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3 この熱の向かう先
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きっと夢を見ていた。
「行かないで……」
そう叫び、何かに向かって手を伸ばす小さな手。
何に向かってそう叫ぶのか……
心の叫びが体を支配するように胸が痛い。
何を求めているのか、何を失う事を恐れているのか、それすらも朧げなのに胸苦しさに嗚咽が込み上げる。
夢なのに皮肉に自嘲するもう一人の自分がいる。
---何を追うの?
失うほどの大切なものすら、持って無いじゃない。
(そうだけど……)
-----馬鹿みたい。
見苦しい真似はやめなさいよ。
一人で生きていくしかないのよ。
(いや……)
---もう誰も戻ってなんてこない。
本当は分かってるんでしょう?
人に代わり何ていない。
(そう…… そうだけど、それでも私には、どうしても失いたくないものがあるから……)
---ふうん、それはなに?
揶揄う様な冷えた笑いが私を試す。
(それは…… それは…… )
私は言い澱む。
(赤ちゃん……そう、赤ちゃんが欲しいのよ。代わりなんかじゃない……。私が大切にするの)
その声は、そんな私を蔑むように笑い声と共にこだまする言葉。
嘘つき…… 嘘つき…… 嘘つき……
眉を寄せてその言葉を懸命に遮る。
(嘘じゃない! 嘘じゃない……。嘘なんかじゃないから……)
「やめて、もうやめてよ~!!」
そう叫んだ時、幻が見えた。
頰を優しく叩く感触。
暖かくて大きな手…。
(翔真さん……?)
視線の先には酷く狼狽えた様子の翔真さん。
「麻衣子?…大丈夫か? 一体何やってんだよ?酔ってんのか?無茶な飲み方しやがって…」
そう言って、畳に無造作に転がるワイングラスを拾い上げて仏壇の前のローテーブルにそれを戻す翔真さん。
「なっ……」
その瞬間、開いたままになっている私のパソコンを見つめて目を見開いて固まっている翔真さん。
それを不自然に思いながらも私はその横顔を見つめていた。
(来てくれた……?)
そのまま流れる沈黙。
(---これは夢の続き?)
それとも私が見たい現実だろうか。
そう思った瞬間、自分の思いが、本来の目的とは乖離してしまった現実に気付いて涙が溢れそうになった。
(こんなはずじゃなかった……。こんなはずじゃ……)
私のパソコンを見つめて、何故か顔を歪めて静止していた翔真さんは、次の瞬間険しい顔で私をみつめた。
「これ、…何だよ」
そう不機嫌に歪められた顔。
「翔真さん……?」
その意味が分からなかった。
この事実に困惑していた。
(なんで来てくれたの…?)
「何だよ?」
ちょっと怒ったような顔。
それでもここにいる。
今確かにいてくれる。
その事実に鼻がツンとなった。
「……もう、来てくれないかと思った。」
弱さが自然と言葉になる。
「何だよ、ちゃんと待ってろって言っただろが……、話があるからって…」
そう眉に皺を寄せる翔真さん。
そして悟る。
(ああ、そっか…そうだね…)
これから告げられるんだった。
引き受けたからには、筋はちゃんと通す人なんだ。
…きっと《もう終わりにしよう》そう告げられるんだ。
翔真さんの身体からは、今日もほんのりと香水の香りが漂う。
前に感じたのと同じ香り。
それが、不特定の人ではなく、一人の女性のものであることを明らかに認めるしかない…
きっと翔真さんが大切にしてる人。
誰かに大切にされている人。
翔真さんの温もりを知っている人。
何故か胸が酷く痛んだ。
ポロリと自分でも予想外の涙が溢れて眉を寄せる。
(ダメだ…。)
その様子に目を見開いた翔真さんは真剣な顔で私を覗き込んだ。
「麻衣子……? 何だ? どうしたってんだ? 何か言いたい事があるんなら言ってみろよ?」
そう問われた。
言いたいこと…。
欲しいもの…。
失くしたくないもの…。
泣きたくなった私は、翔真さんの肩にギュッと爪を立てて、一つだけ強請った。
もう、私にはこれしかないから。
「……せっ、精子をください!!」
その言葉に翔真さんは再び目を見開き複雑に顔を歪め
た。
「ほんとお前って奴はよ…」
顔を歪めて呆れたような翔真さん。
何故かもう一度、私のパソコンを見つめて苦々しい表情をした翔真さんは私に向き合った。
