王様とお妃様は今日も蜜月中~一目惚れから始まる溺愛生活~

花乃 なたね

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三話 十二時を過ぎても

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「ありがとう。さあ、こちらに」

 ヴィオル王はエリーズの手を優しく握り、広間の中央へと誘った。招待客たちが皆広間の脇の方へ寄っていき、二人のために場所を作る。
 王はエリーズの片手を握ったまま、流れるようにもう片方の手を彼女の腰に沿えた。エリーズも空いている方の手でドレスの裾を持ちあげて、ダンスの構えをとる。
 踊り方を教えてもらったのはまだ両親が生きていた頃の話だ。ちょこちょこ足を動かすエリーズの相手を、父がいつも楽しそうに笑いながら務めてくれた。
 両親が亡くなってからは自分を慰めるために時折一人で密かに踊っていただけで、他の人を相手にしたことはない。ましてや共に踊るのは一国の王だ。誘いを断るのは失礼と思ったが、彼の足を踏んだりしたらどうしようかと別の心配がエリーズを襲う。
 だがもう引き返すことなどできない。どこからともなく聞こえてくる音楽に合わせ、ヴィオル王がそっと一歩を踏み出す。
 エリーズの心配が杞憂きゆうだと分かるまでそう時間はかからなかった。まるで足に魔法がかかったかのように、乱れることなく動ける。
 ヴィオル王は口元に笑みを浮かべ、エリーズの目をじっと見つめている。深い紫色の瞳に、エリーズも釘付けになっていた。
 いくつもの視線が注がれているのを感じる。周りの貴族たちは誰ひとり一緒になって踊ることなく、王と名もなき令嬢を好奇の目で見守っている。
 だが、今のエリーズにとっては大勢の注目の的になるなど取るに足らないことだった。ヴィオル王のすべてに魅せられている。彼が自分を見ている、触れている――そう思うだけで、天に昇るような心地になる。

(これが、恋ね)

 頭の中がふわふわして、胸の奥に熱いものが湧き出る。それはエリーズにとって初めての経験で、今までで最も幸せな瞬間だった。
 音楽が終わり、ヴィオル王が足を止める。動きが止まったことで、エリーズは現実へと引き戻された。
 終わってしまった――しかし、王は未だエリーズの手を離さなかった。

「楽しかった?」
「はい、とても」
「……僕もだよ」

 王がエリーズの耳元に顔を寄せて囁いた。

「特別な場所に案内しよう。一緒に来てくれる?」
「は、はい」

 反射的にエリーズは頷いていた。どんな形でもいい。一秒でも長く彼の傍にいたい。

「おいで」

 エリーズの手を引きヴィオル王が歩き出す。途中でどこかに向かって目配せをした後、広間の大階段を昇り、先ほど彼が姿を現した扉の奥へとエリーズを連れて行った。

***

 エリーズが通されたのは王城の中庭だった。色とりどりの花が咲き誇り、月明りを受けてほのかに輝いているように見える。
 歩道は石甃いしだたみになっていて、迷路のように複雑な形に整えられた生垣や、水瓶を手にした美女をかたどった噴水もある。エリーズの記憶の中にある、美しかった頃のガルガンド家の屋敷ですら到底敵わないほど立派な庭園だった。おとぎ話の中に出てくる、神々や妖精が集う場所のようだ。

「綺麗……」
「気に入ってもらえて嬉しいよ」

 ヴィオル王はエリーズと手を繋いだまま、庭園のさらに奥へゆっくり進んでいく。エリーズは花の香りに魅せられつつも、一つの疑問を拭うことができなかった。一体どうして一国の王が、こんなに地味な自分を丁重にもてなしてくれるのだろう?
 やがてたどり着いたのは、白い石で造られた東屋あずまやがある場所だった。支柱や屋根の周りにバラの蔦が巻き付いて、鮮やかな花を咲かせている。
 屋根の下に備え付けられたベンチに、王とエリーズは揃って腰を下ろした。

