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三章 自警団と虹の石
3話 夢は遠くに
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「シルヴァーナ、一緒にここを出よう」
翌朝、朝食を終えグレイルは切り出した。
「君に悲しい思いをさせたくない。しかしこの家で暮らすのでは私にできることも限られる。私の故国へ一緒に帰ろう。時間はかかるだろうが、私が君のことを守る」
この小さな家の暮らしはグレイルにとって決して悪いものではない。しかし他の竜人に見つかるおそれがある以上、ずっと住み続けるには不安が残る。
シルヴァーナは何も言わず、数回まばたきをするだけだった。
「私の国には良い医者がいる。君の足を治してくれるかもしれない。もし難しくても……何でも作れる腕利きの職人の知り合いもいるから、頼めばきっと君が歩くのが楽になるものを拵えてくれるはずだ」
「……行けないわ」
シルヴァーナは目を伏せ、ぽつりと言った。
「……住み慣れた場所を離れるのが不安なのは分かる。だが、もっと生きやすい世界があるんだよ」
「グレイルの国の人は皆、あたしのことを見て笑うでしょ? そんなこと考えなくても分かるわ。グレイルも一緒に笑われちゃうわよ」
シルヴァーナが寂しげに微笑む。彼女の言う通り、竜人がいきなり現れればイルバニア王国の人間は驚くだろう。だが王国貴族という立場を使えば、シルヴァーナを心無い言葉から庇ってやれるだろうとグレイルは考えていた。
「それなら私の国で君の足を良くする方法を見つけて……その後、新しい家を二人で見つけに行こう。そうだ、青い海と白い砂浜が両方見える場所まで行って、こんな家を建てて……ずっと一緒に暮らそう」
孤独な竜人へ最初に抱いたのは憐憫だった。しかしグレイルの中でそれは変わり、今やシルヴァーナは大切な女性だ。この先もずっと彼女と共に生きていけるなら、地位も名誉も必要ない。
「シルヴァーナ、私は昨夜……何の覚悟もなしに君を抱いた訳ではない。一人の男として君のこの先に責任をとりたいし、君にずっと私の隣で笑っていて欲しいと思っている」
「……ありがとう、グレイル」
シルヴァーナが静かに言った。
「あなたの気持ちがとっても嬉しい。ありがとう」
彼女は礼を述べるだけで「一緒に行く」とは言わない。唯一の家族への情か、グレイルのことを案じてか――シルヴァーナはこの家で生涯を終えるつもりでいることがグレイルには分かった。
「……すまない、話が急すぎた」
グレイルはシルヴァーナの明るい緑色の目をじっと見た。
「君が頷いてくれるまで、私はいくらでも待つよ」
嫌がる彼女を無理やり引っ張っていくことはできない。未練が消えてなくなるまで、彼女の傍にい続けることしかグレイルには選択肢が無かった。怒っている訳ではないと伝えたくて、グレイルはシルヴァーナに笑いかけた。
「狩りに行ってくるよ」
そう言い残し、狩猟用の弓矢を持ってグレイルは家を出た。
静かになった部屋の中で、シルヴァーナは小さくため息をついた。
最初は、ちょっとした好奇心だった。初めて見る人間は闊達としていて、同胞からいないものとして扱われるシルヴァーナに真正面から向き合い、ずっと欠けていたものを優しく埋めてくれた。
昨夜グレイルへ心身共に捧げたことに後悔はない。シルヴァーナが本心から願ったことだ。だが、彼がここまでシルヴァーナへ心から尽くそうとすることは誤算だった。
永遠に訪れないでいて欲しかった時が近づいている。グレイルの人生をこれ以上狂わせないために、シルヴァーナが本当に彼なしでは生きられなくなってしまう前に、この静かな温かい生活に終止符を打たなければならない。
シルヴァーナは戸棚の奥を探り小さな袋を取り出した。中には黒い丸薬が入っている。
それを握りしめシルヴァーナはもう一度、今度は深いため息をついた。
