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夏の予感・・・語り、半沢匡弥(はんざわまさや)
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「半沢さん、大関さん」
入学式も終わり、校内もだいぶ落ち着いた四月の半ば。春休みも予定通りに終わり、桜も咲き、そろそろ散りそうだ。そんな穏やかな日に、事は起こった。
「お疲れ様です」
部活が終わり、いつもどおり、大関とふたりで片づけをしていると、一人の部員が戻ってきた。おれたちの一年後輩。
「どうした、関谷?」
黒に赤メッシュの髪の毛。左耳に三つのピアスホール。釣り目がちの目に生意気そうな感じ。生活指導担当ではないのに生活指導担当並みに厳しい浅見先生統治下の我が野球部では異色の存在だ。でも、関谷は見た目とは裏腹に中身はバリバリの野球少年だ。ホームラン・・・とまではいかないけど、ヒットが多くて足も速い。中学時代はマネージャーだったというだけあって、細かいことにもよく気がつく、部員が少ない秋沢野球部では貴重な存在だ。
「お二人に、話したいことがあって」
関谷が先生から目をつけられないのは、この礼儀正しさのせいなのかもしれない。
「顔が暗いな」
おれは一瞬、初めて会ったときの関谷を思い出した。
「実は・・・」
暗い顔した関谷が切り出したのは、部活を辞めたいという話だった。
でも、今の秋沢野球部は9人しかいない・・・そう、試合に出られるぎりぎりの人数。つまり、関谷が辞めたら今期の公式戦にエントリーすることすらできない。
「・・・申し訳ないです」
「・・・・・・」
いつもの試合のときよりもずっと深く頭を下げた関谷に、おれも大関も、一瞬返す言葉がなかった。
「俺、探すんで・・・俺の代わりに打席に立ってくれるやつ、必ず探します!」
自分が辞めたらおれと大関に高校最後の夏はなくなる。関谷はそれを気にしているのだ。3年は俺たち二人だけで、他は関谷と同じ2年生が5人、入部したての1年生がひとりだ。
「・・・大丈夫だよ」
本当は全然大丈夫じゃないし、頭の中が真っ白だけど、泣きそうな顔で頭を下げる関谷を見ながら口を開いて出てきた言葉はそれだった。
「必ず探します」
「いいよ、探さなくて」
秋沢の部員が少ない理由はふたつ。ひとつは、野球部が弱いこと。甲子園出場経験はもちろん、地区予選の上位入賞経験さえ・・・。そしてもうひとつは・・・。
「人数がぎりぎりしかいないのは、おれのせいでもあるんだから」
もうひとつの理由は、おれの練習が厳しすぎることだと噂されている。
「でも・・・」
「こっちの心配はいいから、自分のことをしっかりやりなよ」
関谷がこういうのは、きっと訳がある。だから、おれも大関もそれ以上は何も訊かなかったし、関谷も何も言わなかった。そして、おれに退部届けを預け、その日を最後に関谷はグラウンドから姿を消した。
欠員のまま高校最後の夏が訪れようとしていた。
「半沢」
「はい!」
部活の合間に浅見先生に呼ばれる。大関だけが、ふと不安そうにおれを見た。
「関谷は今日も休みか?」
「ええ・・・でも、大丈夫です」
おれは関谷から預かった退部届けを浅見先生に出さずにいた。もちろん、あの日のことも、なぜ関谷が部活に来ないのかも、何も言っていない。
「大丈夫?」
「うん」
「いつまでもつかな・・・」
「わからない」
大関とおれだけが野球部の危機を知っていた。
「匡弥、お客さん」
テニスラケットを持ったままの朝斗が見知らぬ女の人を連れてグランドに来たのは関谷が来なくなってから二週間ほど経った頃だった。
「おれに?」
「うん、さっき、コートの前で会って」
テニス部のコートは正門を入ってすぐのところにある。“お客様”とかかれたネームプレートを首からかけている。歳はたぶん25歳くらい。
「はじめまして」
「はじめまして。半沢匡弥です」
「私、深(しん)の・・・関谷の姉です」
部活を大関に任せて、おれは少し、関谷のお姉さんと話をすることにした。
「深(しん)は部活に行ってないんですね」
「はい、関谷からは、辞めたいと言われて、退部届けを預かってます・・・まだ、顧問には提出してないんですけど」
関谷はまだ、野球部に籍がある。ただ、浅見先生のことをあと何日誤魔化せるかもわからない。
「それ、もう少し、預かっていてもらえませんか?」
「はい、いいですけど」
何かわけがありそうな感じ。
「私、深に野球をやらせたいんです」
「それはおれもそうですけど、あまり無理強いするのは・・・」
「深を、かならず野球部に戻しますから」
「はあ・・・」
この人は何が言いたいのだろう・・・?