「なぁ、麻衣子…」
私をみつめる薄褐色の瞳。
やっぱり、もうこんな生活限界だって……
そう思っているのだろうか。
お付き合いしている人に知れてしまって、止めざるを得ない状態になっているのかもしれない。
「………………」
続きを聞くのが怖かった。
どれくらいそうしていただろう。
涙目でみつめる私の瞳を捕らえたまま、翔真さんは、迷うように少し息を吐き口を開いた。
その瞬間、吐息と共に小さなボヤキのような声聞こえたのは気のせいだろうか。
「ちっ、こんなもん物色しやがって…」
そう聞こえただろうか…。
酷く温度の無い声と共に睨みつける翔真さん。
こんな調子の翔真さんは初めてだ。
「……お前が欲しいのは、誰の精子だ?」
「は…?」
「だ・か・ら、麻衣子さんが欲しいのは、この俺様の金の精子ですか?それともこいつらの普通の精子ですか?って聞いてるんだよ?」
その問いかけに私は、目を見開いた。
(そんなの決まってる…、でも…)
私は、顔を歪めた。
翔真さんの精子が欲しい。
それでも、この状況は…。
「これ、普通なら、普通の精子選んだら、幸せになれるやつですよね…?」
そう警戒する私。
「ま…まぁ、普通ならな…」
そうちょっとシマッタって顔を取り繕えていない翔真さん。
でも、私は泣きそうになった。
この時、目を背けてきた不毛な気持ちを突きつけられたのだ。
もう、代わりになる人を探すと言う選択肢すら失っていたのはいつからだろう。
その理由ももう分かっている。
「言えよ………」
そう翔真さんは、真っ直ぐに私を見つめた。
その有無を言わせない目力はやはり今までの翔真さんにはないものだった。
「なぁ、麻衣、言えよ………」
その真剣な目から目を離せない私はただ固まっていた。
「もし………、誰の精子でもいいってお前が言うんだったら、俺は今日で降りる。」
その言葉に突き放されたような心細さと絶望を感じた。
「……翔真さん」
繋ぎとめようと懸命に目の前にいる男の名を口にした。
「………、麻衣子、でも、もしも、もしもお前が、他の誰でもなく俺の子供が欲しいっていうんだったら、それが、どんな理由だって俺はもう構わない。」
翔真さんのその言葉の意味が咄嗟に分からなかった。
「………翔真さん?何を?」
そう呆然としていた私は次の瞬間、唇を翔真さんの唇で塞がれて固まった。
(なに…これ?)
パチパチと目を瞬かせて翔真さんを見上げる。
意味が分からなかった。
(今のは、キス?)
でも、そうは思えないほど翔真さんの顔は険しい。
「もし俺の子供が欲しいって言うんだったら麻衣子、このままぶち込む、…そうじゃないなら今拒め」
そう言って、ジッと見つめられる。
(ぶっ……!? い、今、なんと言われましたでしょうか…?)
キスに続く驚きでケヒョケヒョとせき込んだ。
だが、容赦しない薄褐色の瞳は私を睨みつけたままだった。
「……拒んだら、そこで終わりだ麻衣子。よく考えて、今すぐ答えをだせ!!」
(へ……? それ、よく考えるって言うんですか??)
この現実が恋愛経験&人工授精経験ゼロの私には全くもって分からない。
だから、恐る恐る、眉を寄せて問い返した。
「拒まなかったら……?ほんとうに…?」
「くどいぞ、直接注ぐまでだ!その方が効率がいいだろう?」
(効率……?)
確かに……
そう目から鱗が落ちたように納得した。
今までの失敗は私が下手だったかもしれない……。
もしも、これが最期のチャンスならば………。
その時、私の心はあってはならない欲に流されそうになった。
決して誰とも直接交渉を持とうなんて考えてはいなかったのに……。
でも、もしもその相手が翔真さんなら……
私が感じていた抵抗など一部も無かった。
でも、それとは別に確かな恐れがあった。
(そんなことが、許されるのだろうか……)
それでは、私は翔真さんを……
縛り付けてしまうかもしれない。
本来、翔真さんが感じる必要すらなかった罪悪感のような消えないなにかを背負わせてしまう事にはならないだろうか。
そう考えた時、やはりそれは許されないと思った。
翔真さんには翔真さんの大切にしければならない世界が存在するはずだから。
「そういう訳だからよ、麻衣子、……俺の精子が欲しいなら相応の覚悟がいるぞ」
そう言って挑むように翔真さんは唇の端を挙げた。
見たことのない、妖艶な笑み。
(お金……ですか??金の精子だから…?)