***
その夜、夕食を終えた後にシルヴァーナが持ってきたのは湯気をたてる茶が入った器だった。
「疲れている時によく効くの。ちょっと変な味がするけれど」
彼女に勧められるまま、グレイルは器に口をつけた。彼女の言う通り苦味と渋味が強い。茶というよりは薬湯のようだった。
「……本当にすごい味だ。でもよく効きそうだね」
グレイルの向かいに座るシルヴァーナも茶をちびちびと飲んでいる。彼女はこの味に慣れているのか顔色を変えることはない。正直なところ遠慮したい風味ではあったが、今朝のこともありシルヴァーナを悲しませたくなかったのでグレイルは茶をすべて飲み干した。
「ありがとう。これで明日には元気いっぱいだろうな」
「ええ。だといいわね」
相槌を打ちながら、シルヴァーナは首から下げた銀色のペンダントを所在なさげに指で撫でていた。
***
――数刻後。グレイルは床に敷いた毛皮の上で寝息を立てていた。シルヴァーナが彼に上着や外套を着せて剣を腰に下げさせ、初めて出会った時と同じ姿に仕立てる間も彼は目を覚まさなかった。茶に混ぜた薬はよく効いているようだ。
全ての身支度を済ませ、シルヴァーナはグレイルの背中側から脇の下に腕を通し、彼の腕を持って軽く持ち上げた。気絶しているかのように眠る彼を引っ張りながらゆっくりと家を出る。
シルヴァーナはグレイルを抱えるように引きずりながら、夜の森の中を進んでいった。以前ならこのようなことをすれば右足が悲鳴を上げていただろうが、日々のグレイルの献身的な手当てのお陰か辛さをほとんど感じない。だがその日々も今日で終わりだ。明日からはまた苦い痛み止めの薬に頼らなければならない。
そのまま歩き続け、開けた地に出た。見上げるとシルヴァーナの同胞たちが暮らす、高くそびえ立つ山が月明りに照らされている。
ここまで来れば重労働は終わりだ。シルヴァーナはグレイルの体を地面に横たえると額ににじんだ汗を拭い、懐から小さな流線形の笛を取り出した。細く飛び出た吹き口を咥え、二度、三度と息を送る。音は鳴らなかった。
やがて、月と星だけが浮かぶ夜空に一つの影が躍る。翼を生やしたそれはゆっくりとシルヴァーナの元へ降下してきた。
「久しぶり。こんな時間に呼び出してごめんなさいね」
シルヴァーナが声をかけると、それは猫のような金色の瞳を細め、蜥蜴に似た顔を擦り寄せてきた。
竜人は皆、竜を飼い慣らし騎乗する術を身につけている。それはシルヴァーナも例外ではないが、右足に負担をかけないよう竜に乗ることを普段は避けていた。呼ぶための笛を使えばいつでも竜は飛んできてくれるが、他の竜人にグレイルの存在を知られるのを避けるため彼に紹介することはしなかった。
グレイルを除き唯一、シルヴァーナが心を許せる存在ともいえる竜は灰色の体を低く伏せた。他の竜人にあてがわれている竜より体は小さいが、大人二人を乗せるには十分だ。
シルヴァーナは竜にくつわを咬ませて手綱をかけ、その背にグレイルを引っ張り上げた。続いてその後ろに乗り、未だぐったりと眠ったままのグレイルの体を包むようにして支える。
「さあ、飛んで」
シルヴァーナが竜の首を撫でながら言うと、竜は翼をはためかせ宙に舞い上がった。
「飛び続けて」
竜は命じられるまま滑るようにして空を行く。シルヴァーナは声かけと手綱で竜の進む方向を指示した。本当は起きているグレイルと一緒に空中散歩を楽しみたかった。きっと喜んだであろう彼を想像するとシルヴァーナの胸はちくりと痛む。しかし引き返すことはしなかった。
数時間を飛び続け真夜中を過ぎたかという頃、シルヴァーナは竜を操りながら地上の様子を気にし始めた。竜人は視力に優れているうえ夜目がきく。上空からでも地上に何があるかは分かった。
「ゆっくり降りて」
木がまばらに生える平原の上で、シルヴァーナは竜に言った。竜は前傾の姿勢になり地上を目指す。シルヴァーナはグレイルが滑り落ちないよう支えた。
