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「分からないけど、でも君の顔が浮かんだ」

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 押し花を纏めた手帳は、分厚くなった。
 少女と初めてあった初夏から、もう夏も真っ盛りな季節に変わったけれど、まだ死ねていない。

 変わらず毎日ビルに通っては途中で蹲って、だけど、少しずつ屋上に向かうことが出来ていた。
 少女とはあまり話をしないが、どちらかが蹲って進めなくなれば、もう一人が立ち止まって一緒にいる。 一緒に進む。 あるいはそれは足を引っ張りあっているのかもしれないが、その繋がりがなければ、既に諦めていたかもしれない。

 押し花用の乾燥させるための紙も買って、完全に趣味になっている少女の花コレクションも多く、なんとなく誇らしい気分だ。

 あれから魔物の残党を見ることはなく、もしかしたら残っているかもしれないが、それでもほとんどいないようで安心する。

 いつものように花を愛でてから、同じ時間に外に出る。 ビルの前で待っている少女と一緒に中に入って、階段を登る。
 四階まで登っても脚に震えはなく、今日は調子が良いと思っていれば、五階に辿り着く前に、少女の脚が止まる。 震えているわけではなく、意識的に止まったらしい。

「僕のお母さん。 ちょうどあそこのところで、死んだの」

 少女な五階と屋上の間を指差して、その指差した手はゆっくりと男へと向かい、そのまま男の手を握った。
 一瞬、男は息を漏らす。 男は頷く。 知っていた。 守れなかった女性がここにいたからだ。

「すまない」

 男はただ少女に謝って、少女の小さな手を握り締めた。
 一段。 一緒に上がって、もう一段少女が進んで男も進む。

「なんで謝るの?」

 男は答えることが出来ず息を飲み込む。 守れなかった、俺が殺したようなものだ、恨んでくれ。 そんな言葉をこれまでの間、何度言おうと思ったことか。

 少女に責められるのが、嫌われるのが恐ろしく、今の今まで口にすることは出来なかった。

 少女は男の様子を不思議に思いながらも、ゆっくりと、吐露するように言葉を紡いだ。

「死んだ人の、悪口はダメだけど……酷い人だった。
浮気して、お父さんと別れたの。 お父さんも僕と一瞬にいたがったけど、お母さんは僕を連れて出て行った」

 一歩、一歩、進む。
 少女は泣きそうに顔を歪めて、男の手を強く強く握り締める。

「嫌がらせだったみたい。 僕を連れて出たのは。
浮気相手の人と一緒に、僕に意地悪をした。 いっぱい意地悪をしてきて、お父さんの悪口をいっぱい言ってた。 死ねばいい、殺してやりたい。 そう思った」

 涙の粒を幾つも零し、少女は男の身体に抱き付いた。

「なのに! なのに! なのに! ……最後、僕を庇ったんですよ?
それで死んじゃうような怪我をしちゃって、なのに、なのに、なのに! ……僕を見て「よかった」そう言って笑ったの」

 投げつけるように野花を供えて、少女はわんわん泣いた。 今までの怒りを、不満を、悲しみを……あるいは、愛されていた喜びを吐き出すように。

「ズルい。 ズルいよ。 最後だけ、最後だけ……そんなの。 恨めたら、まだよかったのに。 それならずっと愛してくれたらよかったのに」

 男は何も言わずに少女の身体を抱き締めた。

「いっそ……守られずに、死にたかった」

 少女は泣き疲れたように男にもたれかかって、男は抱き締めたまま、背中をトントンと優しく撫でる。
 二人でその場に座り込んで、少女は男の脚を枕にするようにした。 髪を梳くように撫でられた少女はケホケホと咳き込む。

「……死にたかったなんて、言わないでくれ」

 どの口が言えたことか。 自殺をしに来た癖に。 男はそう思いながらも、ただ少女の身体を摩る。

 守れなかった。 少女の母も、少女の心も。
 その事実が少女の身体よりも重くのしかかって、少女に釣られるように男の目から雫が落ちた。

「泣いてくれるの? 僕のために」

 そんな少女の言葉。 耐えきれずに「うっ」と声が漏れ出て、手で抑えるけれど、それでも声と涙が漏れ出る。
 少女は起き上がって、先ほど自分がされたように男の顔を自分の胸に抱くようにして、背中をトントンと摩る。

