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十九話 鉄が秘めたる忠誠心
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「ヴィオル……どうしたの?」
突然現れたヴィオルを見て、エリーズはきょとんとした。ノックもせずに入ってくるなんて、よほどジギスに急ぎの用があるのだろうか。
「陛下」
「……どういうことだ」
夫のあまりにも低く冷たい声に、エリーズは身をすくませた。
彼は怒りに震えている。でもどうして? エリーズが理由を考える前に、ヴィオルはずかずかとジギスの方へ詰め寄った。
「君がエリーズに会わなければいけない用があるだなんて聞いていない。白昼堂々、それも執務室でだなんて、一体どういうつもりなんだ。エリーズが誰の妻なのか分かってやっているのか?」
エリーズははっとした。今日、ジギスに会いに行くことはヴィオルには告げていない。まさか彼はジギスがこの部屋にエリーズを呼び、ヴィオルに内緒で逢瀬を楽しんでいたと勘違いしているのでは――エリーズは必死でヴィオルの腕にすがった。
「ヴィオル違うのよ! わたしとジギスさんはそんな仲では」
「僕はジギスに聞いているんだ。答えろジギス」
いつもなら優しくエリーズの話に耳を傾けてくれるのに、今のヴィオルは取りつく島もない。今にもジギスの首を掴んで絞め上げそうな剣幕だ。
しかし激昂した王を目の前にしてもジギスは取り乱すことはなかった。
「……すべて私の責任です」
「ジギスさん!?」
まるで己がエリーズの浮気相手だと認めるかのような口ぶりに、エリーズは愕然とした。
「……王妃殿下は、私が働きづめで休んでいないのではないかと気にかけてくださり、自ら食事を私の元にお持ちくださいました」
そういって、ジギスは机の上に置かれたバスケットの上に目をやった。
「それ以上のことは何もございません。私が王妃殿下にご心配をおかけしていなければこのようなことも起きませんでした。王妃殿下のお心は、常に陛下のお傍にあります……信用ならないということであれば、今すぐ私を処刑台にお送りください。覚悟はできております」
「だ、駄目よ! そんなの絶対に駄目!」
自分の勝手な行いのせいでジギスが処刑台の露になってしまったら、一生をかけても償いきれない――エリーズは半泣きになりながら一層ヴィオルの腕を強く掴んだ。
「ヴィオル、ジギスさんの仰ることは本当よ。ごめんなさい、わたしがヴィオルに何も言わなかったのがいけなかったわ。わたしにとってヴィオルが一番大切な人だというのは当然あなたも分かってくれていると思っていたから、これが浮気だと思われるなんて少しも考えなかったの。だからジギスさんを怒らないで、処刑するなんて絶対駄目!」
近侍の覚悟と王妃の懇願が届いたらしい。ヴィオルの瞳に理性の光が戻ってきた。彼の体から徐々に力が抜けていくのを感じ、エリーズはつかんでいたヴィオルの腕を離した。
「……すまない」
その声は少し震えていた。
「エリーズの居場所を使用人に聞いたら、ジギスの執務室に向かったと聞いて……君たちが二人きりで会う理由がどうしても分からなくて……最悪のことを考えたら、頭に血が上ってしまったんだ」
「ヴィオル、本当にごめんなさい」
「いや、エリーズは何も悪くないよ。君のことになると余裕がなくなってしまう僕が全部悪いんだ」
ヴィオルはジギスの方に視線を移した。
「ジギス、誰よりも真面目に働いてくれている君に失礼な真似をしてすまなかった」
「いえ、誤解を解いて頂けたようなら私からはもう何も申し上げることはございません」
特に表情を変えることもなくジギスが答える。その様子に、ヴィオルは困ったかのようにやや眉を下げた。
「悪いのは僕だけれど……君もさっさと結婚しておいてくれれば、余計な心配をしなくて済んだのにな。まあ、既婚だからといって絶対に安心ではないけれどさ」
