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三章 自警団と虹の石

1話 放浪貴族と竜人の娘

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 まばらに草が茂る山道を、黙々と歩く一人の青年がいた。
 グレイル・ラスケイディアは足を止めて振り返り、今まで通って来た道を目で追った。風が彼の亜麻色の髪をさらりと揺らす。
 一面に広がる大地と緑は、グレイルの故郷イルバニア王国の都の風景とはてんで異なる。貴族の掟、長子のしがらみ、家柄と容姿だけに惹かれてすり寄って来る令嬢たち――すべてを放り投げて飛び出し、はや一年が経とうとしていた。一張羅のシャツと上着、乗馬用のズボンとブーツはどれも薄汚れ、羽織っている外套がいとうに至っては下の方が破れてしまっている。村や町に立ち寄る時に賊かと怪しまれないよう髪は整えてひげも剃っていたが、そろそろそれも不要に思えてきた。
 危険と隣り合わせの旅路は、グレイルにとって全く苦ではなかった。元よりじっとしていることが苦手な性分だ。少し不自由なくらいがちょうど良かった。故国に戻るつもりはない。おそらく両親は今頃グレイルを死んだものとみなし、弟に家督を継がせる準備をしていることだろう。
 再び歩き出し、グレイルは山奥へと進んだ。じきに日が傾きだす頃になる。身を隠せる洞穴を見つけ、動物を獲って野宿をするのももう慣れたものだった。

 グレイルを取り囲む木々の数が次第に増えてきた。人の手で切り開かれていない道は歩きづらいが好奇心をそそる。
 鳥のさえずりに混じって、グレイルが聞いたことのない類の鳴き声がかすかに聞こえる。魔物がいてもおかしくない場所だ。剣は腰に下げているが、危うきに近寄らない方が得策であることは今までの旅で学んでいた。
 木々に誘われるようにグレイルは歩き続けた。山の中腹あたりまで来たかという時、突如グレイルの耳にがさがさという葉を揺らす音が届く。グレイルは近くにあった茂みへ身を隠し息を殺した。視界の右斜め前に立ち並ぶ木の間から鹿が飛び出し、何かから逃げるようにグレイルが隠れている茂みの前を横切って走って行く。後を追うのは肉食の獣か魔物か。身を固くしたグレイルの目に、鹿を狙う捕食者の姿が映る。
 それは二本の足で立つ人の形をしていた。しかしグレイルと決定的に違っていたのは、頭に二本の角を生やしている容貌――その存在をグレイルは知っていた。竜人と呼ばれる種族だ。
 現れた二人の竜人族はそれぞれ手に槍と剣を持ち、鹿を追って走り去った。隠れていたグレイルに気づくことはなかった。
 グレイルの鼓動が一気に早まる。存在は知っていれど、実際の竜人を見たのは初めてのことだった。彼らの顔は見えなかったが、グレイルの認識が正しければその顔にはまばらに鱗が生えているはずだ。
 周囲が静けさを取り戻しても、グレイルはその場を動くことができなかった。竜人たちの住む領域に足を踏み入れてしまった――グレイルの胸を後悔と焦りがむしばんでいく。
 竜人と人間は、古くより敵対関係にあった。イルバニア王国では二百年程前まで竜人を見世物や奴隷として扱っていたという。憎むべき人間が侵入してきたことが彼らにばれれば、殺されるのは火を見るよりも明らかだ。
 既に夕刻に差し掛かる時間だ。もと来た道を引き返して下山し、別の道を行こう――グレイルは慎重に茂みから抜け出し、早足で道を下り始めた。