「……ふぅ。夜会は嫌いではないけれど、大勢の人といるとどうにも疲れやすくてね。君はどう?」
「い、いえ、わたしは……」

 そこでエリーズははたと気づいた。今日はヴィオル王の誕生日を祝うための夜会だ。贈り物は渡せないにしても、言葉の一つくらいはかけなければいけない。

「陛下! お誕生日のお祝いを申し上げます」

 ヴィオル王は一瞬驚いたような顔をしたが、すぐにまた優しい笑みを浮かべた。

「ありがとう。二十七回目ともなるとそこまで有難みはないけれど、君からお祝いの言葉を貰えるのはとても嬉しい」
「申し訳ございません、お渡しできるものがわたしには何もなくて……」
「構わないよ。それより……君の笑った顔が見たいな」

 エリーズはきょとんとしてヴィオル王の顔を見た。確かにまだ彼の前では一度も笑っていない。それどころか、最後に笑ったのはいつか、エリーズはもう思い出せないでいた。笑顔の作り方すらも忘れかけている。

「あの、えっと……」
「無理はしなくていい……そうだ、こういうのはどうだろう?」

 王は下衣のポケットに手を伸ばすと、硬貨を一枚取り出した。手の平にそれを乗せてエリーズに示した後、手を握って硬貨を揉むように指を動かす。

「ほら」

 再びヴィオル王が手を開くと、あったはずの硬貨が消えていた。

「えっ!?」

 目を瞬かせるエリーズを見て王は楽し気にくっくっと笑い、今度は手をエリーズの首の後ろへ伸ばした。

「ここにあった」

 再び手をエリーズの目の前に戻し、指を開く。先ほどの硬貨がまた現れた。

「すごい……ふふっ」

 自然とエリーズの頬は緩んでいた。それを見た王がエリーズの手を包むように握る。

「可愛いな……」

 呟くような言葉に、エリーズは心臓がどきりと跳ねるのを感じた。ヴィオル王の一層熱のこもった眼差しで体中がじわじわと熱くなっていく。

「エリーズ、直接君の手に触れても構わない?」
「え、ええ。もちろんです」

 エリーズが頷くと、ヴィオル王は両手にはめていた手袋を外した。男性らしく骨ばっていてしなやかな指がエリーズのそれにするりと絡む。エリーズは己のささくれた手指を急に恥ずかしく感じた。
 直に触れて、王もエリーズの手の荒れように気づいたらしい。彼の指がエリーズの手のひらをすっとなぞった。

「辛そうだ。どうしてこんな風に?」
「仕方がありません。お仕事ですから」
「仕事って?」
「お父様とジェゼベル……妹のお世話です」

 ヴィオル王はそれを聞いて怪訝けげんそうな顔をした。使用人も同然の卑しい娘だと思われただろうか。しかし彼はエリーズの手を離さなかった。

「僕は自国の貴族たちの顔は皆覚えているつもりだ。けれど君に会うのは……初めてだね?」
「ええ。わたし、普段はずっと家にいて……夜会にはいつも妹が行っていました。今日わたしが来たのは本当に偶然なのですけれど……いいんです。お仕事があるだけ幸せですから」

 王は眉根を寄せ、何かを考え込むような難しい顔つきになった。
 自分の身の上を聞かせたことで気を悪くしてしまったのかもしれない、エリーズは慌てて再び口を開いた。

「申し訳ございません。つまらないお話しかできなくて、手も汚くて」
「そんな風に言わないで」

 ヴィオル王の表情がまた穏やかなものに変わり、エリーズの手を両手で優しく包み込んだ。

「独りでずっと辛いことに耐えてきた、頑張り屋さんの手だ……綺麗だよ」

 その瞬間、エリーズの胸が切ない悲鳴をあげた。あまりにも優しい言葉に泣いてしまいそうになる。

(これ以上、この方の近くにいてはいけないわ)