ジギスに恋人や婚約者がいるという話をエリーズは聞いたことがなかった。年齢的にはもう、誰かしらの相手を見つけていてもおかしくないはずだが。
「……必要になった時に必要な方と」
ジギスは短くそう答えるだけだった。
気が抜けたらしいヴィオルがはぁ、とため息をつき、エリーズの腰に両手をまわして首元に顔を埋めた。
「何だかすごく疲れた……今日はもう全部終わりにしてエリーズと一緒に過ごしたい」
「あらら……」
甘えられるのは嬉しいが果たしてそれでいいものか――答えを求めてエリーズがジギスの方に顔を向けると、彼は苦い顔をしていた。主君に余計な心配をかけてしまった手前、厳しく政務に連れ戻すことが躊躇われるようだが本音では許容できないのだろう。
エリーズはヴィオルの背に手を回し、優しく擦った。
「ヴィオル、わたしも一緒にいたいけれど……ジギスさんが困っているわ。もう少し頑張りましょう、ね?」
この修羅場は元を辿ればエリーズの思い付きにジギスを巻き込んだことによって起こったことだ。余計に彼に心労をかけるわけにはいかない。
「ええ~、どうしてジギスの味方をするの。君にとって一番大切なのは僕なんだろう?」
ヴィオルが紫水晶の瞳を潤ませて懇願してくる様子に思わず絆されそうになったのをぐっとこらえ、エリーズは彼の手を握った。
「もちろんそうよ。だけどジギスさんだけに頑張らせるなんてあんまりだわ。ヴィオルは優しいもの、そんなことしないでしょう?」
「うう……」
あともう一押し――エリーズはヴィオルの顔を見てにっこり微笑んだ。
「実はね、このサンドイッチはジギスさんのだけでなくてヴィオルの分も作ってあるの。ご政務に戻ってくれたらすぐに持っていくわ」
愛する妻の手料理と聞き、ヴィオルの目の色が変わった。
「分かった、戻るよ。今日の分の仕事はしっかり片付ける」
今回はエリーズの勝ちだ。エリーズは微笑んだまま再びジギスの方を向いた。
「ジギスさん、ご迷惑ばかりかけてごめんなさい。わたしたちはこれで失礼しますね」
「……ええ、そうして頂けると大変有難いです」
行きましょう、とエリーズはヴィオルに部屋を出るよう促す。扉の間際で、王は再度近侍の方へ振り向いた。
「ジギス、それはエリーズが君のために作ったんだから、ちゃんと味わって残さず食べること。これは命令だ」
「承知致しております」
「あ、あの、無理なさらないでくださいねジギスさん。お口に合うかどうか分からないですし……」
忠実なジギスのことだ。エリーズの料理がたとえ不味かろうとも完食するだろうが、エリーズはそのようなことは望まない。
ジギスは無表情のまま一礼し、国王夫妻を見送った。
静かになった執務室で、ジギスは音を立てずに再度机に向き合った。王妃が置いて行ったサンドイッチが入ったバスケットをしばし見つめ、手を伸ばし一切れつまむ。それはエリーズの心を映したような、優しい味がした。
片手で書類にペンを走らせながらも、ジギスはパンを口に運ぶのをやめなかった。
***
後日――ジギス・クルディアスはヴィオルから、一連の騒動のお詫びとして丸々三日の休暇をもらった。
国王の近侍を務めるジギスは王都内に屋敷を構えているが、そこに帰ることはほとんどない。朝から晩まで国王と共に働き、王城内に用意された部屋で休んでいる。
今回の休暇も一日だけ屋敷で過ごし、翌日からは王城の部屋で書類に目を通していた。
静かな部屋に、扉を叩く音が響く。
「どうぞ」
応えると扉が開き、紫色の髪がのぞいた。
「陛下、如何されましたか」
ジギスはすっくと立ちあがりヴィオルの元に向かった。休日にも関わらずきっちりとフロックコートを着込んだ姿を見て、ヴィオルが苦笑する。
「ここにいると聞いて来てみれば……休暇をあげると言っただろうに」
「ご心配なさらずとも休んでおります」
ヴィオルが首を伸ばし、ジギスの肩越しにテーブルの上に置かれた書類の山を見る。
「あの紙の束は何だい」
「……仕事のうちに入らない程度の雑事に関するものばかりです」
やれやれ、とヴィオルは呟き部屋の中央まで進んだ。両手で抱えられるほどの小さな革張りのトランクを携えている。