やがてわずかに土埃を巻き上げ、竜は地面に降り立った。その背から降りたシルヴァーナは竜の首筋を優しく撫でた。竜が満足気に喉を鳴らす。
続いてシルヴァーナはグレイルを竜から下ろした。眠り続ける彼を再び引っ張っていき、一本の木の下に寝かせる。先ほど上空から、歩いて数十分程度の距離に人の集落があることは確かめていた。
目覚めたグレイルは自分のおかれた状況を知りどう思うだろうか。シルヴァーナを恨むかもしれない。いっそその方がよかった。彼には彼だけの人生がある。そこにシルヴァーナの出番はあってはいけない。
シルヴァーナは寝息を立てるグレイルの亜麻色の髪をそっと撫で、唇に自分のそれをそっと重ねた。そして振り返ることなく竜のもとへ戻り、背中に跨って飛び立つよう促す。
「夜明けまでに帰りましょう」
夜中に竜を駆って遠出していたことが同胞に知られれば、何事かと厳しく問い詰められかねない。
手綱を握って風を受けるシルヴァーナの頬を涙が伝う。先ほどまでほとんど痛みを感じなかった右足もまた、むせび泣くかのようなじんじんとした感覚をシルヴァーナに与えた。
***
グレイルの顔に光が当たる。今日は妙に朝日が眩しい――そう思いつつ目を開けたグレイルの周りの光景は、見慣れた小さな家の中ではなかった。
「っ!?」
グレイルは声にならない叫びを上げてがばっと身を起こした。グレイルを見下ろすように生える一本の木。同じようなものが点々と生えた平原が広がっている。グレイルの知らない風景だった。竜人たちが住む山も見当たらない。
おかしい。昨日、確かにシルヴァーナの家で眠りについたはずだ。これはまだ夢の中なのか――
「シルヴァーナ!」
返事はない。さえずる鳥の声だけが聞こえてくる。
グレイルは己の体に視線を落とした。旅をしていた時と同じ格好で、腰には剣も下がっている。寝ている間に誰かに着せられたのだろうか。昨夜に一体何が、シルヴァーナはどこに――
混乱するグレイルの胸元から、折りたたまれた紙がひらりと落ちた。グレイルはそれを拾って開けた。文字がしたためてある。
『大好きなグレイルへ
楽しい素敵な毎日を本当にありがとう
あたしの分までたくさんのものを見て楽しんで
またいつか会った時にお話を聞かせてね
シルヴァーナ』
グレイルは絶句した。全てシルヴァーナが自分の意思でしたことだ。グレイルを深く眠らせて、どんな手を使ったのか定かでないがグレイルを遠くの地まで連れていき置き去りにした――きっと彼女は足の悪い自分の傍に寄り添わせることを申し訳なく思い、この行動を選んだのだろう。
「……駄目じゃないか、シルヴァーナ」
手紙を握りしめ、グレイルは声を絞り出した。
「私も、君も、また独りぼっちになってしまうよ……」
おそらく今グレイルがいる地からシルヴァーナの住む家は遥か彼方だ。戻ったとして、彼女はグレイルを再び迎え入れはしないだろう。
ならば為すべきことは一つだ。隠れることなく堂々とシルヴァーナにもう一度会うために、彼女と共に生きていくために、人と竜人を隔てる壁を取り払わなければならない。世界そのものを変えなければならない。
前を見据え、グレイルは歩き出した。しっかりとした足取りで。
***
一年半ほどかけてイルバニア王国に帰還したグレイルは、周囲の貴族に竜人との共存を説いてまわった。しかし、蛮族と手を取り合うなど馬鹿らしいと真剣に耳を貸す者は誰もいない。和平交渉のために使節団を作りたいという、国王に出した請願書の返答がくることもなかった。
それでもグレイルは諦めなかった。どれほど年月が過ぎようとも主張を曲げなかった。
だが、そうしている内にグレイルは気が触れた男だという噂が流れ出した。二年以上も放浪し、帰ってきたと思えば夢物語ばかりを口にして家の評判を下げんとするグレイルに、愛想が尽きた父ラスケイディア侯爵は彼を廃嫡することを宣言した。