 走り続けていたグレイルの背中に突如、何かが強くぶつかった。うつ伏せに地面へ倒れたグレイルの左足首に鋭い痛みが走る。
 振り返ったグレイルの目に飛び込んできたのは魔物の姿だった。グレイルの足首に噛みつき、引きずろうとしている。グレイルは右足を使い魔物の鼻面を強く蹴りつけた。魔物が低く唸り、牙が離れた隙にグレイルは土を掴んでその顔に力いっぱい投げつけ、その場から逃げ出した。
 竜人だけでなく魔物にまで出くわし、焦る気持ちは思考を鈍らせる。先ほど魔物が起こした騒ぎに竜人たちが気づいてしまったら――時折背後を確認しながら走っていたグレイルの視界が大きく揺れた。斜面に足を取られ、体が滑り落ちていく。やがて傾斜の緩やかな道まで出て、倒木に激突して止まる頃にはグレイルの体は土まみれになっていた。
 グレイルは己の体を確かめた。骨折はない。魔物に噛まれた左足首から血が出ているが、大きな怪我ではなかった。
 倒木に寄りかかって足を投げ出しほっと息をついたグレイルだったが、気を緩められたのは一瞬だけだった。再び何者かの足音が聞こえてくる。
 まさか竜人が――グレイルは急いで倒木の陰に身を潜めた。ゆっくりとした足取りで何かがどんどん近づいて来る。その正体を確かめる勇気が今のグレイルにはなかった。身を縮め顔を伏せ、足音が通り過ぎていくことを祈る。
 だが、土を踏む音は非情にも倒木の傍で止まった。何者かの視線が注がれているのが、目を閉じていてもグレイルには分かった。しかし攻撃されることも、声をかけられることもない。確かに生き物の気配がするのに――グレイルは覚悟を決め、ゆっくり顔を上げた。倒木の陰を覗き込むようにして立つ、足音の主と目が合った。

「……っ!」

 グレイルを見つめていたのは、彼と同じ年頃の竜人の娘だった。肌の色や目鼻立ちはグレイルら人間と変わらないが、目元や喉は蛇のような鱗で覆われている。彼女の頭からは鱗の色と同じ、野牛のような白い角が生えていて、銀色の長い髪を左耳の後ろで一つに結って垂らしている。人間の町娘が着るようなワンピース姿で武器は持っておらず、代わりに片手にかごを抱えていた。
 グレイルは反射的に剣の柄に手をかけた。女性に武器を向けることはしたくないが、仲間を呼ばれてしまえば一巻の終わりだ。脅して見逃してもらうより他ない。
 竜人の娘は臆することなくグレイルを見続け、にっこりと微笑みかけてきた。予想していなかったことにグレイルは剣の柄から手を離す。
 娘が己の口元を手で覆い、首を横に振る。喋るな、と伝えたいのだろうか。そして手を伸ばし、グレイルの服の袖を掴んで軽く引っ張ってきた。彼女の首から下がっている銀色のペンダントがきらりと光った。
 その場を動かず当惑するグレイルを見て娘も少し困ったらしい。小首を傾げた後、姿勢を低くしてグレイルに顔を寄せた。

「助けてあげる」

 ささやくように言い、娘が手招きをする。無邪気な様子から敵意は感じられなかった。彼女を無視して逃げるべきかとも思ったが、足を怪我している以上振り切れるかどうか怪しい。いざとなったらどうにか隙をついて脱出することにし、グレイルは頷いて立ち上がった。
 竜人の娘を追って、グレイルは静かな森の中を進んだ。籠を片手に持った娘は時折、グレイルの様子を伺うように顔を見てくる。その歩みはゆっくりとしたものだ。グレイルを気遣っているのかと思われたが、どうやら違うらしかった。娘は革のサンダルを履いた両足のうち、右の方を引きずるようにして歩いている。何か事情があるのか気になったが、先ほど彼女から喋らないように言われたためグレイルは無言で娘の後に続いた。
 やがて見えてきたのは、開けた場所に建つ一軒の小さな家だった。屋根も外壁も丸太を組み合わせて作られている。ここが娘の住まいのようで、彼女は真っすぐ玄関の扉まで進み、中にグレイルを招き入れた。
 その家は外観と同じく、内装も素朴だった。奥に小さな台所があり、目立つ家具は寝台と食事をするためのテーブルに椅子、戸棚くらいのものだ。竜人の娘は玄関の戸にかんぬきをかけ、グレイルに向き直った。

「もうお話してくれていいわ」
「あっ……」

 話しかけられたことに驚いたグレイルの口から漏れたのは気の抜けた声だった。それを聞き、娘が小さく笑う。

「ここは……君の家?」

 部屋を見回しながらグレイルは問うた。自分たち以外に誰かがいる気配はない。

「そうよ。住んでるのはあたしだけ。さぁ、そこに座って」

 娘がそう言って寝台を指さす。戸惑うグレイルに彼女は微笑みかけた。

「怪我してるでしょう。隠さなくていいわ」

 娘はグレイルの両肩に後ろから軽く手を置いて、そっと押すように寝台の傍まで連れて行った。グレイルを寝台のへりに座らせると、今度は戸棚の方に向かっていく。やはり右足を引きずるようにしていた。