「まあ、何となく予想はしていたけれど。てこでも休まないというなら、僕の息抜きに少し付き合ってもらうよ。とりあえずテーブルの上を片付けて」
言われるがままに書類の束を近くの棚に置きながら、ジギスは王に問うた。
「王妃殿下の元には行かれないのですか」
「クロニエ侯爵夫人主催のお茶会に呼ばれているから今はいないんだよ」
「左様でしたか」
クロニエ侯爵夫人は人当たりの良い女性だがとにかく話し好きだ。エリーズがすぐに戻ってくることはないだろう。
ヴィオルがテーブルの上でトランクを開くと、一面が白色と黒色で交互に塗られたます目になっている板が現れた。その周りには白と黒の駒が詰められている。貴族が旅行などに持っていく、簡易的なチェスの一式だ。
「手加減なしで思いきりやろうと思ったら相手は君くらいしかいないんだよね。エリーズはまだまだ練習中なんだ。次の手をうんうん考えている時の顔はものすごく可愛いけど」
ジギスは頼まれる前にチェス盤へと変わったトランクに手を伸ばし、駒をすべて所定の位置に並べた。ジギスが黒の駒が並んだ方の席へ、ヴィオルが向かいの白の駒が並べられた側の席へそれぞれ座る。
「手加減は無しで頼むよ」
ジギスの脳裏に五年前の記憶がよぎる。視察に出かけていた王が本来滞在するはずだった屋敷の主が急病に倒れてしまい、代わりとして白羽の矢が立てられたのがその近くにあったジギスの生家だった。長く続く落ちぶれた生活の中、すっかり生気を失った父と自棄になり放蕩の限りを尽くしていた兄に代わり、先頭に立って国王をもてなしたのがジギスだ。あの時も、ヴィオルはジギスを呼びつけてこのチェス一式を広げ、相手になってくれと頼んだ。
まずはヴィオルから、交互に一手ずつ駒を動かしていく。時折止まって思考の時間をとりつつ、黒の軍と白の軍が盤の上で距離を詰めていった。
「ご実家に戻らなくて良かったのかい?」
こつんと小さな音を立てて僧侶の駒を動かし、ヴィオルが問うた。
「……戻ったところでこれといってすることもありません」
ジギスが騎士の駒で、白の歩兵を一つ落とした。続いてヴィオルが王を右に二手動かし、それを跨ぐように城の駒を置く。
次の手を思案しながら、ジギスは口を開いた。
「陛下」
「何だい、違反はしていないつもりだけれど」
「存じております。そうではなく……なぜ、陛下は私を召し抱えてくださっているのですか」
ヴィオルはテーブルの空いた場所に頬杖をつき、ジギスの顔を見た。
「言ったことなかった? 大した理由なんてないよ。君ならよく働いて、いい結果をもたらしてくれるだろうと思っただけ」
「……いえ、以前お聞きしました」
ヴィオルは半日にも満たない間を共に過ごしただけの、荒れた屋敷に住むジギスを近侍として王城に迎え入れた。その際もジギスは同じことを尋ね、返ってきたのは今と同じ答えだった。
「君らしくないね、同じことをまた聞くなんて」
「失礼致しました。しかし、『鉄仮面』と言われる私で良いのかと思う時が未だにあるのです」
ヴィオルの僧侶がジギスの歩兵をとった。両陣営の兵力は拮抗している。
「確かに君は愛想なしだけれど、それだけで君の価値が全部決まるわけではないからね。君は周りをよく見ているし頭の回転も早い。そして何より、良いとはいえない環境にあっても自分を腐らせようとしなかった。それができる人間はそうそういるものじゃない」
盤上の戦況を見てヴィオルは一瞬、眉根を寄せたがまたすぐに顔を上げた。
「僕は人を見る目はある。近侍も、それから自分の妻も、この上なく相応しい人を選んだと胸を張って言えるよ」
女王の駒を手に取ったジギスは、エリーズのことを思い浮かべた。控え目だが周りをよく見ており、必要な時には夫の手綱をしっかり引く女性なのは先日の一件でよく分かった。
「もしかして辞めたい? 君を無理やりに押さえつけておこうとは思わないよ。ただでさえ負担が大きい役目だ。一度しかない人生を他のことに使いたいならそれでも構わない」
「……いえ」
ジギスは主君の目をまっすぐ見た。
