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うら若き有閑貴族夫人になったからには、安穏なだらだらニート生活をしたい。【1】
グレイ・ダージリン(117)
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揺れる馬車の中で、僕は掌側にした印章を握り込む。こうすれば手の甲から見た時、古ぼけた金の指輪にしか見えないだろう。
指輪を返すにしろ、サイモン様とマリーに相談した方が良いだろうなぁ。念の為に上から手袋をするようにしよう。
キャンディ伯爵邸に戻って来て、馬車を降りる。
イサーク様が「父様に見せてくる!」と意気揚々と二つの鳥籠を両手に持って足早に去って行った。慌ててそれを追いかけるイサーク様付きの侍女。
「転ばないよう気を付けてね!」と叫ぶマリーに、後で話があると切り出そうとした、その時。
「マリー様、大変です! フソウ人の奴隷が逃げ出そうとしまして――」
筆頭庭師――もとい隠密騎士ジルベリクが慌ただしくやってきて報告してきた。
その後ろには侍女エロイーズと熊ノ庄出身の隠密騎士影熊のディートフリートの姿。二人共僕達を見るなり安堵したような表情をしている。
マリーが何があったの、と訊ねると――何でも、半刻程前に聖女に関する事柄限定での記録魔エヴァン修道士が、フソウ人の絵姿を描こうとやってきたそうだ。しかし彼の姿を見るなりフソウ人が暴れ出したのだとか。
「申し訳ありません、言葉も通じず錯乱しており。自害しかねなかったのでひとまず猿轡を噛ませて拘束しております」
報告するディートフリート。
エロイーズが僕達が帰るのが遅いようであれば鎮静作用のある薬を使って大人しくさせるつもりだったと言う。奴隷という身分とはいえ、フソウ人はマリーに贈られた人間。死なせでもしたら、と気が気では無かっただろう。
「分かったわ、直ぐに向かうわね」
マリーが頷く。
指輪のこと言いだしそびれたなぁと思いながら、僕は同行することを申し出たのだった。
***
フソウ人の男がいる部屋に案内されると、扉の外でエヴァン修道士が青褪めた顔で祈りを捧げていた。僕達に気付くと聖職者の礼を取る。
「マリー様! 申し訳ありません……」
しかし神に誓って何もしていないのです、というエヴァン修道士。
マリーはふむ……と視線を宙に彷徨わせた。
「成程……貴方というよりも修道士に怯えているのよ。その修道服がいけないんだわ」
「脱ぎます!」
エヴァン修道士は素早く修道服を脱ぎ始めた。その間にもサリーナが扉を開き、マリーが部屋へ入って行く。僕達もそれに続いた。
フソウ人を落ち着かせる為か、部屋はカーテンが閉められている。全体的に薄暗くされていた。
くぐもった、男が呻く声。
サリーナがカーテンを開けて光を取り入れると、フソウ人は縛られてベッドに転がっている。
僕達の姿を認めると、尚も逃げようと身を捩っていた。視界の隅に、相手を刺激しないようそっと陣取るエヴァン修道士の姿。
フソウ人を観察していると、どうも背後に控える体格の良い前脚や後ろ脚、中脚を見て怯えているようだ。
「お前達、そこで待機」
マリーもそれに気付いたのだろう。命令を下し、ゆっくりとベッドに近付く。
彼女は少し身を屈めると、フソウ人と目を合わせた。
『初めまして、ヨシヒコさん。私はマリー。私達は貴方を害しないわ。先程、貴方が混乱して暴れていたから縄で縛るしかなかったって聞いたわ。縄を解きたいから落ち着いてくれるかしら?』
脳裏にマリーの声が響く。ピタリ、とフソウ人の動きが止まった。
『こ、言葉が――? それにおらの名前……もしや神通力!?』
瞠目してマリーを見つめる男。
『そこにいる人は私の侍女でサリーナというの。今から彼女が貴方の縄を解くから、大人しくしていてね。お返事は?』
