物に大差はない。かといって、権能を扱えるほどの知能は人間以外にそういないがな」

 ジヴァンは狼──ジャルガンから視線を逸らさない。

「赫物となった動物は攻撃的になる。鉱物が主食なジャルガンの行動がその証拠だ。人間を襲うことは正常ならありえない。だが、おかしい。捕食動物ではないとしても、動きが単調すぎる。他にも仲間がいるのか?」 

 隣で冷静に状況を把握するジヴァン。そのあいだも緑地からは悲鳴があがっていた。

 ジャルガンの鋭い爪が振り上がる。傭兵は剣でそれを強く弾き返す。もう一頭がすかさず飛びかかった。傭兵は間髪を入れず応戦するが、鋼が高く鳴くたび、ひとびとは悲鳴をあげた。 

 どうにかできないのだろうか。悠真は街道の周辺へ目を走らせた。

 丈のある草叢がさざめき揺れている。急き立てるような音に悠真は焦りを覚えると、一際、大きな草音はおとが耳にとどいた。

 視線を投げると、そこには草叢くさむらに身を隠す何かがいた。草を掻き分け、ゆっくりと荷馬車に近づいている。その先には子供を抱えた女性の姿があった。

 悠真は足元の石をとっさに掴む。ためらいはなかった。

 藪から飛び出し、草叢を駆けた。膝まである草に足を取られたが、なんとか助走をつける。大きく振りかぶり、石を何かに向かって投げつけた。石は大きく弧を描き、草叢に落ちる。

 すると悲痛な鳴き声が轟いた。当たりどころがよかったようだ。三頭目のジャルガンが投石の痛みに、草叢から身を跳ねさせた。

 ひとびとは増えた脅威に悲鳴をあげた。

 おそらく気付いていなければ、横から形勢を崩されていただろう。

 悠真は三頭目がどう行動するのか警戒する。だから、気がつかなかった。

 視界の端に大きな翳がさす。思わず反応すると、赤い双眸と殺気立つ爪が悠真に向いていた。

 ──まだいたのかっ。

 気づいた瞬間、体に強い衝撃を受け、地面に倒れた。のしかかる重みはない。悠真はすぐさま上体をおこす。みすみす爪の餌食になるつもりはなかった。だが、瞳がとらえたのは赤い目ではなく、赤銅色の髪だった。

 そこにはもう四頭目のジャルガンはいない。少し離れた場所に赤く染まった草叢が見えたが、目の前にはジヴァンの姿だけがあった。右腕が血でべっとりと濡れている。

 拳であの巨体を仕留めたのだと、悠真は理解した。

「おまえはここで待っていろ」

 ジヴァンは悠真へそれだけ言うと、荷馬車のほうへ駆けていく。 

 ひとびとを襲っていた三頭は仲間の死を察してか、ジヴァンへ牙を剥いていた。そのうちの一頭は油断をしたため傭兵に首を切られ、討ち取られる。残る二頭はジヴァンが急所を打撃したようだった。

 四頭の赫物は草叢に沈み、絶命した。
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