 先ほどまではヴィオル王と共にいられることに浮かれていたが、このままだと本当に彼に溺れ切ってしまう。彼は王で、いずれは他の貴い身分の女性と結ばれる。粗末なドレスしか用意できない娘から想いを寄せられても迷惑なだけだろう。
 今ならまだ、このひと時を一生の思い出として胸にしまいこみ屋根裏部屋に帰ることができる。明日からまた始まる仕事漬けの日々にも耐えることができる。
 叶わない恋がこれほど辛いものだとは思っていなかった。しかし、夢は必ず覚めるものだ。エリーズが幼い頃に読んだ物語にも同じ話があった。貧しいが善良な娘が魔法使いの力を借りて舞踏会に行き王子と恋に落ちる。だが夜中の十二時になると魔法が解けてしまう――最後その娘は王子と結ばれたが、エリーズが生きる世界はおとぎ話ではない。
 奇しくも、遠くで鐘の鳴る音が聞こえた。夢の終わりを告げる音だ。エリーズは断腸の思いでヴィオル王の手を振りほどき立ち上がった。

「エリーズ?」
「陛下、今日は本当に、ありがとうございました」

 精いっぱいの感謝をこめ、ドレスの裾を持ちあげて最敬礼の姿勢をとる。

「今夜のこと、一生忘れません。わたしの人生で一番幸せな日でした。この先も、これより素敵な時間はきっと来ないと思います」

 背筋を伸ばし、戸惑う王に別れを告げる。

「さようなら。陛下の幸せをお祈り致します」

 きびすを返し、エリーズは元来た道を一人で引き返そうとする。しかし強い力がそれを阻んだ。
 振り返ると、エリーズの手をしっかりと掴むヴィオル王の姿があった。

「待って」

 決して大きな声ではないのに、それはエリーズの頭に強く響いた。

「帰らないで。まだまだ話し足りない」
「で、でも、もう夜も遅いですから」
「ここに泊まっていけばいい」
「そ、そんなの困ります」

 なぜ王がここまでして自分を引き留めるのかエリーズにはまったく理解できなかった。たまたま来ていただけの質素な姿の令嬢を憐れんで相手をしてくれただけではないのだろうか。

「何か君に失礼なことをしてしまったなら謝る」
「とんでもありません! 本当に、ほんとうに楽しかったです!」
「それならまだ一緒にいればいいじゃないか。君のことをもっと知りたい」
「だ、駄目です、わたし……」

 気が動転して、エリーズの目じりに涙が浮かんだ。ヴィオル王はエリーズの手をつかまえたままだ。痛みはないが、絶対に離すつもりはないことが伝わってくる。
 想いは秘めておくつもりだったが、正直に打ち明けるしかなさそうだ。身分違いもはなはだしいエリーズの恋心を知れば、王は呆れてエリーズを手放すだろう。

「これ以上、陛下と一緒にいたら……」

 震える唇が言葉を紡ぐ。

「あなたのことが、大好きになってしまいます……」

 ヴィオル王は何も答えなかった。庭園が一瞬にして静まり返り、世界中の音がすべて消えてしまったかのようにエリーズには思えた。
 少しの間の後、王がすっと目を細めた。

「……そう」

 次の瞬間、エリーズの体は彼の腕の中にあった。抱きしめられているのだと分かるとエリーズの混乱は一層強まる。

「だったら猶更のこと、君を帰すわけにはいかないよ」
「ど、どうして、ですか……」
「まだ分からない? 弱ったな。君ほど初心な女の子には会ったことがないよ」

 ヴィオル王はエリーズの顔を真っすぐ見つめた。

「エリーズ、僕は君が好きだ」
「え……?」

 到底、信じることができなかった。望めば大陸一の美しい王女すらものにできる人物が、どうして手荒れが酷い娘を好きになる?

