上 下
1 / 3

「戦う意味ってあるのかな」

しおりを挟む
 醜い。
 黒い毛並みに赤い闇色の眼。 人を殺して愉悦に嗤い歪む獣の口。
 唾液で出来た泡《あぶく》が獣の口の端に溜まっていて、その下には垂れた唾液が黒い毛を濡らしていた。

 狂うような声は下卑た人間そのものであり、狼男ウェアウルフと言い表すことの出来るその姿は、獣の凶悪と、人の悪辣を併せ持っていて、ただひたすらに穢らわしいと、何処か他人事のように男は思う。

 ああ、醜い。 醜い。 あまりにも。

 そんな罵り嘲る言葉を喉の奥に飲み込みながら、男は息を吸い、狼男から逃げる大衆と沈みゆく太陽を背にして、心を燃やすように口を開く。

「…………変身』

 吐き出すように呟いた言葉は力を持っていた。
 赤く染まっていた世界が暗がりへと変わりゆく逢魔時。 逃げたことで人気が急激に失われていく世界の中で、太陽すらも逃げるようにして沈んでいき、その日の夕暮れはいつもより短く終わる。

 男の姿は人気のない闇の世界に似つかわしくなるように変質していく。 
 たった一人、異形に立ち向かった勇者。 人を守る英雄。 人を思う優しいヒーロー。

 そんな美しい姿には、ならなかった。

 グチュ、グチュ。 男の皮膚は失われ、赤い肉が泡立つように膨れ上がる。
 内側から赤い肉を破るようにして現れた白色の刃は血液を纏って半端に赤黒く染まっていた。 赤黒い骨の刃はそこらかしこから男の肉を破り出てくる。

 まるで人間を解体でもしたのかと尋ねたくなるほど血みどろの地面の上、男……あるいは男だったものが、びちゃり、脚を動かして血溜りに波紋を生み出す。

 まだ、目の前の狼男の方がよほど人間らしいだろう。
 血塗れの男は、肉の内側から大量の刃に刺し貫かれたような姿であり、気持ちの悪い怪死体のようにすら見える。

 狼男などと比べようもない完全な異形。 
 以前目撃した人物が評して広めた名は【刃鬼】。 狼男すら「男」と人であることを認められているのに、男は「鬼」だった。

 その通りなのだろうか。 吠えた。 鬼がか、狼がか。
 言葉にすらならない叫び声が、人のいない街の中に響いた。

 喧騒も何もないせいか、嫌なぐらい街に響いて、溶けていくように音が消える。


 男が初めて異形に変わった自身の姿を見た時のことは、今でも何の移ろいもなく覚えていた。

 何の因果か、人に害を及ぼす魔物と似たような姿、同じ程度の力を……その魔物を呼び出していた場所にて与えられた。

 人並み以上の正義感があった男は、その場所を壊し尽くしたあと、残党の魔物達を殺してまわった。
 異世界の生命。 この世界にはあってはならないその魔物達と戦い、人を守る。

 痛みはあった。 辛くもあった。 金銭面での負担もあれば、時間は多大に制限されて、まともな人間としての生活は不可能となった。

 それでも、男は肉を破られ、身体を抉られ、殺されかけ、戦いに身を置いた。 人は、人を助けなければならないことを知っていたからだ。

 人が逃げていくのは、魔物を恐れてのことだと思っていた。 自分や大切な人の身を守るためだと信じていた。

 男が初めて自身の姿を見た日のことだ。 逃げ遅れた少女に魔物の攻撃が飛び、自分の身体で少女を庇い守る。
 男の血液が舞って、少女の頬にかかる。
 少女の怯えを感じた男は自分は大丈夫だと笑みを作って微笑む。 尚更に、少女は怯えて男からひたすらに逃げようとした。

 守ったことに感謝されると思っていたわけでもない、こんな場所から逃げ出すのは当たり前だ。 けれど、少女の黒い目は、映し出していた。 醜い。 醜い。 あまりにも醜い己の姿を。

 そして男は気がつく。 人々が逃げているのは、魔物が恐ろしかったからではない。
 いや、魔物が恐ろしかったからだけではないか。
 それも違う。 男が思った通り、魔物が恐ろしかっただけだ。 
 けれど男と人々の認識の差異はそこではなかった。