当初、提示した精子譲渡のお礼としての金額は拒否されていた。
その代わり、子供がもし父親に会いたいと言ったら連れてこいと……
そんな、私にだけ都合がいい理由で引き受けてくれたのが始まりだった。
でも、それでは割に合わないくらいの精神的苦痛を与えていたとしてももはや否定できない。
でも次の瞬間、少しだけ頬を緩めて、困ったように紡ぎだされた言葉を私は咄嗟に理解できなかった。
「出来た子供は、…俺のもんだからな」
その言葉に目を見開いた次の瞬間、更に予期せぬ言葉を聞いた。
「まぁ、俺も鬼じゃねえから、母子共にだけどな…」
そう言って、小さく笑う翔真さん。
でもその笑顔にはいつもの余裕が感じられなくて、どこか引き攣り笑いのように見えて……
身体中に困惑が駆け巡った。
------これは本気?
------それとも、同情??
そう思い、冷静に考えるならば後者だと悟る。
それならば、こんな提案に甘えてしまう訳にはいかない。
「翔真さん……、なんで?」
そう聞くのが精一杯だった。
「あー、そりゃあ、まぁ…なんだ? 俺もよ、そこまで高尚な気持ちで人助けできなかったってことだな…」
「人助け……ですか?」
思っても見ない事を言われて素っ頓狂な声を上げた。
「まぁ、結局、俺は口程にもない我儘な男だったってこった…」
そう言って、悪戯が見つかった子供のように気まずそうな顔をして後頭部を掻く翔真さん。
「我儘…?」
意味が判らない。
そんな私から、目を逸らすようにして、言葉を続ける翔真さん。
「あぁ、……俺のもんは、やっぱり俺のもんだろ?…ついでに、お前のもんも俺のもんだ!?」
「へ………?」
それって、某国民的アニメに出てくるあれですよね……??
戸惑う私に、開き直ったように真っすぐに向き合う翔真さん。
対して、私は現状も掴めず、呆然自失の状態だ。
「……と言うわけだ」
「どういう……訳ですか?」
ジッと見つめられる。
大きな手が私の肩を掴んで、上から私を見下ろす。
そして、一変したように、熱を帯びた真剣な顔で私に命じるように告げた。
「拒めよ……、麻衣子、俺がいらねえんなら、拒んじまえよ。…まだ俺の理性があるうちにな」
そんな言葉とは裏腹に、そのままギュッと抱きしめられた肩は、もはや逃げる隙すらも与えられない程に強く抱きしめられていた。
「翔真さん……?」
意味が分からなかった。
何故、こんな事になっているのか。
身体が震える。
でも、それ以上に心が震えた。
(欲しいって思ってくれたのだろうか…。私と、2人に授かるかも知れない子供を…?)
こんな時でも気の利いたことの一つも言えない私は、自らの思いをそのまま縋り付くような大きな声で伝えた。
「く、下さい! 翔真さんの精子!」
その言葉に私を抱きしめる翔真さんの肩がピクリと震えた。
その瞬間二ッと悪い笑みを浮かべた翔真さんに再び唇を塞がれた。
そして、下腹部に固くて熱いなにかをハッキリと感じて目を見開いた。
だけど、次の瞬間耳元で囁かれた声は、今までに聞いたことのない程優しい声だった。
「言ったな……。麻衣子、今更訂正しても、もう遅いからな。」
そう言って軽く耳を食まれた。
「ひゃ!!」
背中に一気に痺れが走る。
(な……なに、これ……?)