『は、はい』
サリーナが縄を解いて猿轡を外す。
その間にもマリーはお腹が空いていないか、厠は大丈夫か等と優しく話しかけていた。
拘束が解けるなり、男は『生き菩薩様、お助けを!』と悲痛な叫び声を上げてベッドから転び落ちるようにマリーに縋り付いた。
武器に手をかけようとする前脚達を視線で制すると、マリーは男の頭に手を置く。
『大丈夫、貴方は既に私の庇護下に入っています。着るものや食べるもの、温かい寝床は全て与えましょう。貴方の妻と子供も、じきにこの屋敷へ来る手筈になっていますよ』
男は涙をボロボロと流しながら『お、おお……それは真にごぜえましょうか!』と彼女を見上げた。
マリーは頷いて、優しく微笑み返す。
『ええ。だから安心なさい。これまで酷い目に遭わされてきたのでしょう? もうそんな日々は終わりました。暫くはこの屋敷で心と体をゆっくりと休めるといいわ』
『はい、摩利支菩薩様……』
緊張の糸が切れたのか、マリーに向かって手を合わせながらその場に崩れ落ちるように気絶する男。
異国の神の名前だろうか? 奇妙な呼ばれ方をしたマリーが何かを堪えるような変な表情をしている。
「どうしたの、マリー?」
「いえ、何でも。というか、仏教らしきもの、この世界にもあったのね……」
まあ、でも豚共を踏みつけているあたりは私の生き様にシンクロしないでもないわ――等とぶつぶつ言いながら気を取り直すマリー。
フソウ人の男をベッドに寝かせて皆で部屋の外に出ると、手帳を片手に持ったエヴァン修道士が「『マリシボサツ』とは何でしょうか?」とマリーに訊ねた。
その時、場の雰囲気がピシリと固まる。
一瞬の後、「そうね……太陽神に先駆けて世界を照らす夜明け、暁の女神の名ですわ」と彼女は上品に微笑んだ。
「おお、闇夜の世界に太陽神の御威光を呼び覚ます聖女様に相応しいですね!」
感動したように言いながら、手帳にペンを走らせるエヴァン修道士。
でも――『豚共を踏みつけている』。
「……」
うん、これ深く突っ込んじゃいけないいつもの奴だな。
指輪を返すにしろ、サイモン様とマリーに相談した方が良いだろうなぁ。念の為に上から手袋をするようにしよう。
キャンディ伯爵邸に戻って来て、馬車を降りる。
イサーク様が「父様に見せてくる!」と意気揚々と二つの鳥籠を両手に持って足早に去って行った。慌ててそれを追いかけるイサーク様付きの侍女。
「転ばないよう気を付けてね!」と叫ぶマリーに、後で話があると切り出そうとした、その時。
「マリー様、大変です! フソウ人の奴隷が逃げ出そうとしまして――」
筆頭庭師――もとい隠密騎士ジルベリクが慌ただしくやってきて報告してきた。
その後ろには侍女エロイーズと熊ノ庄出身の隠密騎士影熊のディートフリートの姿。二人共僕達を見るなり安堵したような表情をしている。
マリーが何があったの、と訊ねると――何でも、半刻程前に聖女に関する事柄限定での記録魔エヴァン修道士が、フソウ人の絵姿を描こうとやってきたそうだ。しかし彼の姿を見るなりフソウ人が暴れ出したのだとか。
「申し訳ありません、言葉も通じず錯乱しており。自害しかねなかったのでひとまず猿轡を噛ませて拘束しております」
報告するディートフリート。
エロイーズが僕達が帰るのが遅いようであれば鎮静作用のある薬を使って大人しくさせるつもりだったと言う。奴隷という身分とはいえ、フソウ人はマリーに贈られた人間。死なせでもしたら、と気が気では無かっただろう。
「分かったわ、直ぐに向かうわね」
マリーが頷く。
指輪のこと言いだしそびれたなぁと思いながら、僕は同行することを申し出たのだった。
***
フソウ人の男がいる部屋に案内されると、扉の外でエヴァン修道士が青褪めた顔で祈りを捧げていた。僕達に気付くと聖職者の礼を取る。