全てを失くしたグレイルがたどり着いたのは貧民街、それも滅多に人の寄り付かない掃き溜めのような場所だ。
旅から戻って十年が経ち、グレイルは希望を失いかけていた。貧民街の路地の更に奥、家とは到底呼べない積み上がった廃材の山に体を預けて力なく座り、ぼんやりと夜空に浮かぶ細い月を眺める。
「シルヴァーナ……」
あの朗らかな竜人は今、どうしているだろう。彼女を救えるのは自分しかいない、その思いがグレイルの原動力だった。だが今の自分に何ができるだろう。
グレイルは懐からぼろぼろになった紙片を取り出した。黄ばんでいて書かれた文字はもうほとんど消えている。だがグレイルはその内容をはっきりと覚えている。
今の自分は彼女に何を語ってやれるだろう。惨めな男に成り下がり、もうあの頃には戻れない――
「おお、こんなところに」
穏やかだがよく通る声に、グレイルははっと顔を上げた。絹と毛皮の外套に身を包んだ男がグレイルをじっと見ている。
「最後に会ったのはいつだったか、グレイルよ。すっかり見る影もなくなったな」
月明りにぼんやりと照らされたその顔を見てグレイルは言葉を失い、弾かれたかのように跪いた。
「エルトマイン公爵閣下……なぜ、ここに……」
王の弟たる高貴な人物が単身、悪臭が立ち込める路地裏を訪れるなどあってはならないことのはずだ。エルトマイン公爵は微笑を浮かべた。
「お前の掲げる理想の世界に興味があってな。人間と竜人が手を取り合う……素晴らしい未来ではないか。是非とも実現するべきだ」
初めて現れた、グレイルの意思に賛同する人物。それも王に次ぐ程の力を持つ者の――唐突過ぎて唖然とするグレイルへ公爵は言葉を続ける。
「グレイル、私に協力してくれるなら、お前が正しかったのだと私が世界中に知らしめてやろう」
白い手袋がはめられた手が、グレイルに差し伸べられる。
「叶えたい望みがあるのだろう?」
グレイルの脳裏に、愛する女性の笑顔がよぎる。何にも邪魔されない世界でもう一度会いたい、その悲願に手が届くかもしれない。
グレイルは差し出された希望へ己のそれを伸ばし、しっかりと握り返した。
翌朝、朝食を終えグレイルは切り出した。
「君に悲しい思いをさせたくない。しかしこの家で暮らすのでは私にできることも限られる。私の故国へ一緒に帰ろう。時間はかかるだろうが、私が君のことを守る」
この小さな家の暮らしはグレイルにとって決して悪いものではない。しかし他の竜人に見つかるおそれがある以上、ずっと住み続けるには不安が残る。
シルヴァーナは何も言わず、数回まばたきをするだけだった。
「私の国には良い医者がいる。君の足を治してくれるかもしれない。もし難しくても……何でも作れる腕利きの職人の知り合いもいるから、頼めばきっと君が歩くのが楽になるものを拵えてくれるはずだ」
「……行けないわ」
シルヴァーナは目を伏せ、ぽつりと言った。
「……住み慣れた場所を離れるのが不安なのは分かる。だが、もっと生きやすい世界があるんだよ」
「グレイルの国の人は皆、あたしのことを見て笑うでしょ? そんなこと考えなくても分かるわ。グレイルも一緒に笑われちゃうわよ」
シルヴァーナが寂しげに微笑む。彼女の言う通り、竜人がいきなり現れればイルバニア王国の人間は驚くだろう。だが王国貴族という立場を使えば、シルヴァーナを心無い言葉から庇ってやれるだろうとグレイルは考えていた。
「それなら私の国で君の足を良くする方法を見つけて……その後、新しい家を二人で見つけに行こう。そうだ、青い海と白い砂浜が両方見える場所まで行って、こんな家を建てて……ずっと一緒に暮らそう」
孤独な竜人へ最初に抱いたのは憐憫だった。しかしグレイルの中でそれは変わり、今やシルヴァーナは大切な女性だ。この先もずっと彼女と共に生きていけるなら、地位も名誉も必要ない。
「シルヴァーナ、私は昨夜……何の覚悟もなしに君を抱いた訳ではない。一人の男として君のこの先に責任をとりたいし、君にずっと私の隣で笑っていて欲しいと思っている」