戸惑う私を可笑しそうに、目を細めて笑った翔真さん。
「いいか、共同責任だからな……」
そう言って頰を両手で包むようにして再び、優しく口づけられて深く深く舌を絡ませる。
違いの口から水音が響き、身体と心が蕩ける。
(嘘………)
突然の現実に付いていけない。
口内の至るところを優しくしたでなぞられて腰が砕けそうになる。
キスの威力の凄まじさに恍惚としていると、フッと優しい瞳と瞳が合わさった。
「鼻で息しろよ……、お前真っ赤」
そう言って、頭を撫でられる。
甘やかされる心地良さは知っているつもりだった。
随分それに飢えていたことも自覚してきた。
でも、今、翔真さんから与えられている心地良さは、心地良さでも今までの人生にない始めてのものだった。
父でも、母でも、兄でもない初めての感覚。
キュンと疼く下腹部がそれを家族に対するものとは違う事を知らしめる。
家族としてではなく、今、私は目の前の翔真さんを欲している。
きっと〝ヒト科メス″としてなのだと自己分析する…。
それは確かなのに、なぜかそこに焦燥感が芽生えて、矛盾した欲望を感じた。
家族だと……
やはり、そう思えるほどに、ずっとずっと近くにいて欲しい。
失いたくない。
……どこにも行ってほしくない。
「好き………」
そう無意識に呟いた言葉に翔真さんは大きく目を見開いた。
暫くの沈黙の後、翔真さんの瞳は優しく細められて、強く抱きしめられた。
「そうかよ……。じゃあ、もう何も心配いらないな、俺に任せろ。」
そう言って、翔真さんに支えられるように私達は畳に倒れこんだ。
その瞬間、仏壇から、兄の写真がカタンと転がり落ちた。
それを手にして苦笑した翔真さんは、気まずそうに笑って言った。
「……大丈夫だよ、心は決まってんだ。きっと幸せにするから、今は目をつぶれ」
そう言って、写真を伏せて私を見下ろした。
「行かないで……」
そう叫び、何かに向かって手を伸ばす小さな手。
何に向かってそう叫ぶのか……
心の叫びが体を支配するように胸が痛い。
何を求めているのか、何を失う事を恐れているのか、それすらも朧げなのに胸苦しさに嗚咽が込み上げる。
夢なのに皮肉に自嘲するもう一人の自分がいる。
---何を追うの?
失うほどの大切なものすら、持って無いじゃない。
(そうだけど……)
-----馬鹿みたい。
見苦しい真似はやめなさいよ。
一人で生きていくしかないのよ。
(いや……)
---もう誰も戻ってなんてこない。
本当は分かってるんでしょう?
人に代わり何ていない。
(そう…… そうだけど、それでも私には、どうしても失いたくないものがあるから……)
---ふうん、それはなに?
揶揄う様な冷えた笑いが私を試す。
(それは…… それは…… )
私は言い澱む。
(赤ちゃん……そう、赤ちゃんが欲しいのよ。代わりなんかじゃない……。私が大切にするの)
その声は、そんな私を蔑むように笑い声と共にこだまする言葉。
嘘つき…… 嘘つき…… 嘘つき……
眉を寄せてその言葉を懸命に遮る。
(嘘じゃない! 嘘じゃない……。嘘なんかじゃないから……)
「やめて、もうやめてよ~!!」
そう叫んだ時、幻が見えた。
頰を優しく叩く感触。
暖かくて大きな手…。
(翔真さん……?)
視線の先には酷く狼狽えた様子の翔真さん。
「麻衣子?…大丈夫か? 一体何やってんだよ?酔ってんのか?無茶な飲み方しやがって…」
そう言って、畳に無造作に転がるワイングラスを拾い上げて仏壇の前のローテーブルにそれを戻す翔真さん。
「なっ……」
その瞬間、開いたままになっている私のパソコンを見つめて目を見開いて固まっている翔真さん。
それを不自然に思いながらも私はその横顔を見つめていた。
(来てくれた……?)
そのまま流れる沈黙。
(---これは夢の続き?)
それとも私が見たい現実だろうか。
そう思った瞬間、自分の思いが、本来の目的とは乖離してしまった現実に気付いて涙が溢れそうになった。
(こんなはずじゃなかった……。こんなはずじゃ……)
私のパソコンを見つめて、何故か顔を歪めて静止していた翔真さんは、次の瞬間険しい顔で私をみつめた。
「これ、…何だよ」
そう不機嫌に歪められた顔。
「翔真さん……?」
その意味が分からなかった。
この事実に困惑していた。
(なんで来てくれたの…?)
