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血盥渓谷(ちたらいけいこく)
お目付河鹿
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阿諛は、門客と共に船に乗って揺られながら、蒿雀氏の治める血盥渓谷へ足を踏み入れた。
吹く風は高地の匂いを帯び、山影は鋭く、谷を渡る水音はどこか遠い。
そんな風景を破るように、元気すぎる声が飛んできた。
「おーい阿諛ちゃん! とうとう来たね」
山椒漁師のみつちが、両手を大きく振りながら走ってくる。
彼女は旅に旅を重ね、理想の“イイ男”を探し、かはそに朝を放浪した女だ。
結局見つからなかったらしく、
「もうええ、阿諛がおる。今日からアンタが弟分や!」
と、勝手に宣言してきた。
匪躬はその横で腕を組み、眉間に深いしわを寄せた。
「おたからに……自称・姉……???」
「なにさ匪躬? 文句あるなら言ってみな! アンタはどーせ不在ばっかだろ、弟分は私が鍛える」
どうやらこの瞬間から、阿諛・門客・みつち・匪躬という奇妙な共同生活が始まったらしい。
匪躬はといえば、肉体も戦術も戦略も、全方面で蒿雀氏から鍛え直される日々。
家に帰れる日はほとんどなく、門客が家事を回し、みつちが炊事と弟分の世話を焼く方が、むしろ匪躬にとっても都合がよかった。
✦
やがて阿諛には、蒿雀氏から“衛生兵”としての役目が与えられた。
戦闘には向かない。本人も重々わかっている。
それでも、医女となっていた匪躬の元妻女と、その再婚相手の軍医の屋敷に通い詰めるうち、木こり夫妻の遺児兄妹ーーカンカとタマリスとも自然と交流ができた。
匪躬は気まずさから、遺児たちと距離を置いてしまう。
だが兄妹は、結果的に匪躬に拾われたことで、生存が保証されたようなものだった。
兄のカンカは、養父である軍医の背に追いつくべく、日々研鑽を積み、
「平和になったら、両属地へ帰りたい」とまっすぐに言った。
妹のタマリスはというと、蒿雀氏の生活にすっかり馴染み、両属地の記憶も薄い。
亜久里の熱烈なファンで、
「いつか……亜久里さまに、お仕えしたいの……!」
と、阿諛にだけそっと打ち明ける姿が、あまりにも可愛らしい。
そんな日々の中、出兵の刻限は着実に迫っていた。
匪躬は将軍、阿諛は衛生兵、みつちは炊事係。
カンカは養父にくっついて軍医見習いとして同行し、門客と養母娘は血盥渓谷で留守を守る。
壮行会では、亜久里が凛とした演説を放ち、会場を圧倒した。
観衆の中には、阿諛とタマリスの姿もあった。
阿諛の隣でタマリスが、
「キャー、いま亜久里さまと目が合った! 手を振ってくださった! ひえぇっ……!」
と震えているのが、とんでもなく微笑ましかった。
✦
――そして、出発三日前。
阿諛は突然、蒿雀氏の領主から呼び出された。
「……天媛からの命だ。阿諛、そなたにこの河鹿(かじか)を同行させよと仰せであった。理由? ……知らん」
領主の横に立っていた少女は、涼しげな瞳で一礼した。
齢十七歳ほど、筋肉質で隙のない立ち姿。
「私は蒿雀氏の者ではない。他武門から派遣された、お目付役だ。
阿諛、お前の行動を逐一観察し、生きて戻れたなら天媛へ報告する」
「監視役……? 河鹿も衛生兵?」
河鹿は一瞬だけ目線をそらし、淡々と言った。
「お前が知る必要はない。安心しろ、必要以上に干渉はせぬ。
ただーー任務なのでな」
その声音は冷ややかだが、不思議と敵意はなかった。
新たな同行者。
不可解な命令。
そして三日後には両属地へ。
阿諛の胸に、静かに緊張が満ちていくのだった。
吹く風は高地の匂いを帯び、山影は鋭く、谷を渡る水音はどこか遠い。
そんな風景を破るように、元気すぎる声が飛んできた。
「おーい阿諛ちゃん! とうとう来たね」
山椒漁師のみつちが、両手を大きく振りながら走ってくる。
彼女は旅に旅を重ね、理想の“イイ男”を探し、かはそに朝を放浪した女だ。
結局見つからなかったらしく、
「もうええ、阿諛がおる。今日からアンタが弟分や!」
と、勝手に宣言してきた。
匪躬はその横で腕を組み、眉間に深いしわを寄せた。
「おたからに……自称・姉……???」
「なにさ匪躬? 文句あるなら言ってみな! アンタはどーせ不在ばっかだろ、弟分は私が鍛える」
どうやらこの瞬間から、阿諛・門客・みつち・匪躬という奇妙な共同生活が始まったらしい。
匪躬はといえば、肉体も戦術も戦略も、全方面で蒿雀氏から鍛え直される日々。
家に帰れる日はほとんどなく、門客が家事を回し、みつちが炊事と弟分の世話を焼く方が、むしろ匪躬にとっても都合がよかった。
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やがて阿諛には、蒿雀氏から“衛生兵”としての役目が与えられた。
戦闘には向かない。本人も重々わかっている。
それでも、医女となっていた匪躬の元妻女と、その再婚相手の軍医の屋敷に通い詰めるうち、木こり夫妻の遺児兄妹ーーカンカとタマリスとも自然と交流ができた。
匪躬は気まずさから、遺児たちと距離を置いてしまう。
だが兄妹は、結果的に匪躬に拾われたことで、生存が保証されたようなものだった。
兄のカンカは、養父である軍医の背に追いつくべく、日々研鑽を積み、
「平和になったら、両属地へ帰りたい」とまっすぐに言った。
妹のタマリスはというと、蒿雀氏の生活にすっかり馴染み、両属地の記憶も薄い。
亜久里の熱烈なファンで、
「いつか……亜久里さまに、お仕えしたいの……!」
と、阿諛にだけそっと打ち明ける姿が、あまりにも可愛らしい。
そんな日々の中、出兵の刻限は着実に迫っていた。
匪躬は将軍、阿諛は衛生兵、みつちは炊事係。
カンカは養父にくっついて軍医見習いとして同行し、門客と養母娘は血盥渓谷で留守を守る。
壮行会では、亜久里が凛とした演説を放ち、会場を圧倒した。
観衆の中には、阿諛とタマリスの姿もあった。
阿諛の隣でタマリスが、
「キャー、いま亜久里さまと目が合った! 手を振ってくださった! ひえぇっ……!」
と震えているのが、とんでもなく微笑ましかった。
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――そして、出発三日前。
阿諛は突然、蒿雀氏の領主から呼び出された。
「……天媛からの命だ。阿諛、そなたにこの河鹿(かじか)を同行させよと仰せであった。理由? ……知らん」
領主の横に立っていた少女は、涼しげな瞳で一礼した。
齢十七歳ほど、筋肉質で隙のない立ち姿。
「私は蒿雀氏の者ではない。他武門から派遣された、お目付役だ。
阿諛、お前の行動を逐一観察し、生きて戻れたなら天媛へ報告する」
「監視役……? 河鹿も衛生兵?」
河鹿は一瞬だけ目線をそらし、淡々と言った。
「お前が知る必要はない。安心しろ、必要以上に干渉はせぬ。
ただーー任務なのでな」
その声音は冷ややかだが、不思議と敵意はなかった。
新たな同行者。
不可解な命令。
そして三日後には両属地へ。
阿諛の胸に、静かに緊張が満ちていくのだった。
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