「マリー様! 申し訳ありません……」
しかし神に誓って何もしていないのです、というエヴァン修道士。
マリーはふむ……と視線を宙に彷徨わせた。
「成程……貴方というよりも修道士に怯えているのよ。その修道服がいけないんだわ」
「脱ぎます!」
エヴァン修道士は素早く修道服を脱ぎ始めた。その間にもサリーナが扉を開き、マリーが部屋へ入って行く。僕達もそれに続いた。
フソウ人を落ち着かせる為か、部屋はカーテンが閉められている。全体的に薄暗くされていた。
くぐもった、男が呻く声。
サリーナがカーテンを開けて光を取り入れると、フソウ人は縛られてベッドに転がっている。
僕達の姿を認めると、尚も逃げようと身を捩っていた。視界の隅に、相手を刺激しないようそっと陣取るエヴァン修道士の姿。
フソウ人を観察していると、どうも背後に控える体格の良い前脚や後ろ脚、中脚を見て怯えているようだ。
「お前達、そこで待機」
マリーもそれに気付いたのだろう。命令を下し、ゆっくりとベッドに近付く。
彼女は少し身を屈めると、フソウ人と目を合わせた。
『初めまして、ヨシヒコさん。私はマリー。私達は貴方を害しないわ。先程、貴方が混乱して暴れていたから縄で縛るしかなかったって聞いたわ。縄を解きたいから落ち着いてくれるかしら?』
脳裏にマリーの声が響く。ピタリ、とフソウ人の動きが止まった。
『こ、言葉が――? それにおらの名前……もしや神通力!?』
瞠目してマリーを見つめる男。
『そこにいる人は私の侍女でサリーナというの。今から彼女が貴方の縄を解くから、大人しくしていてね。お返事は?』
『は、はい』
サリーナが縄を解いて猿轡を外す。
その間にもマリーはお腹が空いていないか、厠は大丈夫か等と優しく話しかけていた。
拘束が解けるなり、男は『生き菩薩様、お助けを!』と悲痛な叫び声を上げてベッドから転び落ちるようにマリーに縋り付いた。
武器に手をかけようとする前脚達を視線で制すると、マリーは男の頭に手を置く。
『大丈夫、貴方は既に私の庇護下に入っています。着るものや食べるもの、温かい寝床は全て与えましょう。貴方の妻と子供も、じきにこの屋敷へ来る手筈になっていますよ』
男は涙をボロボロと流しながら『お、おお……それは真にごぜえましょうか!』と彼女を見上げた。
マリーは頷いて、優しく微笑み返す。
『ええ。だから安心なさい。これまで酷い目に遭わされてきたのでしょう? もうそんな日々は終わりました。暫くはこの屋敷で心と体をゆっくりと休めるといいわ』
『はい、摩利支菩薩様……』
緊張の糸が切れたのか、マリーに向かって手を合わせながらその場に崩れ落ちるように気絶する男。
異国の神の名前だろうか? 奇妙な呼ばれ方をしたマリーが何かを堪えるような変な表情をしている。
「どうしたの、マリー?」
「いえ、何でも。というか、仏教らしきもの、この世界にもあったのね……」
まあ、でも豚共を踏みつけているあたりは私の生き様にシンクロしないでもないわ――等とぶつぶつ言いながら気を取り直すマリー。
フソウ人の男をベッドに寝かせて皆で部屋の外に出ると、手帳を片手に持ったエヴァン修道士が「『マリシボサツ』とは何でしょうか?」とマリーに訊ねた。
その時、場の雰囲気がピシリと固まる。
一瞬の後、「そうね……太陽神に先駆けて世界を照らす夜明け、暁の女神の名ですわ」と彼女は上品に微笑んだ。
「おお、闇夜の世界に太陽神の御威光を呼び覚ます聖女様に相応しいですね!」
感動したように言いながら、手帳にペンを走らせるエヴァン修道士。
でも――『豚共を踏みつけている』。
「……」
うん、これ深く突っ込んじゃいけないいつもの奴だな。
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