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【第1章 箱根駅伝、5区山登りを攻略しろ!】
④ 生きた証
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布団に入ってからも、なかなか寝つけなかった。「走りたい」だけじゃ、走れない。それが、箱根駅伝だ。
灯りを消した天井の向こうで、どこかの部屋のストーブが唸る音だけが、かすかに聞こえていた。
(仕方ない)
沼さんは自分より強い。それはわかっていた。本気で勝とうとして、それでも勝てなかった。
全部、受け止めたつもりだった。
なのに、どうして。
どうして、こんなふうに思ってしまうんだ。
(沼さん、怪我でもしてくれたら……)
すぐに頭を振った。
でも、その思いは脳裏からなかなか消えなかった。
浮かんだこと自体が情けなかった。そんな自分に腹が立った。
布団の中で胎児みたいに丸まって、泣いた。拳を握りしめる。
まだ、誰にも見せられない自分がいた。
すげえよ、沼さん。
三回もこんな思いを抱えていたんだ。
(こんなの、一回でも折れちまいそうだ……)
◇
翌日から颯は、沼さんの最終調整を手伝う練習パートナーとなった。
今までと変わらないとも言えるけれど、ペースメーカーとか標的役とか、競い合う以外の役回りを引き受けるようになった。
「次はお前が走るんだぞ」
沼さんは、事あるごとにそう言った。
冗談めかしているようで、その声はいつもどこか血走っていた。
「俺のコース研究の全てを、颯に伝授する」
決まったから言うわけじゃない。前から言おうと思っていた。けど、どう言っていいかわからなかった。
そう前置きしながら、沼さんは、風に飛ばされていく落ち葉をじっと見つめていた。
「これだけやってきて、チームに残せるのが5区の結果だけじゃ、なんかむなしいだろ」
「5区の結果は、もう残せる前提なんですね」
「残すさ」
二人は顔を見合わせた。
山に来て初めてかもしれない。お互いが一緒に笑ったのは。
それまでの関係は、どちらかが笑えば、どちらかが顔をしかめていたから。
「俺がやってきたことなんて、誰もカメラに収めちゃいない。ネットにも出てこない。AI様に聞いたって、俺のことなんて知らないって答えるだろうよ」
沼さんは、ふっと笑った。
「けどな。お前だけは、そばで見てきただろう? 俺がこの山にかけた想いを。俺が生きた証を」
この日から颯は、5区の攻略法を伝授されることになった。
◇
箱根駅伝、当日。
神坂颯の姿は、箱根山の頂上付近へ向かって移動する車の後部座席にあった。
毎度のことながら、三郎コーチの運転はまるで教科書をなぞるように丁寧で、こんな山道なのに揺れが少ない。
だからこそ、余計に眠くなる。
(危ない危ない、寝ちゃダメだ)
我らが黄水晶大学は、4区終了時点、小田原中継所を16位でタスキリレーした。
チームの目標は10位。この順位は、非常に大きな意味を持つ。
10位と11位は、「天国と地獄」とまで言われている。
10位以内に与えられるシード権を獲得すれば、来年の出場権が確約される。
逆にシードを落とすと、翌年度は十月の予選にも、一月の本戦にも調子を合わせなければならない。つまり、チームのスケジュールが丸っきり変わってしまうのだ。
「ヌマシン、函嶺洞門では区間3番だったのに、登りに入った途端7番になったぞ。大丈夫なのか?」
助手席の御幸(みゆき)マネージャーが、眉間にシワを寄せ、メガネ越しの鋭利な視線をスマホの画面に注いでいる。
そう。沼さんの走りは、オーバーペースだと思われても仕方がない。
序盤3キロの平坦なエリアで二人を抜き、一気に14位へ上がったとわかった際、車内は大いに沸いた。
だが、7キロの大平台の速報では、全体7番目のペースにまで落ちていた。
颯は大きく頷く。
沼さんの言葉を信じているからだ。
『登りってのはな、やせ我慢しちゃいけねえんだ』
ペースが落ちる自分を受け入れる。
それが、山を攻略するメンタルなんだ。
「きっとこれ、沼さんのプラン通りですよ」
「そうなのか?」
多分、区間上位にいる何名かは、無理をしている。
本番で舞い上がっている者、起死回生を狙ってイチかバチかで突っ込んでいる者、色々混じっている。
あるいは、格上の選手と並走状態になり、自身の実力以上のペースで走らされているケースもある。
周りが上下しているだけ。沼さんはいつもどおりだ。
テレビ中継には、14位のチームはほとんど映らない。次の定点カメラがあるチェックポイントまで待つしかない。
けれど颯は、速報画面上で踊っている『沼信之介』の文字を見ているだけで、不思議と胸が熱くなった。
見えない勇姿に思いを馳せる。
