獣血の刻印

小緑静子

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十話 フロリアナ

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 フロリアナの市門前。
 御者が憲兵と短いやりとりを交わすと、簡単に通行許可がおりた。
 首都のような賑わいはなく、洞のように閑静な場所を荷馬車でゆっくりと通り抜ける。すると微かに潮の匂いが鼻先をかすめた。海が近いとはいえ、地平線にその気配はなかったはず。なぜだろう。
 次第に幌越しから聞こえる雑踏音を肌で感じはじめた頃、二頭の輓馬ばんばが路肩で止まった。御者は荷室を振りかえり「さあさあ、みなさん、フロリアナに着きましたよ!」と、得意げに告げたのだった。
 悠真はるまは荷室から降りると、赫物けものとなった娘の母親──ヘデラ・マープルに呼びとめられた。彼女はスカートにすがる娘を抱きかかえ、足早に歩いてくる。その手には見覚えのある小さな筒があった。
 薬に問題があったのだろうか。悠真は心配になり、慌てて駆け寄り訊ねた。

「なにかありましたか?」

 しかし、ヘデラが幼い少女のように首を振り返した。結いまとめた茶髪から、こぼれた後れ毛がふわふわと揺れる。あどけない顔立ちもあいまってか、彼女が悠真より五つ年上だと忘れそうになった。

「たいしたことではないんです。ただ、最後にご挨拶をとおもって……」

 彼女は「ね?」と娘に語りかける。娘──クロエは翠銅鉱のような青緑色の瞳を瞬かせると、じーっと悠真を見つめてきた。確認、それとも観察だろうか。クロエの不思議そうな表情に、悠真は困惑しつつも笑顔をみせる。すると少女は母親の肩にぱっと顔を隠してしまった。

「あら、お話ししたかったんでしょう?」
「そうなんですか?」
「ずっとあなたのことを『きらきらしてる』って言うんですよ。だからてっきり、そうだと思ったのだけれど……」

 さらにうずくまるクロエの頬は熟れた桃のように赤くなっていた。その子猫のような愛らしさに悠真は純粋に微笑むと、今度は母親に凝視されていると気がつく。娘と同じ瞳の色と表情を向けられ、戸惑う反面、よく似た親子だと感心する。

「もしかして、俺の顔になにかついてます?」

 だから興味をもたれたのだろうか。悠真が自分の頬を撫でると、ヘデラは慌てて首を振った。
「ただ……」手にしていた小さな筒へ視線を落とし「これ、大切に使わせていただきます……おふたりも道中お気をつけて」言って、顔をあげた。そこに幼い少女の印象はない。家族を守ろうと誓う、毅然とした女性の姿があった。これから彼女たちもヴェルムテラに旅立つのだろう。

 悠真は遠ざかる母子の背中を見送っていると、ジヴァンに声をかけられ振りかえる。御者となにか話し込んでいたのだろうか。彼は御者台から離れると「宿を探すぞ」と歩きだした。

 路傍の隅をゆく背中を追いかけ、あらためてフロリアナの景観をみわたす。
 白い岩肌の市壁に囲まれた街。石造りの家が軒並み、一軒に一台の水車が備え付けられている。石畳の大路や小路には水路が並行し、そこを流れる清澄な水が水車を涼やかに回していた。
 ふと木陰にさしかかり、仰ぎ見る。木々や屋根のあいだから、白い鐘塔しょうとうがちらりと見えた。どうやら街はあの塔を中心にゆるやかな勾配をつくったようだ。自然と水が塔へと集まっていく。ジヴァンにきいたところ、鐘塔の足元では特産の花が大量に栽培されているらしい。その規模は街の半分を占めるとか。
 フロリアナ──別名は東の花園。言って名の通り、どこへ目を向けても色鮮やかで多種多様の花が街を飾り立てていた。