「……ありがとう、グレイル」
シルヴァーナが静かに言った。
「あなたの気持ちがとっても嬉しい。ありがとう」
彼女は礼を述べるだけで「一緒に行く」とは言わない。唯一の家族への情か、グレイルのことを案じてか――シルヴァーナはこの家で生涯を終えるつもりでいることがグレイルには分かった。
「……すまない、話が急すぎた」
グレイルはシルヴァーナの明るい緑色の目をじっと見た。
「君が頷いてくれるまで、私はいくらでも待つよ」
嫌がる彼女を無理やり引っ張っていくことはできない。未練が消えてなくなるまで、彼女の傍にい続けることしかグレイルには選択肢が無かった。怒っている訳ではないと伝えたくて、グレイルはシルヴァーナに笑いかけた。
「狩りに行ってくるよ」
そう言い残し、狩猟用の弓矢を持ってグレイルは家を出た。
静かになった部屋の中で、シルヴァーナは小さくため息をついた。
最初は、ちょっとした好奇心だった。初めて見る人間は闊達としていて、同胞からいないものとして扱われるシルヴァーナに真正面から向き合い、ずっと欠けていたものを優しく埋めてくれた。
昨夜グレイルへ心身共に捧げたことに後悔はない。シルヴァーナが本心から願ったことだ。だが、彼がここまでシルヴァーナへ心から尽くそうとすることは誤算だった。
永遠に訪れないでいて欲しかった時が近づいている。グレイルの人生をこれ以上狂わせないために、シルヴァーナが本当に彼なしでは生きられなくなってしまう前に、この静かな温かい生活に終止符を打たなければならない。
シルヴァーナは戸棚の奥を探り小さな袋を取り出した。中には黒い丸薬が入っている。
それを握りしめシルヴァーナはもう一度、今度は深いため息をついた。
***
その夜、夕食を終えた後にシルヴァーナが持ってきたのは湯気をたてる茶が入った器だった。
「疲れている時によく効くの。ちょっと変な味がするけれど」
彼女に勧められるまま、グレイルは器に口をつけた。彼女の言う通り苦味と渋味が強い。茶というよりは薬湯のようだった。
「……本当にすごい味だ。でもよく効きそうだね」
グレイルの向かいに座るシルヴァーナも茶をちびちびと飲んでいる。彼女はこの味に慣れているのか顔色を変えることはない。正直なところ遠慮したい風味ではあったが、今朝のこともありシルヴァーナを悲しませたくなかったのでグレイルは茶をすべて飲み干した。
「ありがとう。これで明日には元気いっぱいだろうな」
「ええ。だといいわね」
相槌を打ちながら、シルヴァーナは首から下げた銀色のペンダントを所在なさげに指で撫でていた。
***
――数刻後。グレイルは床に敷いた毛皮の上で寝息を立てていた。シルヴァーナが彼に上着や外套を着せて剣を腰に下げさせ、初めて出会った時と同じ姿に仕立てる間も彼は目を覚まさなかった。茶に混ぜた薬はよく効いているようだ。
全ての身支度を済ませ、シルヴァーナはグレイルの背中側から脇の下に腕を通し、彼の腕を持って軽く持ち上げた。気絶しているかのように眠る彼を引っ張りながらゆっくりと家を出る。
シルヴァーナはグレイルを抱えるように引きずりながら、夜の森の中を進んでいった。以前ならこのようなことをすれば右足が悲鳴を上げていただろうが、日々のグレイルの献身的な手当てのお陰か辛さをほとんど感じない。だがその日々も今日で終わりだ。明日からはまた苦い痛み止めの薬に頼らなければならない。
そのまま歩き続け、開けた地に出た。見上げるとシルヴァーナの同胞たちが暮らす、高くそびえ立つ山が月明りに照らされている。
ここまで来れば重労働は終わりだ。シルヴァーナはグレイルの体を地面に横たえると額ににじんだ汗を拭い、懐から小さな流線形の笛を取り出した。細く飛び出た吹き口を咥え、二度、三度と息を送る。音は鳴らなかった。
やがて、月と星だけが浮かぶ夜空に一つの影が躍る。翼を生やしたそれはゆっくりとシルヴァーナの元へ降下してきた。