 少女の涙が見える目の奥には、グロテスクな魔物が映っていた。 それだけの話だ。


『ウアアッ!! ウアガァァアアアアアアアアア!!!!!』

 男は吠えて、己の爪を狼男へと振るい、肉を抉る。
 狼男の牙が男の肩に突きたって肉を喰らわれる。

 肩を喰う狼男の頭を掴み、地面に叩きつけ、割れたアスファルトには目をやることもなく、もう一度持ち上げて、同じように地面に叩きつける。
 それでも弱る様子を見せない狼男の首に異形の牙を近づけて食い抉った。

 狼男と刃鬼。 彼等の戦いは、同じような化け物が食いあっているに過ぎない。

 狼男は無理矢理に男の身体を払いのけて、同じように男の頭を掴み何度も地面に叩きつける。 ひたすらにそれを繰り返すが、そのような暴力に晒されたまま男は手を伸ばして、狼男の首を掴みひたすらに締めて、同時に拳を振るってその顔面を潰す。

 狼男の牙が血とともに飛んでいき、男の拳が砕けて白い外骨格が飛び散る。
 びくりと震えた狼男の頭を叩きつけ、動くことをやめた狼男を何度も殴りつける。 ひたすらに。

 狼男の顔より先に男の手が砕け、その瞬間に狼男の手が男に伸びて、掴み、自らの口元に持っていき、噛み食い千切る。

 男の腕が根元から食い千切られーーそれを嚥下する音が聞こえた。

 人は人を助けなければならない。 だから俺は助けようとしてーーあれ? 何で俺のことを、誰も助けてくれないんだ?

 それどころか、守ろうとした人間から石を投げられたこともある。 逃げれば、追われたことがある。 人は人を助けなければならない、なんて、誰もが知っていることじゃないか。

 じゃあ、なぜ俺は、誰からもーー気がつく。


 ーーーー俺は人ではない。

 狼男の顔に腕に生えている刃を突き立てて、何度も何度も突き立てて、殺す。

『アあ……ああ、そうか。 そうだったのか」

 変身が勝手に解けるが、喰われた腕の付け根や怪我をした一部だけがそのままの姿だ。
 腕は隠せる程度だし、ところどころ変身した姿のままだが、同一の存在とは思われないだろう。

 腕も失った。 身体にも異形が残り人らしさを失った。

 人を守るために戦って、人らしさを失って、腕を失って、生活を失って。 失った。
 人に尽くして、尽くして、それなのに、男には何もない。 

 人に見捨てられたからといって、男には復讐を企てるつもりはなかった。
 けれど、気が付けばもう何もない。

 人を守ろうとは、思えなかった。 これ以上は。

 思えば、男は何のために戦っていたのか。 人に感謝されるためか、違う。 人を守るためか、違う。

 考えている内に、久しぶりに帰って来れた自宅に着いて、破られ、汚れている服を脱いだ。

 もうそのまま捨てるしかないそれを放って、適当にシャワーを浴びる。 汗と汚れで黒くなっていく湯の匂いに顔を顰めて、適当に洗ったところでシャワーを止める。
 あまり長い間、化け物が混じっている自分の身体を見たくはなかった。

 久しぶりに開いた冷蔵庫の中身は、野菜も肉も腐っていて、酷い異臭がしていた。 その中に手を突っ込んで、この体になる以前はよく飲んでいた安い発泡酒を手に取る。
 片方しかない腕では、缶を開けることが難しく、やっと開けれたと思えば転かして半分ほど床にこぼしてしまった。

 大切にしていた絨毯に染み込んでいくが、無視して発泡酒を口の中に入れる。

 不味い。 安いだけあって酔うことしか出来ないような不味さで、本当に不味くて笑い声が口からもれでた。

「不味い、クソ不味い」

 男はそう言ってから、項垂れる。 こんなクソ不味いものを諦めてまで、何で俺は戦っていたのだろうか。
 不味すぎて、涙が出る。 本当に不味くて、どうしようもなく不味くて、失った腕を撫でる。 顔にある異形の残り姿を触れた。

 すぐに飲み干してしまった発泡酒の缶を適当にほおって、そのまま目を閉じる。
 今まで生きてきたそれを否定してまで、人を守った理由は何だろうか。 あるいはそれは、英雄願望か。