 不思議とそれはフロリアナの住民にもいえたこと。複数の系統を受け継いだような顔立ちは、ひとりとして同じ民族だと判断できる要素はない。けれど全員が同じ言語を流暢に話していた。
 旅路を共にした御者一行の顔ぶれもそうだ。荷馬車という狭い空間のせいで違和感を覚えなかっただけで、ここのひとびとと大差はなかったように思う。

「ついでに必要なものを買い入れておくか」ジヴァンは裏路地へ進み「ここの通貨を教えてやる」と悠真に振りかえり言った。
 建物の隙間から生えたような、細長い服屋の前に立つ。閑散とする店先には服が乱雑に積まれ、一見では売り物だと判断できない陳列だ。しかし錆びた袖看板には【埖服ごみふく】と一応、服の文字が刻まれている。もちろん漢字ではない。それなのに悠真には蚯蚓みみずのような文字がそうだと読めた。

 ──赫物になったから?

 異世界だというのに初めから言葉に不自由しなかった。そのうえ文字も読めるとなれば、原因はひとつしかない。意外な良点を知れて、ほんの少し慰められた気分になった。

 店の出入口を見やれば、ゴールデン・レトリバーのような大型犬に似た動物が、通路を塞ぐように寝そべっている。毛色は煤をかぶったような灰色で、毛並みに艶はない。薄暗い店内に入れば、どこにいるかわからなくなりそうだ。ジヴァンが店の奥から出る際には、跨がれても吠えることはせず、その灰色の動物は無関心をみせていた。
「すごく、おとなしいんだな」悠真は犬らしき動物に関心を示すと、「老犬だからな」とジヴァンは積まれた衣服を物色し始めた。並べた椅子に築かれた服の山は、簡単に端から崩れていく。悠真は呆れて落ちた服を拾った。

「そんな雑にしたらお店のひとが困るだろ」
「もともと捨てられていた服を売っているような店だ。店主は気にしない。だから客も気にする必要はない。ここはそんな店だ」

 ジヴァンの言葉にぎょっとした悠真は拾った服を広げて見る。皺はあれど、目立つ汚れや破れはなさそうだ。匂いを嗅いでみても臭くはない。むしろ花のような香りがした。

「拾った服にはみえないけど、もしかして誰かに譲ってもらった服って意味?」

 古着のように。そう思い首をかしげると、ジヴァンは「上をみろ」とだけ返した。
 悠真は素直に見上げ、おもわず目を見開く。
 頭ひとつ飛び出た三角屋根から、たくさんの服が吊るされた状態で、半円を描くように流れていた。屋根から外へ、そしてまた屋根の中へ。観覧車のようにぐるぐる回転して、濡れた服を乾燥させているようだった。

「へえ……」水の動力で動かしているのだろうか。おもしろい。
「ああして、水洗いだけは念入りにしているが……フロリアナだからな。嫌でも花の臭いがつく。それでもこの店なら、安価で良品が買えるとなれば、仕方がない」

 ジヴァンがいうにはどれも銅貨三枚あれば一着は買えるらしいが、他では安くてもこの二倍らしい。
 銅貨一枚で二日は食いつなげる。庶民にとって決して安くはない価値だと教えられた。

「金を払って着替えてこい。話はつけてある」

 ジヴァンに投げ渡された服を受け取ると、貨幣が収まった巾着を持たされた。
 荷馬車で祝儀のように貰った銅貨をさっそく使うことになるとは。悠真は難色を押し殺す。騙して受け取ったという後ろめたさはあるものの、ジヴァンが女神に抱く怨恨を知るにつれ、自分の道徳心が無神経に思えたからだ。

 ──俺がするはずだったことを、ジヴァンが肩代わりするような形になっていたんだよな。

 世間で疎まれる存在である赫物。身ひとつでこの世界へ来た悠真にとって、盗み、騙しなくして生きる術はなかっただろう。それに気づけなかったのは、ヒトとして道徳心を捨ててはいけない、と自覚のない矜持でもあったのだろうか。