「何だよ?」
ちょっと怒ったような顔。
それでもここにいる。
今確かにいてくれる。
その事実に鼻がツンとなった。
「……もう、来てくれないかと思った。」
弱さが自然と言葉になる。
「何だよ、ちゃんと待ってろって言っただろが……、話があるからって…」
そう眉に皺を寄せる翔真さん。
そして悟る。
(ああ、そっか…そうだね…)
これから告げられるんだった。
引き受けたからには、筋はちゃんと通す人なんだ。
…きっと《もう終わりにしよう》そう告げられるんだ。
翔真さんの身体からは、今日もほんのりと香水の香りが漂う。
前に感じたのと同じ香り。
それが、不特定の人ではなく、一人の女性のものであることを明らかに認めるしかない…
きっと翔真さんが大切にしてる人。
誰かに大切にされている人。
翔真さんの温もりを知っている人。
何故か胸が酷く痛んだ。
ポロリと自分でも予想外の涙が溢れて眉を寄せる。
(ダメだ…。)
その様子に目を見開いた翔真さんは真剣な顔で私を覗き込んだ。
「麻衣子……? 何だ? どうしたってんだ? 何か言いたい事があるんなら言ってみろよ?」
そう問われた。
言いたいこと…。
欲しいもの…。
失くしたくないもの…。
泣きたくなった私は、翔真さんの肩にギュッと爪を立てて、一つだけ強請った。
もう、私にはこれしかないから。
「……せっ、精子をください!!」
その言葉に翔真さんは再び目を見開き複雑に顔を歪め
た。
「ほんとお前って奴はよ…」
顔を歪めて呆れたような翔真さん。
何故かもう一度、私のパソコンを見つめて苦々しい表情をした翔真さんは私に向き合った。
「なぁ、麻衣子…」
私をみつめる薄褐色の瞳。
やっぱり、もうこんな生活限界だって……
そう思っているのだろうか。
お付き合いしている人に知れてしまって、止めざるを得ない状態になっているのかもしれない。
「………………」
続きを聞くのが怖かった。
どれくらいそうしていただろう。
涙目でみつめる私の瞳を捕らえたまま、翔真さんは、迷うように少し息を吐き口を開いた。
その瞬間、吐息と共に小さなボヤキのような声聞こえたのは気のせいだろうか。
「ちっ、こんなもん物色しやがって…」
そう聞こえただろうか…。
酷く温度の無い声と共に睨みつける翔真さん。
こんな調子の翔真さんは初めてだ。
「……お前が欲しいのは、誰の精子だ?」
「は…?」
「だ・か・ら、麻衣子さんが欲しいのは、この俺様の金の精子ですか?それともこいつらの普通の精子ですか?って聞いてるんだよ?」
その問いかけに私は、目を見開いた。
(そんなの決まってる…、でも…)
私は、顔を歪めた。
翔真さんの精子が欲しい。
それでも、この状況は…。
「これ、普通なら、普通の精子選んだら、幸せになれるやつですよね…?」
そう警戒する私。
「ま…まぁ、普通ならな…」
そうちょっとシマッタって顔を取り繕えていない翔真さん。
でも、私は泣きそうになった。
この時、目を背けてきた不毛な気持ちを突きつけられたのだ。
もう、代わりになる人を探すと言う選択肢すら失っていたのはいつからだろう。
その理由ももう分かっている。
「言えよ………」
そう翔真さんは、真っ直ぐに私を見つめた。
その有無を言わせない目力はやはり今までの翔真さんにはないものだった。
「なぁ、麻衣、言えよ………」
その真剣な目から目を離せない私はただ固まっていた。
「もし………、誰の精子でもいいってお前が言うんだったら、俺は今日で降りる。」
その言葉に突き放されたような心細さと絶望を感じた。
「……翔真さん」
繋ぎとめようと懸命に目の前にいる男の名を口にした。
「………、麻衣子、でも、もしも、もしもお前が、他の誰でもなく俺の子供が欲しいっていうんだったら、それが、どんな理由だって俺はもう構わない。」
翔真さんのその言葉の意味が咄嗟に分からなかった。
「………翔真さん?何を?」
そう呆然としていた私は次の瞬間、唇を翔真さんの唇で塞がれて固まった。
(なに…これ?)
パチパチと目を瞬かせて翔真さんを見上げる。
意味が分からなかった。
(今のは、キス?)