「久しぶり。こんな時間に呼び出してごめんなさいね」
シルヴァーナが声をかけると、それは猫のような金色の瞳を細め、蜥蜴に似た顔を擦り寄せてきた。
竜人は皆、竜を飼い慣らし騎乗する術を身につけている。それはシルヴァーナも例外ではないが、右足に負担をかけないよう竜に乗ることを普段は避けていた。呼ぶための笛を使えばいつでも竜は飛んできてくれるが、他の竜人にグレイルの存在を知られるのを避けるため彼に紹介することはしなかった。
グレイルを除き唯一、シルヴァーナが心を許せる存在ともいえる竜は灰色の体を低く伏せた。他の竜人にあてがわれている竜より体は小さいが、大人二人を乗せるには十分だ。
シルヴァーナは竜にくつわを咬ませて手綱をかけ、その背にグレイルを引っ張り上げた。続いてその後ろに乗り、未だぐったりと眠ったままのグレイルの体を包むようにして支える。
「さあ、飛んで」
シルヴァーナが竜の首を撫でながら言うと、竜は翼をはためかせ宙に舞い上がった。
「飛び続けて」
竜は命じられるまま滑るようにして空を行く。シルヴァーナは声かけと手綱で竜の進む方向を指示した。本当は起きているグレイルと一緒に空中散歩を楽しみたかった。きっと喜んだであろう彼を想像するとシルヴァーナの胸はちくりと痛む。しかし引き返すことはしなかった。
数時間を飛び続け真夜中を過ぎたかという頃、シルヴァーナは竜を操りながら地上の様子を気にし始めた。竜人は視力に優れているうえ夜目がきく。上空からでも地上に何があるかは分かった。
「ゆっくり降りて」
木がまばらに生える平原の上で、シルヴァーナは竜に言った。竜は前傾の姿勢になり地上を目指す。シルヴァーナはグレイルが滑り落ちないよう支えた。
やがてわずかに土埃を巻き上げ、竜は地面に降り立った。その背から降りたシルヴァーナは竜の首筋を優しく撫でた。竜が満足気に喉を鳴らす。
続いてシルヴァーナはグレイルを竜から下ろした。眠り続ける彼を再び引っ張っていき、一本の木の下に寝かせる。先ほど上空から、歩いて数十分程度の距離に人の集落があることは確かめていた。
目覚めたグレイルは自分のおかれた状況を知りどう思うだろうか。シルヴァーナを恨むかもしれない。いっそその方がよかった。彼には彼だけの人生がある。そこにシルヴァーナの出番はあってはいけない。
シルヴァーナは寝息を立てるグレイルの亜麻色の髪をそっと撫で、唇に自分のそれをそっと重ねた。そして振り返ることなく竜のもとへ戻り、背中に跨って飛び立つよう促す。
「夜明けまでに帰りましょう」
夜中に竜を駆って遠出していたことが同胞に知られれば、何事かと厳しく問い詰められかねない。
手綱を握って風を受けるシルヴァーナの頬を涙が伝う。先ほどまでほとんど痛みを感じなかった右足もまた、むせび泣くかのようなじんじんとした感覚をシルヴァーナに与えた。
***
グレイルの顔に光が当たる。今日は妙に朝日が眩しい――そう思いつつ目を開けたグレイルの周りの光景は、見慣れた小さな家の中ではなかった。
「っ!?」
グレイルは声にならない叫びを上げてがばっと身を起こした。グレイルを見下ろすように生える一本の木。同じようなものが点々と生えた平原が広がっている。グレイルの知らない風景だった。竜人たちが住む山も見当たらない。
おかしい。昨日、確かにシルヴァーナの家で眠りについたはずだ。これはまだ夢の中なのか――
「シルヴァーナ!」
返事はない。さえずる鳥の声だけが聞こえてくる。
グレイルは己の体に視線を落とした。旅をしていた時と同じ格好で、腰には剣も下がっている。寝ている間に誰かに着せられたのだろうか。昨夜に一体何が、シルヴァーナはどこに――
混乱するグレイルの胸元から、折りたたまれた紙がひらりと落ちた。グレイルはそれを拾って開けた。文字がしたためてある。
『大好きなグレイルへ
楽しい素敵な毎日を本当にありがとう
あたしの分までたくさんのものを見て楽しんで