「家では兄が心を入れ替えて励んでいます。私にできることは、最後まで陛下のお役に立つことのみ……生涯お仕え致します」
錆びかけていた鉄は、内に秘めた力を見出され磨かれて誰よりも有能な器へと変わった。少しの曇りもないその姿に国王は微笑で応えた。
「うん、やっぱり僕の目に狂いはないな」
さて続きといこうじゃないか、と促され、ジギスは盤の上で入り乱れる駒たちを見渡した。勝ち筋はある。中盤から後半にかけての、互いの駒が減ってきた頃からジギスの本領が発揮する。
しばし無言での打ち合いを続け――ついに片方の陣営が陥落した。
「チェックメイトです」
ぽつんと残された白の王、そしてそれを囲む黒の駒が三つ。初めて対局した日と同じく、ジギスが勝利を収めた。
「やっぱり君は一筋縄ではいかないね」
悔しいなと呟きつつも、国王は楽しそうに笑った。
***
二日後。庭園のベンチで本を読んでいたエリーズは、近づいてくる人の気配を感じて顔を上げた。黒いフロックコートに身を包んだ赤い髪の男性――ジギスがやって来る。
エリーズはベンチに本を置いて立ち上がった。
「ジギスさん、どうかなさいましたか?」
彼は確か、昨日まで休みをとっていたはずだ。
「お邪魔をして申し訳ございません……大した用ではないのですが」
ジギスは取り立てて大きな声の持ち主ではないが、いつも聞き取りやすく明瞭に話す。それなのに今日はもごもごとした口ぶりだ。エリーズは聞き漏らすことのないよう耳を傾けた。
「お伝えしておきたいことがございまして……その、王妃殿下のお料理、とても私好みの味でした。ありがとうございます」
「まあ」
予想していなかった言葉にエリーズは目を丸くしたが、すぐに嬉しさがふつふつと湧き上がってきた。ジギスに向けてにっこり微笑む。
「喜んで頂けて嬉しいです。わざわざお礼を言いに来てくださったのですね。ありがとうございます」
「……用件は以上ですので、これで失礼致します」
丁寧に頭を下げ、ジギスは元来た道を歩いていく。相変わらずの鉄仮面だが、彼の心に確かに近づくことができたのを感じながらエリーズはそれを見送った。
突然現れたヴィオルを見て、エリーズはきょとんとした。ノックもせずに入ってくるなんて、よほどジギスに急ぎの用があるのだろうか。
「陛下」
「……どういうことだ」
夫のあまりにも低く冷たい声に、エリーズは身をすくませた。
彼は怒りに震えている。でもどうして? エリーズが理由を考える前に、ヴィオルはずかずかとジギスの方へ詰め寄った。
「君がエリーズに会わなければいけない用があるだなんて聞いていない。白昼堂々、それも執務室でだなんて、一体どういうつもりなんだ。エリーズが誰の妻なのか分かってやっているのか?」
エリーズははっとした。今日、ジギスに会いに行くことはヴィオルには告げていない。まさか彼はジギスがこの部屋にエリーズを呼び、ヴィオルに内緒で逢瀬を楽しんでいたと勘違いしているのでは――エリーズは必死でヴィオルの腕にすがった。
「ヴィオル違うのよ! わたしとジギスさんはそんな仲では」
「僕はジギスに聞いているんだ。答えろジギス」
いつもなら優しくエリーズの話に耳を傾けてくれるのに、今のヴィオルは取りつく島もない。今にもジギスの首を掴んで絞め上げそうな剣幕だ。
しかし激昂した王を目の前にしてもジギスは取り乱すことはなかった。
「……すべて私の責任です」
「ジギスさん!?」
まるで己がエリーズの浮気相手だと認めるかのような口ぶりに、エリーズは愕然とした。
「……王妃殿下は、私が働きづめで休んでいないのではないかと気にかけてくださり、自ら食事を私の元にお持ちくださいました」
そういって、ジギスは机の上に置かれたバスケットの上に目をやった。
「それ以上のことは何もございません。私が王妃殿下にご心配をおかけしていなければこのようなことも起きませんでした。王妃殿下のお心は、常に陛下のお傍にあります……信用ならないということであれば、今すぐ私を処刑台にお送りください。覚悟はできております」