「……泣か、ない」
「男の人でも、泣いてもいいと思う。 お父さんも、僕が連れられた時、泣いてた」

 決壊する。 感情に歯止めが効かない。 少女に胸を借りながら泣くなど、どうしようもないほどの恥だ。

「ごめん、ごめん……ごめん」
「なんで、謝るの」
「ごめん、ごめんなさい。 俺は……守れなかった。
君のことも、君の母も。 すまない。 許されるなんて、思っていないけど」
「……分からないよ。 なんて謝っているのか」
「もっと上手くやれてたら、助けれてた。 痛みに怯えなければ、守れてた」
「……ずっと、それが言えなかったの?」

 男は泣きながら頷いて、少女は少しだけ薄く微笑む。

「馬鹿な人。 ……守れなかった、なんて、約束しても、頼んでもないのに」
「ごめん。 ごめん。 謝りたかった。 でも、怖かったーー俺が」

 あんなにも醜い化物なんて、知られるのが。

 その言葉は最後まで言えず、泣きに泣いて、一時間は泣き通して、泣き疲れて、ぐったりと階段に寝転ぶ。 少女も男を抱き締めながら泣いていたのか、目が真っ赤になっている。

「……ありがとう。 ごめん」
「また謝って」
「……格好悪いところ、見せた」

 少女は真っ赤な目をこすりながら笑って、立ち上がった。
 赤い目を横にやって、供えた野花を見た。

「ごめん。 今日はあげれないや」
「……ああ、残念だ」
「帰る?」
「……こんな目で、人がいる時間に帰れるか」

 男は顔を隠すように背けて、少女は笑った。

「僕は、暗くなる前に帰るね。 お父さん、心配するから」
「ああ、さようなら」

 もう、男は少女と会うことはないだろう。 花は供えれた。 少女はこのビルにくる意味はない。

 趣味の押し花も、もう終わりだ。 多分、魔物ももういない。
 全てが終わった。 そう思いながら、男は降りていく少女を見送った。

 別れた寂しさに、また一人泣いた。
 少女と会えなくなることがそんなに嫌なんて、馬鹿な話だ。

 また長い時間ないて、涙も枯れてしまった頃、立ち上がった。
 歩いて、歩いて、階段を登る。 五階から屋上。 夜は暗く、夏だからか、心地よい温度だ。

 押し花で膨れ上がった手帳を一ページ一ページ捲れば、似たような花が美しかった。 ……ああ、最後にいい思い出が出来た。

 綺麗な星空、長い旅は終わった。 死ぬにはいい日と、身体を傾けて、身を外に投げ出す。
 落ちているのに不思議と感じる浮遊感。 目を閉じ、死の安楽に身を任せようとしてーーーー黒い獣毛、人のような体格、膨れ上がった筋肉、狼男の魔物を見た。

 いや、それと、小さくーーーー


「変身ッッ!!!!』


 ーーーー少女の姿が見えた。 手帳を手放し、ビルの壁を蹴り、蹴り、蹴って加速する。
 狼男の凶刃な爪が振るわれーー男の身体を引き裂いた。

『マニ、アッタ』

 醜い姿に、醜い声。 晩節を汚した不快な気分の中、狼男の顎が男だった化物に迫り、男はそれを殴り付ける。
 爆ぜるように狼男の体が後方に浮かび上がり、男は地面を蹴ってそれに追いつき、自身の身体にある刃を狼男に振るう。

 硬い獣毛に阻まれ、筋肉の鎧に止められた刃を引き抜き、隻腕の刃を振るい続ける。 狼男の全身から獣毛が飛び散り、血が舞う。
 男の腕は狼男の顔面を掴み、掴んだまま走り、ビルに叩きつける。 コンクリート片が舞い、白い土煙が空中に飛散する。