「大勢の中に立っていた君に惹かれて……直接話したい、近くで顔を見たいと強く思った。実際に君を目の前にして確信したよ。これは恋だと」
「い、いけません陛下」

 抱きしめられながら、エリーズは小さく首を振った。

「どうして? このまま一緒にいれば、君は僕のことを大好きになってくれるんだろう?」
「わたしは綺麗でもありませんし、豪華なドレスも持っていません」
「君は綺麗でとても魅力的だよ。ドレスなら望むだけ買ってあげる。有難いことに我が国はそれなりに潤っているからね」

 ヴィオル王の手がエリーズの銀色の巻き毛をそっと撫でた。

「わたしは位の高い貴族でも、王女様でもないです」
「僕と結婚すれば、元が何であっても妃になる」
「けっ……!?」

 目を白黒させるエリーズを見て、王は少し照れたように笑った。

「驚かせてごめんね。でも、すぐにでも君のことを妃として迎えたいくらいだ。とにかく帰らないで。ここにしばらく住んで、僕がどんな人間か知って欲しい。結婚の返事はそれからでいいよ。エリーズ、お願いだ」

 エリーズの心臓がどくどくと今までにないほどに早鐘を打っている。今ここでエリーズが首を縦に振れば、初恋の優しい彼のそばにいつまでもいることができるのだ。
 しかし本当にそれで良いのだろうか。もし飽きられてしまったら? こんなはずではなかったと見限られてしまったら? その後の人生はどれほど空虚なものになるだろう。

「わたし……」

 ヴィオル王はエリーズから目を逸らさないまま、答えを待っている。紫水晶の瞳の中にエリーズの姿だけが映っている。
 それを知った時、エリーズの心にきらめく光が灯った。彼の瞳の中に一秒でも長く留まっていられるなら、他のものは全て失くしても構わない――そう思えた。

「陛下と、結婚したい、です……」

 ヴィオル王の顔がぱっと輝いた。

「本当かい!? ああ、嬉しいよ。今まで生きてきた中で最高の気分だ!」

 一層きつく抱きしめられ、エリーズの体は少し浮き上がった。それでも少しも苦しいと感じない。まるで雲の上にいるような感覚だ。

「これは……夢なの……?」

 うわ言のようにつぶやいたエリーズの耳元に王が唇を寄せた。

「夢なんかじゃないよ。全部、現実だ」
「陛下……」
「名前で呼んで?」
「ヴィオル様……」
「様もいらない」
「ヴィオル……」

 ヴィオルが心底嬉しそうに目を細め、エリーズの唇をそっと指でなぞった。

「エリーズ、愛してる。君が許してくれるなら今すぐキスしたい」

 考える力をエリーズはとうに失っていた。小さく頷き、顔をやや上に傾けて目を閉じる。
 唇同士が触れあった時、言い表せないほどの多幸感がエリーズの身を包んだ。それは思い描いていたよりも何十倍も、何百倍も甘く優しく、尊いものだった。
 口づけを終え、ヴィオルはうっとりとエリーズの首筋に顔をすり寄せた。そしてぼんやりとしたままの彼女を横抱きにして持ち上げる。

「そろそろ休まなければね。大丈夫。君は何も心配しなくていいよ」

 身も心もとろけきったエリーズはされるがままにヴィオルに運ばれ、庭園を後にした。再び城の中に戻ったところで、どこからか数人の女官が姿を現す。ヴィオルが彼女らと何か言葉を交わしたが、それらはエリーズの耳を通り抜けていった。

「さあ、あとは彼女たちがすべてやってくれるから安心して。明日準備ができたらすぐ迎えにいくからそれまでいい子で待っていてね」

 エリーズを床に下ろし、あやすようにヴィオルが語り掛ける。エリーズが頷くと、彼はまた微笑んでエリーズの頬に口づけをした。

「おやすみ。愛しい人」

 こちらへどうぞ、と女官たちがエリーズを導く。未だふわふわとした足取りで彼女たちについて行った。
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