「だ、駄目よ! そんなの絶対に駄目!」
自分の勝手な行いのせいでジギスが処刑台の露になってしまったら、一生をかけても償いきれない――エリーズは半泣きになりながら一層ヴィオルの腕を強く掴んだ。
「ヴィオル、ジギスさんの仰ることは本当よ。ごめんなさい、わたしがヴィオルに何も言わなかったのがいけなかったわ。わたしにとってヴィオルが一番大切な人だというのは当然あなたも分かってくれていると思っていたから、これが浮気だと思われるなんて少しも考えなかったの。だからジギスさんを怒らないで、処刑するなんて絶対駄目!」
近侍の覚悟と王妃の懇願が届いたらしい。ヴィオルの瞳に理性の光が戻ってきた。彼の体から徐々に力が抜けていくのを感じ、エリーズはつかんでいたヴィオルの腕を離した。
「……すまない」
その声は少し震えていた。
「エリーズの居場所を使用人に聞いたら、ジギスの執務室に向かったと聞いて……君たちが二人きりで会う理由がどうしても分からなくて……最悪のことを考えたら、頭に血が上ってしまったんだ」
「ヴィオル、本当にごめんなさい」
「いや、エリーズは何も悪くないよ。君のことになると余裕がなくなってしまう僕が全部悪いんだ」
ヴィオルはジギスの方に視線を移した。
「ジギス、誰よりも真面目に働いてくれている君に失礼な真似をしてすまなかった」
「いえ、誤解を解いて頂けたようなら私からはもう何も申し上げることはございません」
特に表情を変えることもなくジギスが答える。その様子に、ヴィオルは困ったかのようにやや眉を下げた。
「悪いのは僕だけれど……君もさっさと結婚しておいてくれれば、余計な心配をしなくて済んだのにな。まあ、既婚だからといって絶対に安心ではないけれどさ」
ジギスに恋人や婚約者がいるという話をエリーズは聞いたことがなかった。年齢的にはもう、誰かしらの相手を見つけていてもおかしくないはずだが。
「……必要になった時に必要な方と」
ジギスは短くそう答えるだけだった。
気が抜けたらしいヴィオルがはぁ、とため息をつき、エリーズの腰に両手をまわして首元に顔を埋めた。
「何だかすごく疲れた……今日はもう全部終わりにしてエリーズと一緒に過ごしたい」
「あらら……」
甘えられるのは嬉しいが果たしてそれでいいものか――答えを求めてエリーズがジギスの方に顔を向けると、彼は苦い顔をしていた。主君に余計な心配をかけてしまった手前、厳しく政務に連れ戻すことが躊躇われるようだが本音では許容できないのだろう。
エリーズはヴィオルの背に手を回し、優しく擦った。
「ヴィオル、わたしも一緒にいたいけれど……ジギスさんが困っているわ。もう少し頑張りましょう、ね?」
この修羅場は元を辿ればエリーズの思い付きにジギスを巻き込んだことによって起こったことだ。余計に彼に心労をかけるわけにはいかない。
「ええ~、どうしてジギスの味方をするの。君にとって一番大切なのは僕なんだろう?」
ヴィオルが紫水晶の瞳を潤ませて懇願してくる様子に思わず絆されそうになったのをぐっとこらえ、エリーズは彼の手を握った。
「もちろんそうよ。だけどジギスさんだけに頑張らせるなんてあんまりだわ。ヴィオルは優しいもの、そんなことしないでしょう?」
「うう……」
あともう一押し――エリーズはヴィオルの顔を見てにっこり微笑んだ。
「実はね、このサンドイッチはジギスさんのだけでなくてヴィオルの分も作ってあるの。ご政務に戻ってくれたらすぐに持っていくわ」
愛する妻の手料理と聞き、ヴィオルの目の色が変わった。
「分かった、戻るよ。今日の分の仕事はしっかり片付ける」
今回はエリーズの勝ちだ。エリーズは微笑んだまま再びジギスの方を向いた。
「ジギスさん、ご迷惑ばかりかけてごめんなさい。わたしたちはこれで失礼しますね」
「……ええ、そうして頂けると大変有難いです」
行きましょう、とエリーズはヴィオルに部屋を出るよう促す。扉の間際で、王は再度近侍の方へ振り向いた。
「ジギス、それはエリーズが君のために作ったんだから、ちゃんと味わって残さず食べること。これは命令だ」
