B-Ambitious

鉄紺忍者

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【第1章 箱根駅伝、5区山登りを攻略しろ!】

③ その日は突然やってきた

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気づくと、空はすっかり朝の色に変わっていた。遠くに見える芦ノ湖畔の水面に、朝日がゆらゆらと反射している。

ダウンジョグを終え、駐車場の空きスペースに戻ってきた。縮んだ筋肉たちをストレッチで元通りに伸ばしていく。

冷たい空気で満たされていた肺は温まり、もちろん手袋などとっくに外していた。山肌にはまだぼんやりと霧がかかっているが、それも次第に消えるだろう。

不意に、後ろから声が飛んできた。

「神坂。登りってのはな、やせ我慢しちゃいけねえんだ」

沼さんの突然の説教口調に、思わず手が止まる。普段はムッツリ石像なのに、山のことになると急に饒舌なんだ、この人は。

「……はい?」
「今日、初めてお前の登りをちゃんと見た。アレは最悪だぞ」

言いながら、沼さんは両手と左足で金網に寄りかかって、右脚のヒラメ筋を伸ばしている。

「アレ、ってなんすか」
「傾斜がキツくなるところで、ペース上げただろう? 坂と戦っているようじゃ、まだまだ」

颯が前に出たとき、後ろでそんなことを思っていたのか。そういえば、下がってろ、ってジェスチャーされた気がする。

「本格的な登りが始まったら、山は、意地を張った奴から潰してくる。まずはペースが落ちている自分っていうのを、受け入れなきゃ」

なんだよ。自分が勝ったからって、上から目線でライバルにアドバイスかい。そう思ったら、腹が立ってきた。

「俺の次はお前が走るんだからな、頼んだぞ」

一瞬、何を言われたのかわからなかった。

「……え? 次って」
「なに驚いてんの。一年のうちからウチの5区を走ろうなんて、虫がよすぎるって話さ」

(……ふざけんな)

「俺、走るつもりですけど」

怒りを押し殺して、息が詰まる。

沼さんは、口角をほんの少しだけ持ち上げて、静かに笑った。

「ま、そういうことだ」

それだけ言い残すと、一人で車のほうへ戻っていった。

むこうは最初からライバルだなんて思っていなかったわけだ。

心の中で何度も繰り返した。

(……俺が走ってやる)

その後、宿舎に戻る車の中は、何とも言えない空気に包まれていた。

沼さんはグースカ寝ているし、颯は唇を噛み締めてイライラしているが、同時に山練習のおかげでグロッキー状態でもある。

運転席の三郎コーチのほうが気を遣って、視界に入ったものについてとりあえず話をする。けど、内容はほとんど頭に残っていない。

そういえば、仙石原せんごくはらのラリック美術館前の信号で止まったときも、三郎コーチが何か言っていた気がする。

「ラリックって人の作品でさ、風の精霊・シルフィードをガラスで表現したものがあるんだって。すごいよね」
「はぁ……、そうなんですか」

誰にもキャッチされない、それこそガラス細工みたいに透明な配慮が宙に浮かんだまま、車はまた発進した。

本当はそれ、何か陸上に関係ある話だったらしいんだけど。よく覚えていない。正直、こんなときに芸術の話をされても、眠気が増すだけだった。



「ここは四年間、俺の庭になるんだ」

合宿所の窓から見える本番のコースを見下ろしては、自分に言い聞かせ、奮い立たせた。

その後も、週末限定の山籠り生活は、淡々と積み重ねられていった。

十二月後半に入り、箱根駅伝まであと二週間となった頃。

黄水晶シトリン大学の箱根駅伝16名のエントリーメンバーは、もうすでに発表された。

ぬま信之介しんのすけ神坂こうさかはやて。どちらの名前も入っていた。

あとは二十九日、5区にどちらの名前が正式に登録されるか。

(いつでもいけるぞ、俺は)