またいつか会った時にお話を聞かせてね
シルヴァーナ』
グレイルは絶句した。全てシルヴァーナが自分の意思でしたことだ。グレイルを深く眠らせて、どんな手を使ったのか定かでないがグレイルを遠くの地まで連れていき置き去りにした――きっと彼女は足の悪い自分の傍に寄り添わせることを申し訳なく思い、この行動を選んだのだろう。
「……駄目じゃないか、シルヴァーナ」
手紙を握りしめ、グレイルは声を絞り出した。
「私も、君も、また独りぼっちになってしまうよ……」
おそらく今グレイルがいる地からシルヴァーナの住む家は遥か彼方だ。戻ったとして、彼女はグレイルを再び迎え入れはしないだろう。
ならば為すべきことは一つだ。隠れることなく堂々とシルヴァーナにもう一度会うために、彼女と共に生きていくために、人と竜人を隔てる壁を取り払わなければならない。世界そのものを変えなければならない。
前を見据え、グレイルは歩き出した。しっかりとした足取りで。
***
一年半ほどかけてイルバニア王国に帰還したグレイルは、周囲の貴族に竜人との共存を説いてまわった。しかし、蛮族と手を取り合うなど馬鹿らしいと真剣に耳を貸す者は誰もいない。和平交渉のために使節団を作りたいという、国王に出した請願書の返答がくることもなかった。
それでもグレイルは諦めなかった。どれほど年月が過ぎようとも主張を曲げなかった。
だが、そうしている内にグレイルは気が触れた男だという噂が流れ出した。二年以上も放浪し、帰ってきたと思えば夢物語ばかりを口にして家の評判を下げんとするグレイルに、愛想が尽きた父ラスケイディア侯爵は彼を廃嫡することを宣言した。
全てを失くしたグレイルがたどり着いたのは貧民街、それも滅多に人の寄り付かない掃き溜めのような場所だ。
旅から戻って十年が経ち、グレイルは希望を失いかけていた。貧民街の路地の更に奥、家とは到底呼べない積み上がった廃材の山に体を預けて力なく座り、ぼんやりと夜空に浮かぶ細い月を眺める。
「シルヴァーナ……」
あの朗らかな竜人は今、どうしているだろう。彼女を救えるのは自分しかいない、その思いがグレイルの原動力だった。だが今の自分に何ができるだろう。
グレイルは懐からぼろぼろになった紙片を取り出した。黄ばんでいて書かれた文字はもうほとんど消えている。だがグレイルはその内容をはっきりと覚えている。
今の自分は彼女に何を語ってやれるだろう。惨めな男に成り下がり、もうあの頃には戻れない――
「おお、こんなところに」
穏やかだがよく通る声に、グレイルははっと顔を上げた。絹と毛皮の外套に身を包んだ男がグレイルをじっと見ている。
「最後に会ったのはいつだったか、グレイルよ。すっかり見る影もなくなったな」
月明りにぼんやりと照らされたその顔を見てグレイルは言葉を失い、弾かれたかのように跪いた。
「エルトマイン公爵閣下……なぜ、ここに……」
王の弟たる高貴な人物が単身、悪臭が立ち込める路地裏を訪れるなどあってはならないことのはずだ。エルトマイン公爵は微笑を浮かべた。
「お前の掲げる理想の世界に興味があってな。人間と竜人が手を取り合う……素晴らしい未来ではないか。是非とも実現するべきだ」
初めて現れた、グレイルの意思に賛同する人物。それも王に次ぐ程の力を持つ者の――唐突過ぎて唖然とするグレイルへ公爵は言葉を続ける。
「グレイル、私に協力してくれるなら、お前が正しかったのだと私が世界中に知らしめてやろう」
白い手袋がはめられた手が、グレイルに差し伸べられる。
「叶えたい望みがあるのだろう?」
グレイルの脳裏に、愛する女性の笑顔がよぎる。何にも邪魔されない世界でもう一度会いたい、その悲願に手が届くかもしれない。
グレイルは差し出された希望へ己のそれを伸ばし、しっかりと握り返した。
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