 男は怯んだ狼男の頭を自身の口元に持っていき、嚙み砕く。

 勝った。 少女を守れた。 ーーけれど、振り返れば、少女がこちらを見ていた。 化物同士の喰らい合いを。
 まぁ、怯えられてもいい。 また屋上に登って死ぬだけだ。

 逃げるかと思って少女を見ていたら……逃げない。  それどころかこちらをしっかりと、真っ直ぐに見て数歩前に脚を進めた。

「……あ、の」

 少女の手には、男が大切にしていた、自殺の途中ですら見ていた、何よりも大事なものが握られていた。

 ーー押し花の手帳。

 少女がくれた野花を押し花にして、纏めていた手帳が、少女の手に握られていた。

「これ、貴方の……なの?」

 男は吠えて少女を威嚇するけれど、少女は怯む様子もなく、前へと脚を進める。 一歩踏み込めば掴めるほど近くにまで。

「僕、この花……知ってるよ。 全部、僕が摘んだことのある花で」
『チガウ、チガウ』

 ガチリと、血塗れの顎を鳴らして少女に見せるが、少女はそれでも前にくる。 半歩で掴める距離。

「……初めて会った日。 それから、毎日」
『シラナイ、シラナイ』

 動かなくても掴めるほど近くに。 少女は愛おしそうに、押し花の手帳を撫でた。
 それから、一つ、一つ、俺が知らなかった花の名前を挙げて行く。 

「その身体、いつもの貴方の顔にある不思議なのと、似たような感じだもん。 それに、泣きそうな顔も。 分かるよ」
『ミルナッ! オレヲ、ミルナッッ!!』

 ぽふり。 醜く硬い、化物の身体に、不釣り合いな柔らかな音、感触。
 触れられるどころか、抱き締められる。 抱き締められた。

「だから、謝ってたんだ。 だから、泣いてたんだ。
ごめんね。 今まで、気がつかなくて」
『チガウ、チガウ……オレジャナイ』

 膝から崩れ落ちた身体は少女に抱き留められる。 少女の顔がすぐ目の前にある。
 日焼けした、少女の顔。 泣き腫らして、紅くなった目。 悲しそうで、辛そうで、けれど、一切の怯えがない。 そんな表情で彼女は俺を見ていた。

「また、守られた。 怖いのからだけでも、三回目。 
一緒に登ってくれたのも合わせたら、数えきれないぐらい」
『チガウ』
「違わないよ」
『チガウ……マモラレタノハ、オレ、ナンダ』

 君がいたから、君が花をくれたから……俺は生きることが出来たんだ。 だから、君が花をもうくれないから、俺は死のうと。

「……やっぱり、貴方だ」

 少女は手帳の横に持っていた何かを、俺に向ける。
 土の付いた、俺には名前も分からない野花。 花屋にあるものほど大きくなければ華美でもないけど、綺麗な花で、どうしようもないほど、涙が出る香りがする花だ。

 ボロボロと、汚い涙が、化物の目から流れ出る。

「今日は、やっぱり、貴方に渡したかったんです。 お母さんに供えるものじゃなくて、ちゃんと貴方に」

 声が出ない。 妙な吠え声が人のない街に響いて行く。

『バケモノダ、オレハ、ミニクイ、オゾマシイ』

 少女は愛おしそうに微笑み、目を閉じて顔を近づけた。 この化物の身体では、分からないぐらい、薄く、恥ずかしそうに。

「それでも……好きです。 ずっと、思っていたけど、僕は貴方が、好きなんです」

 顔を隠すように少女は俯いて、耳まで真っ赤に染めて。

「受け取って、もらえますか? 僕の花を」

 醜い化物の手が、少女の手に伸びる。 力が入りすぎないように、ゆっくり、ゆっくりと……幾つもの花の付いている植物を手に取った。

「綺麗だよね。 かわいい花が、グルグルって巻くように咲いていて」

 少女は、嬉しそうに、報われたように笑った。

『……アア、ソウダな」

 化物は人の姿に戻っていき、男は少女の方を見ることも出来ずに俯く。

「俺は、化物だぞ」
「散々、見たところだよ」
「そんな俺が、好きでいても、いいのか?」
「僕は、好きです。 大好き」

 少女は再び男に抱き付いて、男の手に握られている花を、男の手の上から握る。

「この花は、ネジバナ、って言うの」
「ネジバナ……」
「お花、今度は一緒に摘みに行こうよ。 お花のこと、教えてあげるから。 押し花の作り方、教えて」

 子供らしい笑みは少しだけ、女性らしい笑みに変わって、少女は男の頬を触った。

「先に、少しだけ教えるね。 この花の、花言葉はーー」

 少女の唇が男の唇に触れて、ゆっくりと離れる。






 戦う意味はあるのだろうか。 そんなこと、俺には分かりはしないけれど、でも、戦ってよかったと、今は思っている。
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