 悠真は店の出入口にさしかかると、おとなしかった老犬がふいっと顔をあげた。どうやら盲目らしい。ほぼ白い瞳は悠真を見ず、鼻の穴をぴすぴすさせている。しばらくして鼻先の存在が客だと認識したのか、老犬は恭しく退いてくれた。とても頭の良い動物だ。おそらくジヴァンへの態度は無関心ではなく、気を許した姿だったのだろう。

 ──ジヴァンに訊いても、きっと、教えてはくれないんだろうけど。

 悠真は天井まである靴棚に挟まれた、薄暗く細い通路を行く。その突きあたりには勘定台があり、店主らしき壮年の男性が不愛想な顔でいた。短い無精髭がはえたあごをしゃくれさせ、火のない煙草をするめのように齧っている。服装一式の代金を置けば、男は干し葡萄のような指先で隣を指し示した。
 室内に設置された水車が幾つもの歯車を回している。その向かい側には天幕がおろされた空間があった。あそこで着替えろ。ということらしい。
 悠真は傷んで汚れたスニーカーを脱ぎ、手に取る。靴裏の底ゴムがずいぶんと削げ落ちていた。

 ──悠希ゆきとお揃いだったのに。

 寂しさが胸に広がるなか、悠真は黙々と着替えを終え、どこにでもいる旅人風情となった。
 黒鳶色で亜麻リネンに類似した材質の服を、皮帯ベルト長靴ブーツで引き締めている。ついでに新調した外套ローブには砂塵よけがあり、口元を覆うことができた。いざとなれば顔を隠すことができるだろう。
 悠真は脱いだ服を手に店の外へ出ると、すでにジヴァンも衣服を整えた後だった。悠真と似たような身なりをしているが、鍛えられた体格は隠しきれていない。そんな彼は老犬を前にしゃがみこんでいた。老犬はなにかを無心で頬張っているようだが、餌でもあげたのだろうか。

「すごい食べてるけど、なにあげたの?」

 肉か、それともドックフードらしき食べ物かと首を傾げる。するとジヴァンは食べ終えた老犬の頭をひと撫でし、「服だ」と答えた。

「ふくって、この服であってる?」悠真は顔を引きつらせ、着ている上衣を摘まんで見せる。
なんでも食べる犬アメニカニスはそういう生き物だ。おまえも食わせてみろ」

 悠真は半信半疑で老犬の前に衣服を置く。

「けっこう汚れた服だけど、お腹壊さないか?」
「むしろそれを含めて好物だな。なんでも、と言われてはいるが、こいつはどうも美食家らしい」

 老犬は盲目なはずなのに、また悠真の存在を確認すると、平伏するように悠真の服を食べはじめた。老犬にとってはただの食事のはず。なのに大切な物を扱うような仕草に見え、悠真は目頭が熱くなった。

「ずいぶんと気に入ったようだな。美味いか?」

 ジヴァンは老犬の垂れた耳をひょいっと摘まむ。老犬がそれに対し低く唸り返すので、彼は呆れた様子で頬杖をついた。まるで自分よりうんと年下の子供へ接するような態度。

「ジヴァンは……この犬と知り合って長いの?」悠真は思い切って訊いてみる。
「いや、覚えていないな」 

 だが老犬の食事をぼんやりと眺めながら返された。
 わかっていたことだ。この男は自身について少しも話したがらない。それだけまだ、自分は信頼されていないのだろうか。悠真は肩を落とした。

 ──この世界に来て、世話になりっぱなしだもんな。

 だからか満月の夜を経て気づいてしまったことがあった。
 心のどこかで、自分の権能が役立つものであってほしい、と期待していたのだ。なんて愚かな願望だろう。赫物がどれだけ世間で忌避される存在か知っていた分、衝撃的で情けなかった。だがヴェルムテラに辿りつくまでのあいだ、ジヴァンにとってただの荷物になりたくなかったのは事実。

 ──少しずつ、探していこう。

 世界を知れば、自分にできることがわかるはず。そうすれば悠希と日本へ帰る方法も見つかるかもしれない。
 悠真は老犬に咀嚼されるスニーカーを見届けながら、そう思った。
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