「承知致しております」
「あ、あの、無理なさらないでくださいねジギスさん。お口に合うかどうか分からないですし……」
忠実なジギスのことだ。エリーズの料理がたとえ不味かろうとも完食するだろうが、エリーズはそのようなことは望まない。
ジギスは無表情のまま一礼し、国王夫妻を見送った。
静かになった執務室で、ジギスは音を立てずに再度机に向き合った。王妃が置いて行ったサンドイッチが入ったバスケットをしばし見つめ、手を伸ばし一切れつまむ。それはエリーズの心を映したような、優しい味がした。
片手で書類にペンを走らせながらも、ジギスはパンを口に運ぶのをやめなかった。
***
後日――ジギス・クルディアスはヴィオルから、一連の騒動のお詫びとして丸々三日の休暇をもらった。
国王の近侍を務めるジギスは王都内に屋敷を構えているが、そこに帰ることはほとんどない。朝から晩まで国王と共に働き、王城内に用意された部屋で休んでいる。
今回の休暇も一日だけ屋敷で過ごし、翌日からは王城の部屋で書類に目を通していた。
静かな部屋に、扉を叩く音が響く。
「どうぞ」
応えると扉が開き、紫色の髪がのぞいた。
「陛下、如何されましたか」
ジギスはすっくと立ちあがりヴィオルの元に向かった。休日にも関わらずきっちりとフロックコートを着込んだ姿を見て、ヴィオルが苦笑する。
「ここにいると聞いて来てみれば……休暇をあげると言っただろうに」
「ご心配なさらずとも休んでおります」
ヴィオルが首を伸ばし、ジギスの肩越しにテーブルの上に置かれた書類の山を見る。
「あの紙の束は何だい」
「……仕事のうちに入らない程度の雑事に関するものばかりです」
やれやれ、とヴィオルは呟き部屋の中央まで進んだ。両手で抱えられるほどの小さな革張りのトランクを携えている。
「まあ、何となく予想はしていたけれど。てこでも休まないというなら、僕の息抜きに少し付き合ってもらうよ。とりあえずテーブルの上を片付けて」
言われるがままに書類の束を近くの棚に置きながら、ジギスは王に問うた。
「王妃殿下の元には行かれないのですか」
「クロニエ侯爵夫人主催のお茶会に呼ばれているから今はいないんだよ」
「左様でしたか」
クロニエ侯爵夫人は人当たりの良い女性だがとにかく話し好きだ。エリーズがすぐに戻ってくることはないだろう。
ヴィオルがテーブルの上でトランクを開くと、一面が白色と黒色で交互に塗られたます目になっている板が現れた。その周りには白と黒の駒が詰められている。貴族が旅行などに持っていく、簡易的なチェスの一式だ。
「手加減なしで思いきりやろうと思ったら相手は君くらいしかいないんだよね。エリーズはまだまだ練習中なんだ。次の手をうんうん考えている時の顔はものすごく可愛いけど」
ジギスは頼まれる前にチェス盤へと変わったトランクに手を伸ばし、駒をすべて所定の位置に並べた。ジギスが黒の駒が並んだ方の席へ、ヴィオルが向かいの白の駒が並べられた側の席へそれぞれ座る。
「手加減は無しで頼むよ」
ジギスの脳裏に五年前の記憶がよぎる。視察に出かけていた王が本来滞在するはずだった屋敷の主が急病に倒れてしまい、代わりとして白羽の矢が立てられたのがその近くにあったジギスの生家だった。長く続く落ちぶれた生活の中、すっかり生気を失った父と自棄になり放蕩の限りを尽くしていた兄に代わり、先頭に立って国王をもてなしたのがジギスだ。あの時も、ヴィオルはジギスを呼びつけてこのチェス一式を広げ、相手になってくれと頼んだ。
まずはヴィオルから、交互に一手ずつ駒を動かしていく。時折止まって思考の時間をとりつつ、黒の軍と白の軍が盤の上で距離を詰めていった。
「ご実家に戻らなくて良かったのかい?」
こつんと小さな音を立てて僧侶の駒を動かし、ヴィオルが問うた。
「……戻ったところでこれといってすることもありません」
ジギスが騎士の駒で、白の歩兵を一つ落とした。続いてヴィオルが王を右に二手動かし、それを跨ぐように城の駒を置く。
次の手を思案しながら、ジギスは口を開いた。
「陛下」