「お姉さんは、関谷が部活を辞めた理由を知ってるんですね?」
彼女は頷いた。
「あの子は、ずっと野球がやりたかったんです」
「中学のときは、マネージャーだったと聞いています。関谷は打線もいいし、足も速いから、選手としてを期待してるんですけど」
弱小野球部だけど、頑張れば強くなれるはず。そのためには、関谷が必要なのだ。
「私も、そうしてあげたかったんですけど・・・ユニフォーム、買ってあげられなくて」
「え?」
「半沢さん、深にユニフォームくれたでしょう?」
「ああ!」
あれは去年の今頃だった。新入部員を募集していたとき、おれと大関は毎日野球部を眺めている不良の一年生が気になっていた。それが関谷だ。
関谷は毎日遠く、フェンスの向こう側でブラック無糖の缶コーヒーを飲みながら野球部を見ていた。そして、コーヒーを飲み終わると行ってしまう。最初は気のせいかと思っていたが、やっぱり野球部を見ていた。
だから、ある日、おれと大関は声をかけた。
『野球、好きなんだ?』
『別に・・・』
『でも、毎日見に来てるよね?』
『あのマネージャー、記録の取り方下手だな』
最初の日はそれだけの会話だった。関谷は空き缶をゴミ箱に投げ捨てて、不機嫌そうに行ってしまった。そして、翌日、おれ達は関谷を練習に誘った。
『できねーよ』
『ちょっとやってみるだけでも』
『学ラン汚れんじゃん』
『じゃあ、おれのお下がりだけど、ユニフォーム着てさ』
『・・・バイトあるから、三十分だけ』
その日関谷は、初めてフェンスのこっち側に来た。それから毎日・・・あの退部届けを、おれに預けた日まで。
「うちの母、ずっと入院してて、シングルマザーだから、お金、ないんです」
関谷からは一度もそんなことを聞いたことはなかった。確かにユニフォームはおれのお下がりで、グローブやバットも大関のお下がりや先輩たちが置いていったのを使っている。毎日バイトで、部活も半分で帰ってしまう日もある。でも、遠征も合宿も普通に来ていたのに。
「深、小学生の頃から野球が大好きで、でも、小学生の野球チームって、土日に保護者がいないといけないでしょう・・・うちではそれが出来なくて」
「あ・・・」
おれも昔は両親に来てもらったりしてたっけ。
「それで辞めて、中学のときは、ユニフォームとか、グローブが買ってあげられなくて」
ユニフォームもグローブも、普通に考えてそこそこ高い。
「それでマネージャー・・・」
「マネージャーなら、ユニフォーム買わなくていいからって」
おれは今まであまり考えたことがなかった。土日の練習にきてくれた両親とか、ユニフォームやグローブが当たり前にあることの有り難さ。
「関谷が辞める理由って・・・」
「バイトの時間を増やしたからだと思います。母の入院費がかさんでしまったのをあの子に知られてしまって・・・それに、あの子、高校の授業料、自分で払ってるから」
「そうだったんだ」
その日の放課後、家の近くのマリ・ベーカリーによると、案の定、同じ高校に通う幼馴染が5人ともそろっていた。放課後をバイトと社会人チームのバスケットにかけているアキ以外はみんなそれぞれ部活があったはずだけど、大体俺が1番最後になる。
「見た目は不良っぽいけど、いい子だよね。礼儀正しいし」
時折冷やかしで野球部の練習に乱入してくる幼馴染にも関谷が挨拶をしたり言葉を交わしているのは俺も見ていた。
「うん・・・どうにかする方法ないかな・・・」
どうにかといっても、高校生にどうにかできる問題ではないのかもしれない。お母さんの入院費のことは関谷の家の事情で介入するのは難しいし、それに、授業料が支払えなくなれば、関谷は部活どころか学校を辞めなければならなくなるのだから。
「どうにかな・・・」
みんなしばらく黙り込む。
「あ、匡弥、オレ、いいこと考えた」
帰り際に、アキが名案を思いついたらしい。でも、それがなんなのか、おれが知ったのは翌日だった。
入学式も終わり、校内もだいぶ落ち着いた四月の半ば。春休みも予定通りに終わり、桜も咲き、そろそろ散りそうだ。そんな穏やかな日に、事は起こった。
「お疲れ様です」