そうは言っても、沼さんに勝てた日は結局一度もなかった。

むしろ、途中まで食らいつけるようになったぶん、余計にあの人の凄さがわかって、足がすくむこともあった。

気温が日に日に下がる中、同じ背中を見ながら、同じ坂を走った。そして、負け続けた。

けれどあの日、壊れたファスナーを握りしめたときの熱量。それだけは胸の奥で消えはしなかった。

最近なぜか、三郎コーチは颯たちと話さなくなった。代わりに、何かぶつぶつと独り言を言うことが増えていた。

ある日の夜。夕食を終えて廊下を通ると、半開きのふすまの向こうから声がかかった。

「神坂。ちょっと来てくれるか」

三郎コーチからの呼び出し。どんな用件か、思い当たる節はあった。

和室に入ると、すでに沼さんが座布団の上で正座している。

当たりだ。颯も隣に座る。

正面の三郎コーチは、湯呑みの湯気をじっと見つめていた。

部屋の空気が、ぴたりと止まった。

「……決めた。沼でいく」

前置きも説明もない。一言目は、ただそれだけだった。

重たいものが、胸の奥にどすんと落ちた。

言葉は出なかった。いや、出そうとしていたのかどうかも、わからない。

というか、「決めた」って……。

颯は、この三郎コーチにそんな決定権があるなんて知らなかった。そりゃ、練習内容とかは、石堂監督に報告していただろうけど。

どうやら5区だけは、いつも間近で見ている三郎コーチに任されていたらしい。

最近の独り言も、きっとそのせいだったのだ。

ふと左隣を見る。

沼さんは何も言わない。ただ、じっと動かずにいた。

「……はい」

かろうじて、それだけ言った。

息をしているかどうかも怪しい。喜びを噛み締めているのか、意外に険しい顔をしていた。

「……俺は、どうなるんですか」

それは、自分でも驚くほどかすれた声だった。

三郎コーチは湯呑みを一度持ち上げていたが、また置いた。

「そう。当日は、小田原中継所で……、沼の付き添いをやってもらう」

受け入れたくなかった。この際、5区じゃなくてもいい。どこでもいい。とにかく走りたい。

山登りにあれほどこだわっていた颯の口から、たまらず遮るように言葉が出た。

「たとえば、他の区間が不調とかで……」
「いや。それなら別の選手を使うって、監督が言っている」

暴れ馬をなだめるみたいに、三郎コーチは左右の手のひらをこちらに向けて制した。

「正直に言う。キミの平地の走力は、16人からあぶれた選手よりも、さらに下だ。山以外では、とてもじゃないけど使えない。つまり神坂は、5区を走るか、箱根を走らないか。そのどちらかしかない」

やけに整った言葉だった。

あらかじめ用意されていた台本のように、身振り手振りを交えて、澄んだ音で響いた。

多分、本当にそうなのだろう。

この人が監督から言われた言葉も、きっとそこに含まれていると思った。

夢に穴ぼこが空いた音がした。

5区を走れない。箱根駅伝を走れない。

座布団の縁をつねりながら、あらゆる感情を噛み殺した。

沼さんは、横でずっと黙っていた。ガッツポーズも何もない。正座したまま、ただ正面を見ている。

心の奥で、声を枯らした。

(ほら、アンタの言った通りになったじゃないか。これみよがしに笑ってくれてもいいじゃないか。俺のことなんか見えていないみたいに、黙るなよ。置いていかないでくれよ)

しばらく誰も喋らなかった。やがて三郎コーチが低く言葉を落とす。

「うん。神坂も、よく一年目でここまで頑張ったと思うよ。正直、二人を任されたとき、ここまで悩むと思わなかった。普通は誰がどう見ても、沼で決定なんだよ。けど——」

颯は、うつむきかけた顔を、ギリギリ持ち上げた。

「僕が悩まされたのは、君の練習姿勢なんだよ。練習であれだけ出し切れる選手はなかなかいない。千鳥足で、この世の終わりみたいな顔で帰ってくるのに、次の日にはケロッとした顔で練習に現れる。しかも、毎週どんどんタイムが縮まる。ほら、特に最近なんか良い勝負だったよね。はぁ。実は、君の諦めない顔を見るのが毎朝憂鬱だったんだ。これ以上悩ませないでくれ、って」

思ってもみなかった。ただがむしゃらに走っていただけだった。それが誰かを悩ませていたなんて。

(沼さんには、どう見えていたのだろうか?)

「だからこそ、あと一年、しっかり準備させたいと思ったんだ」

返事はできなかった。

わかりました、とはどうしても言えない。ありがとうございます、も違う。何を言えばよかったのか、わからない。

颯はきっと今、自分がたとえどんなに褒められようとも、本当に欲しいもの以外何も呑み込めない気がした。

「そして、沼。君ならわかっていると思うが、走るだけじゃ駄目だよ。しっかりと神坂に——」
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