賭けてもいい。沼さんは今、タスキを受け取った時と格好が変わっているはずだ。
4キロの塔ノ沢の温泉郷近くまで来ると、空気が急激に冷え込み始める。沼さんはいつも、それを合図にするかのように、肘までクシャクシャに捲っておいたアームウォーマーを手首まで下ろす。
あれはきっと、「山を受け入れる」スイッチなのだ。
その場のテンションじゃない。
ペース配分から装備の管理まで、緻密に組み立てられている。どこで体温を守り、どこでリズムを変えるか。
あの人は箱根を知り尽くしている。
そういえば、9・2キロの宮ノ下では、通過する選手の名前を呼んで、大合唱の応援があるのだと言っていた。
(ぬーまッ、チャチャチャ。ぬーまッ、チャチャチャ)
駅伝って、たとえ違うチームの旗を掲げている人でも、結構分け隔てなく応援してくれる文化がある。
知り合いでも親戚でもない人がほとんどなのに。今日知ったばかりの若者の名前を大声で叫ぶのだ。これは凄いことだと思う。
(いいよな。俺も早くそんな中で走ってみたい)
できれば生で見たかった。
人混みを縫うように急坂を駆け上がる、沼さんの集大成を。
そうだ、急坂で思い出した。
「沼さんの走り方って、なんか紙相撲の人形みたいじゃないですか」
「え? 何それ」
「苦しくなると、脇が締まってきて、坂道を張り手みたいに押し進んでいくんです。走るっていうか、移動しているって感じで」
「ははっ。まあ、確かに変わっているよな」
御幸さんはそう言いながら笑ったが、どこか悔しそうな顔もしていた。
「同期の俺より、お前のほうが詳しいかもな」
もちろんだ。
短期集中ではあるけど、颯はずっと沼さんだけを見てきたのだから。
「映った、映った!」
御幸さんが「のこった、のこった」みたいな言い方で、突然大声になった。
小涌園前の定点カメラに、沼さんが小さく姿を現したのだ。
クレーンカメラからコースを見下ろした画角で、両岸を大観衆に挟まれて、沼さんが走ってくる。このあたりは付近の宿泊客もいて、声援が特に大きい。
顔はすでに苦しそうだが、手足の動きはキレッキレ。肩がロックされ、腕が大きく揺れている。
大丈夫だ、まだ行ける。
『続いて通過していくのは、シトリン大学の沼信之介です。ここまで二つ順位を押し上げています』
黙ってその姿を見つめる。心の奥に、じんと熱いものがにじんだ。
この人は、四年間、何百回、何千回とこのコースで走る自分を思い描いてきたんだ。
たとえ一瞬しか映らなくても、颯がちゃんと知っている。
「頑張れ……沼さん」
颯は、小さく笑った。
(だよな)
やはり沼さんの腕は、手首まできちんと覆われていた。
灯りを消した天井の向こうで、どこかの部屋のストーブが唸る音だけが、かすかに聞こえていた。
(仕方ない)
沼さんは自分より強い。それはわかっていた。本気で勝とうとして、それでも勝てなかった。
全部、受け止めたつもりだった。
なのに、どうして。
どうして、こんなふうに思ってしまうんだ。
(沼さん、怪我でもしてくれたら……)
すぐに頭を振った。
でも、その思いは脳裏からなかなか消えなかった。
浮かんだこと自体が情けなかった。そんな自分に腹が立った。
布団の中で胎児みたいに丸まって、泣いた。拳を握りしめる。
まだ、誰にも見せられない自分がいた。
すげえよ、沼さん。
三回もこんな思いを抱えていたんだ。
(こんなの、一回でも折れちまいそうだ……)
◇
翌日から颯は、沼さんの最終調整を手伝う練習パートナーとなった。
今までと変わらないとも言えるけれど、ペースメーカーとか標的役とか、競い合う以外の役回りを引き受けるようになった。
「次はお前が走るんだぞ」
沼さんは、事あるごとにそう言った。
冗談めかしているようで、その声はいつもどこか血走っていた。
「俺のコース研究の全てを、颯に伝授する」
決まったから言うわけじゃない。前から言おうと思っていた。けど、どう言っていいかわからなかった。
そう前置きしながら、沼さんは、風に飛ばされていく落ち葉をじっと見つめていた。
「これだけやってきて、チームに残せるのが5区の結果だけじゃ、なんかむなしいだろ」
「5区の結果は、もう残せる前提なんですね」
「残すさ」
二人は顔を見合わせた。
山に来て初めてかもしれない。お互いが一緒に笑ったのは。
それまでの関係は、どちらかが笑えば、どちらかが顔をしかめていたから。
「俺がやってきたことなんて、誰もカメラに収めちゃいない。ネットにも出てこない。AI様に聞いたって、俺のことなんて知らないって答えるだろうよ」
沼さんは、ふっと笑った。
「けどな。お前だけは、そばで見てきただろう? 俺がこの山にかけた想いを。俺が生きた証を」
この日から颯は、5区の攻略法を伝授されることになった。
◇
箱根駅伝、当日。