「私のことは気にしないでくれ。それより君の足を」
「あたしは生まれた時からずっとこうなの」

 事も無げに娘は答え、戸棚を開けて中を探った。包帯と布を取り出し小さな器に水差しから水を注ぎ、それらを抱えてグレイルのもとに戻ってくる。グレイルの足元に膝をつき、水で湿らせた布で左足首に負った傷を丁寧に拭いて包帯をするすると巻いた。

「ありがとう」
「気にしないで」

 竜人の娘は中腰の姿勢になり、グレイルの顔をじっと見た。明るい緑色の瞳からは純粋な好奇心が見て取れる。人間に会ったことがないのだろう。

「人間ってお肉は食べられる?」

 どうやらグレイルに食事まで提供しようとしているようだ。グレイルは慌てて立ち上がった。

「いや、そこまでしてもらう訳にはいかないよ」
「もうすぐ日が暮れるわ。今日は泊まっていって」
「大丈夫だよ。お陰で足の痛みもひいたし、どこか適当なところで休むさ」

 娘の手を煩わせたくないのは勿論だが、竜人たちの縄張りに長居したくないというのも本音だった。この家には彼女一人しか住んでいないというが、他の竜人が訪ねてきたりなどしたら娘のように親切にはしてくれないはずだ。

「うちには誰も来ないわ。皆、もっと上の方に住んでるから」

 グレイルの不安を見透かしたかのように娘は言った。確かに、グレイルが狩りをする竜人を見た場所から考えるとこの家は山のふもとに近い場所にある。

「君は……」
「あたしは皆と同じようにはできないもの」

 この竜人の娘は生まれつき右足が悪い。日常生活は問題ないものの、高低差のある場所を歩くことは難しいのだろう。竜人は男も女も、武勲を重んじる種族だとグレイルは聞いたことがあった。だとすればこの娘は仲間のいる場所から離れて、孤独な生活を余儀なくされているのか。グレイルを助けたのも、話し相手を求めてのことなのかもしれない。

「……分かった。ではお言葉に甘えさせてもらうよ。名乗るのが遅れたね。私はグレイルというんだ」
「あたしの名前はシルヴァーナ」
「綺麗な名前だね」

 それを聞き、シルヴァーナはきょとんとした表情を見せた。

「名前が綺麗なんて言われたの初めて」
「あ、ああ。すまない。嫌な気分になったかな?」

 旅に出る前のグレイルは曲がりなりにも貴族として生きていた。女性を褒める言葉については心得があるつもりだが、相手は竜人だ。人間とは感性が違うだろう。
 グレイルの心配に反して、シルヴァーナは嬉しそうにしていた。

「ううん。あなた面白いのね」

 準備をするから待っていてと言い残し、シルヴァーナは台所へと向かった。

***

 シルヴァーナが作った野兎の肉の煮込みはグレイルの体を芯から温めた。すっかり外が暗くなったところで、シルヴァーナはグレイルと寝台へ交互に目をやり、首をひねった。

「多分、二人で寝ても壊れないと思うんだけれど……」
「い、いや待ってくれ、それはさすがに駄目だ!」

 いきなり大声を出したグレイルに対しシルヴァーナは目をぱちくりさせた。

「どうして? あたし寝相はいい方よ」
「いや、そういう問題ではなくて……」

 例え互いにその手の感情がなかったとしても、未婚の男女が同じ場所で寝るなどグレイルにとっては言語道断だ。しかしシルヴァーナは何ら抵抗がないのか、急に慌て出したグレイルを不思議そうに見ている。

「あなたのこと獲って食べるつもりもないけど」
「それは分かっている。君を信頼していない訳ではないよ。ただ、とにかく私が私自身を許せないんだ。古くて構わない、何か大きめの布はあるかな?」

 敷布しきふが一枚あれば床で眠れる。グレイルと寝場所について問答するのに疲れたのか、シルヴァーナは腑に落ちないという顔をしながらも寒い日に暖をとるのに使うという鹿の毛皮を出してくれた。

「ありがとう。十分過ぎるくらいだよ。さあ、君はいつも通りに寝て」

 寝台から少し離れたところに毛皮を敷き、グレイルはその上に横たわった。シルヴァーナも部屋に灯していた小さな蝋燭を消し、自分の寝台に寝そべる。

「おやすみ、シルヴァーナ」

 暗闇の中、グレイルは親切な竜人に呼びかける。返事はすぐに返ってこなかった。グレイルが寝台で寝ることを拒んだのに気を悪くしたのか、と思ったその時

「おやすみ、グレイル」

 挨拶が返ってきたことに安心し、グレイルは眠りの中に沈んでいった。
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