部活が終わり、いつもどおり、大関とふたりで片づけをしていると、一人の部員が戻ってきた。おれたちの一年後輩。
「どうした、関谷?」
黒に赤メッシュの髪の毛。左耳に三つのピアスホール。釣り目がちの目に生意気そうな感じ。生活指導担当ではないのに生活指導担当並みに厳しい浅見先生統治下の我が野球部では異色の存在だ。でも、関谷は見た目とは裏腹に中身はバリバリの野球少年だ。ホームラン・・・とまではいかないけど、ヒットが多くて足も速い。中学時代はマネージャーだったというだけあって、細かいことにもよく気がつく、部員が少ない秋沢野球部では貴重な存在だ。
「お二人に、話したいことがあって」
関谷が先生から目をつけられないのは、この礼儀正しさのせいなのかもしれない。
「顔が暗いな」
おれは一瞬、初めて会ったときの関谷を思い出した。
「実は・・・」
暗い顔した関谷が切り出したのは、部活を辞めたいという話だった。
でも、今の秋沢野球部は9人しかいない・・・そう、試合に出られるぎりぎりの人数。つまり、関谷が辞めたら今期の公式戦にエントリーすることすらできない。
「・・・申し訳ないです」
「・・・・・・」
いつもの試合のときよりもずっと深く頭を下げた関谷に、おれも大関も、一瞬返す言葉がなかった。
「俺、探すんで・・・俺の代わりに打席に立ってくれるやつ、必ず探します!」
自分が辞めたらおれと大関に高校最後の夏はなくなる。関谷はそれを気にしているのだ。3年は俺たち二人だけで、他は関谷と同じ2年生が5人、入部したての1年生がひとりだ。
「・・・大丈夫だよ」
本当は全然大丈夫じゃないし、頭の中が真っ白だけど、泣きそうな顔で頭を下げる関谷を見ながら口を開いて出てきた言葉はそれだった。
「必ず探します」
「いいよ、探さなくて」
秋沢の部員が少ない理由はふたつ。ひとつは、野球部が弱いこと。甲子園出場経験はもちろん、地区予選の上位入賞経験さえ・・・。そしてもうひとつは・・・。
「人数がぎりぎりしかいないのは、おれのせいでもあるんだから」
もうひとつの理由は、おれの練習が厳しすぎることだと噂されている。
「でも・・・」
「こっちの心配はいいから、自分のことをしっかりやりなよ」
関谷がこういうのは、きっと訳がある。だから、おれも大関もそれ以上は何も訊かなかったし、関谷も何も言わなかった。そして、おれに退部届けを預け、その日を最後に関谷はグラウンドから姿を消した。
欠員のまま高校最後の夏が訪れようとしていた。
「半沢」
「はい!」
部活の合間に浅見先生に呼ばれる。大関だけが、ふと不安そうにおれを見た。
「関谷は今日も休みか?」
「ええ・・・でも、大丈夫です」
おれは関谷から預かった退部届けを浅見先生に出さずにいた。もちろん、あの日のことも、なぜ関谷が部活に来ないのかも、何も言っていない。
「大丈夫?」
「うん」
「いつまでもつかな・・・」
「わからない」
大関とおれだけが野球部の危機を知っていた。
「匡弥、お客さん」
テニスラケットを持ったままの朝斗が見知らぬ女の人を連れてグランドに来たのは関谷が来なくなってから二週間ほど経った頃だった。
「おれに?」
「うん、さっき、コートの前で会って」
テニス部のコートは正門を入ってすぐのところにある。“お客様”とかかれたネームプレートを首からかけている。歳はたぶん25歳くらい。
「はじめまして」
「はじめまして。半沢匡弥です」
「私、深(しん)の・・・関谷の姉です」
部活を大関に任せて、おれは少し、関谷のお姉さんと話をすることにした。
「深(しん)は部活に行ってないんですね」
「はい、関谷からは、辞めたいと言われて、退部届けを預かってます・・・まだ、顧問には提出してないんですけど」
関谷はまだ、野球部に籍がある。ただ、浅見先生のことをあと何日誤魔化せるかもわからない。
「それ、もう少し、預かっていてもらえませんか?」
「はい、いいですけど」
何かわけがありそうな感じ。
「私、深に野球をやらせたいんです」
「それはおれもそうですけど、あまり無理強いするのは・・・」
「深を、かならず野球部に戻しますから」
「はあ・・・」
この人は何が言いたいのだろう・・・?