「何だい、違反はしていないつもりだけれど」
「存じております。そうではなく……なぜ、陛下は私を召し抱えてくださっているのですか」
ヴィオルはテーブルの空いた場所に頬杖をつき、ジギスの顔を見た。
「言ったことなかった? 大した理由なんてないよ。君ならよく働いて、いい結果をもたらしてくれるだろうと思っただけ」
「……いえ、以前お聞きしました」
ヴィオルは半日にも満たない間を共に過ごしただけの、荒れた屋敷に住むジギスを近侍として王城に迎え入れた。その際もジギスは同じことを尋ね、返ってきたのは今と同じ答えだった。
「君らしくないね、同じことをまた聞くなんて」
「失礼致しました。しかし、『鉄仮面』と言われる私で良いのかと思う時が未だにあるのです」
ヴィオルの僧侶がジギスの歩兵をとった。両陣営の兵力は拮抗している。
「確かに君は愛想なしだけれど、それだけで君の価値が全部決まるわけではないからね。君は周りをよく見ているし頭の回転も早い。そして何より、良いとはいえない環境にあっても自分を腐らせようとしなかった。それができる人間はそうそういるものじゃない」
盤上の戦況を見てヴィオルは一瞬、眉根を寄せたがまたすぐに顔を上げた。
「僕は人を見る目はある。近侍も、それから自分の妻も、この上なく相応しい人を選んだと胸を張って言えるよ」
女王の駒を手に取ったジギスは、エリーズのことを思い浮かべた。控え目だが周りをよく見ており、必要な時には夫の手綱をしっかり引く女性なのは先日の一件でよく分かった。
「もしかして辞めたい? 君を無理やりに押さえつけておこうとは思わないよ。ただでさえ負担が大きい役目だ。一度しかない人生を他のことに使いたいならそれでも構わない」
「……いえ」
ジギスは主君の目をまっすぐ見た。
「家では兄が心を入れ替えて励んでいます。私にできることは、最後まで陛下のお役に立つことのみ……生涯お仕え致します」
錆びかけていた鉄は、内に秘めた力を見出され磨かれて誰よりも有能な器へと変わった。少しの曇りもないその姿に国王は微笑で応えた。
「うん、やっぱり僕の目に狂いはないな」
さて続きといこうじゃないか、と促され、ジギスは盤の上で入り乱れる駒たちを見渡した。勝ち筋はある。中盤から後半にかけての、互いの駒が減ってきた頃からジギスの本領が発揮する。
しばし無言での打ち合いを続け――ついに片方の陣営が陥落した。
「チェックメイトです」
ぽつんと残された白の王、そしてそれを囲む黒の駒が三つ。初めて対局した日と同じく、ジギスが勝利を収めた。
「やっぱり君は一筋縄ではいかないね」
悔しいなと呟きつつも、国王は楽しそうに笑った。
***
二日後。庭園のベンチで本を読んでいたエリーズは、近づいてくる人の気配を感じて顔を上げた。黒いフロックコートに身を包んだ赤い髪の男性――ジギスがやって来る。
エリーズはベンチに本を置いて立ち上がった。
「ジギスさん、どうかなさいましたか?」
彼は確か、昨日まで休みをとっていたはずだ。
「お邪魔をして申し訳ございません……大した用ではないのですが」
ジギスは取り立てて大きな声の持ち主ではないが、いつも聞き取りやすく明瞭に話す。それなのに今日はもごもごとした口ぶりだ。エリーズは聞き漏らすことのないよう耳を傾けた。
「お伝えしておきたいことがございまして……その、王妃殿下のお料理、とても私好みの味でした。ありがとうございます」
「まあ」
予想していなかった言葉にエリーズは目を丸くしたが、すぐに嬉しさがふつふつと湧き上がってきた。ジギスに向けてにっこり微笑む。
「喜んで頂けて嬉しいです。わざわざお礼を言いに来てくださったのですね。ありがとうございます」
「……用件は以上ですので、これで失礼致します」
丁寧に頭を下げ、ジギスは元来た道を歩いていく。相変わらずの鉄仮面だが、彼の心に確かに近づくことができたのを感じながらエリーズはそれを見送った。
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