 考えるのが面倒くさく、目を閉じる。 きっと意味なんてなかったのだろう。

 男が目を覚まし、外を見ればもう昼もすぎていて、人が忙しそうに歩いている姿が見えた。 
 ゆっくりと息を吐いて、男は思う。

「もう死ぬか」

 全てが失われている。 生活も、金も、人との繋がりも、まともな体も、守る意思も同様だ。
 遺書を書こうと考えたが、発見されるのは随分後だろうし、発見するのは清掃員か何かだと思えば、ペンを手に取る気きはなれない。
 いや、そもそも誰宛に書く文章になるのか。

 昨日酒をこぼしていた場所にハエがたかっていたので、少し気持ち悪くなりながら外に出た。

 酷い全身の痛みと共に、適当にそこらを歩く。

 連日の魔物のせいで人気がなくなったビルがあったので、そこに入り込んで階段を登った。
 思えば、このビルの下で、己の姿を初めて知ったのだったか。 

 そこで死ねば、よかった。

 まぁ、結局はもう死ぬだけだ。 結果は大して変わらない。
 男は階段を登っていけば、脚に震えが走り、それでも登ると、立つこともままならなくなり、その場に座り込んだ。

 妙な病気や、怪我の類ではないことは、諦めて降りようと思えばすぐに歩けるようになったことから分かる。

 「絶望しても、まだ生きたいのか」と自嘲するけれど、そんなのはより辛いだけだ。  理性で理解していても、男の脚がこれ以上登ることを拒否する。

 自分にすら裏切られた気分になって手摺に縋るようにして立ち上がろうとする。 そんな時だった。 後ろから物音が聞こえ、男の身体が反射的にその場から立ち上がって振り向く。

「……子供?」

 男と同じくビルの階段を登ってきたらしい。 子供、少女の手にはそこらで拾ってきたような、土の付いた5本ほどこ野花の束が握られていて、少女は小さく頭を下げた。

「あなたも?」

 そう小さく問われ、言葉足らずな問いもすぐに意味が分かる。 ここで死んだ誰かに花を手向けに来たのか。 その問いは否であるが、そう言うわけにもいかなかった。

 自殺しにきた。 人が死んで、壊れたせいで人がいなくなったビルに、死にに来た。 言えるはずもなく、男は頷いた。

「……僕も、なの。 こんな花しか。 ないけど」

 少女の口から「僕」という言葉が出て少し違和を覚えたけれど、気にするほどのことでもなく頷いた。 少女がゆっくりと登ってきたとき、野花の匂いが鼻腔に入る。
 どこか懐かしい匂いのするそれは、嫌に心地良く感じられた。

「いい匂いだ。 そこにいるのかは知らないけど、喜ぶんじゃないか」

 気休めにそう言えば、少女は首を横に振る。

「喜ばないよ。 いたとしても、だって、こんな花しか、ないんだから」

 男は少女を見ることも出来ずに、項垂れながら声を出す。

「そんなに綺麗な、花なのにな」

 息を吐き出せば、少女は男よりも少し先で蹲っていた。 まさか、自分のように自殺をしに来たというわけでもあるまいし、少し不思議に思えた。

「大丈夫か?」

 考えても見れば、遺族なのだろうから辛さで止まることもあるかと思った。

「……うん。 ありがと、僕帰るよ。 今日は」

 少女は困ったように言ってから、階段を降りていく。
 手に持っている野花は少し萎びれていて、明日まで持ちそうにはない。

 階段を降りていく少女に、男は口を開く。

「……あのさ、それ、捨てるんだったらくれよ」

 少女は何も言わずに男に手渡して、男は再びそこに座り込み、萎びれた野花の匂いを嗅ぐ。 少しだけ混じった土の匂い。 嫌いな匂いではなく、ほんの少しだけ落ち着いた。

 死ぬのはまた明日でもいいか。 と、少ない金銭をあてにして、ビルを降りて家に帰る。 
 花瓶がなかったので、コップに水を入れて野花の束をそれに浸ける。 土が水に溶けて薄く茶に色付いて、どこか不恰好なそれに手を伸ばして、軽く撫でる。

 なんとなく、涙が出た。
しおりを挟む

処理中です...