「お姉さんは、関谷が部活を辞めた理由を知ってるんですね?」
彼女は頷いた。
「あの子は、ずっと野球がやりたかったんです」
「中学のときは、マネージャーだったと聞いています。関谷は打線もいいし、足も速いから、選手としてを期待してるんですけど」
弱小野球部だけど、頑張れば強くなれるはず。そのためには、関谷が必要なのだ。
「私も、そうしてあげたかったんですけど・・・ユニフォーム、買ってあげられなくて」
「え?」
「半沢さん、深にユニフォームくれたでしょう?」
「ああ!」
あれは去年の今頃だった。新入部員を募集していたとき、おれと大関は毎日野球部を眺めている不良の一年生が気になっていた。それが関谷だ。
関谷は毎日遠く、フェンスの向こう側でブラック無糖の缶コーヒーを飲みながら野球部を見ていた。そして、コーヒーを飲み終わると行ってしまう。最初は気のせいかと思っていたが、やっぱり野球部を見ていた。
だから、ある日、おれと大関は声をかけた。
『野球、好きなんだ?』
『別に・・・』
『でも、毎日見に来てるよね?』
『あのマネージャー、記録の取り方下手だな』
最初の日はそれだけの会話だった。関谷は空き缶をゴミ箱に投げ捨てて、不機嫌そうに行ってしまった。そして、翌日、おれ達は関谷を練習に誘った。
『できねーよ』
『ちょっとやってみるだけでも』
『学ラン汚れんじゃん』
『じゃあ、おれのお下がりだけど、ユニフォーム着てさ』
『・・・バイトあるから、三十分だけ』
その日関谷は、初めてフェンスのこっち側に来た。それから毎日・・・あの退部届けを、おれに預けた日まで。
「うちの母、ずっと入院してて、シングルマザーだから、お金、ないんです」
関谷からは一度もそんなことを聞いたことはなかった。確かにユニフォームはおれのお下がりで、グローブやバットも大関のお下がりや先輩たちが置いていったのを使っている。毎日バイトで、部活も半分で帰ってしまう日もある。でも、遠征も合宿も普通に来ていたのに。
「深、小学生の頃から野球が大好きで、でも、小学生の野球チームって、土日に保護者がいないといけないでしょう・・・うちではそれが出来なくて」
「あ・・・」
おれも昔は両親に来てもらったりしてたっけ。
「それで辞めて、中学のときは、ユニフォームとか、グローブが買ってあげられなくて」
ユニフォームもグローブも、普通に考えてそこそこ高い。
「それでマネージャー・・・」
「マネージャーなら、ユニフォーム買わなくていいからって」
おれは今まであまり考えたことがなかった。土日の練習にきてくれた両親とか、ユニフォームやグローブが当たり前にあることの有り難さ。
「関谷が辞める理由って・・・」
「バイトの時間を増やしたからだと思います。母の入院費がかさんでしまったのをあの子に知られてしまって・・・それに、あの子、高校の授業料、自分で払ってるから」
「そうだったんだ」
その日の放課後、家の近くのマリ・ベーカリーによると、案の定、同じ高校に通う幼馴染が5人ともそろっていた。放課後をバイトと社会人チームのバスケットにかけているアキ以外はみんなそれぞれ部活があったはずだけど、大体俺が1番最後になる。
「見た目は不良っぽいけど、いい子だよね。礼儀正しいし」
時折冷やかしで野球部の練習に乱入してくる幼馴染にも関谷が挨拶をしたり言葉を交わしているのは俺も見ていた。
「うん・・・どうにかする方法ないかな・・・」
どうにかといっても、高校生にどうにかできる問題ではないのかもしれない。お母さんの入院費のことは関谷の家の事情で介入するのは難しいし、それに、授業料が支払えなくなれば、関谷は部活どころか学校を辞めなければならなくなるのだから。
「どうにかな・・・」
みんなしばらく黙り込む。
「あ、匡弥、オレ、いいこと考えた」
帰り際に、アキが名案を思いついたらしい。でも、それがなんなのか、おれが知ったのは翌日だった。
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