神坂颯の姿は、箱根山の頂上付近へ向かって移動する車の後部座席にあった。
毎度のことながら、三郎コーチの運転はまるで教科書をなぞるように丁寧で、こんな山道なのに揺れが少ない。
だからこそ、余計に眠くなる。
(危ない危ない、寝ちゃダメだ)
我らが黄水晶大学は、4区終了時点、小田原中継所を16位でタスキリレーした。
チームの目標は10位。この順位は、非常に大きな意味を持つ。
10位と11位は、「天国と地獄」とまで言われている。
10位以内に与えられるシード権を獲得すれば、来年の出場権が確約される。
逆にシードを落とすと、翌年度は十月の予選にも、一月の本戦にも調子を合わせなければならない。つまり、チームのスケジュールが丸っきり変わってしまうのだ。
「ヌマシン、函嶺洞門では区間3番だったのに、登りに入った途端7番になったぞ。大丈夫なのか?」
助手席の御幸(みゆき)マネージャーが、眉間にシワを寄せ、メガネ越しの鋭利な視線をスマホの画面に注いでいる。
そう。沼さんの走りは、オーバーペースだと思われても仕方がない。
序盤3キロの平坦なエリアで二人を抜き、一気に14位へ上がったとわかった際、車内は大いに沸いた。
だが、7キロの大平台の速報では、全体7番目のペースにまで落ちていた。
颯は大きく頷く。
沼さんの言葉を信じているからだ。
『登りってのはな、やせ我慢しちゃいけねえんだ』
ペースが落ちる自分を受け入れる。
それが、山を攻略するメンタルなんだ。
「きっとこれ、沼さんのプラン通りですよ」
「そうなのか?」
多分、区間上位にいる何名かは、無理をしている。
本番で舞い上がっている者、起死回生を狙ってイチかバチかで突っ込んでいる者、色々混じっている。
あるいは、格上の選手と並走状態になり、自身の実力以上のペースで走らされているケースもある。
周りが上下しているだけ。沼さんはいつもどおりだ。
テレビ中継には、14位のチームはほとんど映らない。次の定点カメラがあるチェックポイントまで待つしかない。
けれど颯は、速報画面上で踊っている『沼信之介』の文字を見ているだけで、不思議と胸が熱くなった。
見えない勇姿に思いを馳せる。
賭けてもいい。沼さんは今、タスキを受け取った時と格好が変わっているはずだ。
4キロの塔ノ沢の温泉郷近くまで来ると、空気が急激に冷え込み始める。沼さんはいつも、それを合図にするかのように、肘までクシャクシャに捲っておいたアームウォーマーを手首まで下ろす。
あれはきっと、「山を受け入れる」スイッチなのだ。
その場のテンションじゃない。
ペース配分から装備の管理まで、緻密に組み立てられている。どこで体温を守り、どこでリズムを変えるか。
あの人は箱根を知り尽くしている。
そういえば、9・2キロの宮ノ下では、通過する選手の名前を呼んで、大合唱の応援があるのだと言っていた。
(ぬーまッ、チャチャチャ。ぬーまッ、チャチャチャ)
駅伝って、たとえ違うチームの旗を掲げている人でも、結構分け隔てなく応援してくれる文化がある。
知り合いでも親戚でもない人がほとんどなのに。今日知ったばかりの若者の名前を大声で叫ぶのだ。これは凄いことだと思う。
(いいよな。俺も早くそんな中で走ってみたい)
できれば生で見たかった。
人混みを縫うように急坂を駆け上がる、沼さんの集大成を。
そうだ、急坂で思い出した。
「沼さんの走り方って、なんか紙相撲の人形みたいじゃないですか」
「え? 何それ」
「苦しくなると、脇が締まってきて、坂道を張り手みたいに押し進んでいくんです。走るっていうか、移動しているって感じで」
「ははっ。まあ、確かに変わっているよな」
御幸さんはそう言いながら笑ったが、どこか悔しそうな顔もしていた。
「同期の俺より、お前のほうが詳しいかもな」
もちろんだ。
短期集中ではあるけど、颯はずっと沼さんだけを見てきたのだから。
「映った、映った!」
御幸さんが「のこった、のこった」みたいな言い方で、突然大声になった。
小涌園前の定点カメラに、沼さんが小さく姿を現したのだ。
クレーンカメラからコースを見下ろした画角で、両岸を大観衆に挟まれて、沼さんが走ってくる。このあたりは付近の宿泊客もいて、声援が特に大きい。
顔はすでに苦しそうだが、手足の動きはキレッキレ。肩がロックされ、腕が大きく揺れている。
大丈夫だ、まだ行ける。
『続いて通過していくのは、シトリン大学の沼信之介です。ここまで二つ順位を押し上げています』
黙ってその姿を見つめる。心の奥に、じんと熱いものがにじんだ。
この人は、四年間、何百回、何千回とこのコースで走る自分を思い描いてきたんだ。
たとえ一瞬しか映らなくても、颯がちゃんと知っている。
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