でも、そうは思えないほど翔真さんの顔は険しい。
「もし俺の子供が欲しいって言うんだったら麻衣子、このままぶち込む、…そうじゃないなら今拒め」
そう言って、ジッと見つめられる。
(ぶっ……!? い、今、なんと言われましたでしょうか…?)
キスに続く驚きでケヒョケヒョとせき込んだ。
だが、容赦しない薄褐色の瞳は私を睨みつけたままだった。
「……拒んだら、そこで終わりだ麻衣子。よく考えて、今すぐ答えをだせ!!」
(へ……? それ、よく考えるって言うんですか??)
この現実が恋愛経験&人工授精経験ゼロの私には全くもって分からない。
だから、恐る恐る、眉を寄せて問い返した。
「拒まなかったら……?ほんとうに…?」
「くどいぞ、直接注ぐまでだ!その方が効率がいいだろう?」
(効率……?)
確かに……
そう目から鱗が落ちたように納得した。
今までの失敗は私が下手だったかもしれない……。
もしも、これが最期のチャンスならば………。
その時、私の心はあってはならない欲に流されそうになった。
決して誰とも直接交渉を持とうなんて考えてはいなかったのに……。
でも、もしもその相手が翔真さんなら……
私が感じていた抵抗など一部も無かった。
でも、それとは別に確かな恐れがあった。
(そんなことが、許されるのだろうか……)
それでは、私は翔真さんを……
縛り付けてしまうかもしれない。
本来、翔真さんが感じる必要すらなかった罪悪感のような消えないなにかを背負わせてしまう事にはならないだろうか。
そう考えた時、やはりそれは許されないと思った。
翔真さんには翔真さんの大切にしければならない世界が存在するはずだから。
「そういう訳だからよ、麻衣子、……俺の精子が欲しいなら相応の覚悟がいるぞ」
そう言って挑むように翔真さんは唇の端を挙げた。
見たことのない、妖艶な笑み。
(お金……ですか??金の精子だから…?)
当初、提示した精子譲渡のお礼としての金額は拒否されていた。
その代わり、子供がもし父親に会いたいと言ったら連れてこいと……
そんな、私にだけ都合がいい理由で引き受けてくれたのが始まりだった。
でも、それでは割に合わないくらいの精神的苦痛を与えていたとしてももはや否定できない。
でも次の瞬間、少しだけ頬を緩めて、困ったように紡ぎだされた言葉を私は咄嗟に理解できなかった。
「出来た子供は、…俺のもんだからな」
その言葉に目を見開いた次の瞬間、更に予期せぬ言葉を聞いた。
「まぁ、俺も鬼じゃねえから、母子共にだけどな…」
そう言って、小さく笑う翔真さん。
でもその笑顔にはいつもの余裕が感じられなくて、どこか引き攣り笑いのように見えて……
身体中に困惑が駆け巡った。
------これは本気?
------それとも、同情??
そう思い、冷静に考えるならば後者だと悟る。
それならば、こんな提案に甘えてしまう訳にはいかない。
「翔真さん……、なんで?」
そう聞くのが精一杯だった。
「あー、そりゃあ、まぁ…なんだ? 俺もよ、そこまで高尚な気持ちで人助けできなかったってことだな…」
「人助け……ですか?」
思っても見ない事を言われて素っ頓狂な声を上げた。
「まぁ、結局、俺は口程にもない我儘な男だったってこった…」
そう言って、悪戯が見つかった子供のように気まずそうな顔をして後頭部を掻く翔真さん。
「我儘…?」
意味が判らない。
そんな私から、目を逸らすようにして、言葉を続ける翔真さん。
「あぁ、……俺のもんは、やっぱり俺のもんだろ?…ついでに、お前のもんも俺のもんだ!?」
「へ………?」
それって、某国民的アニメに出てくるあれですよね……??
戸惑う私に、開き直ったように真っすぐに向き合う翔真さん。
対して、私は現状も掴めず、呆然自失の状態だ。
「……と言うわけだ」
「どういう……訳ですか?」
ジッと見つめられる。
大きな手が私の肩を掴んで、上から私を見下ろす。
そして、一変したように、熱を帯びた真剣な顔で私に命じるように告げた。
「拒めよ……、麻衣子、俺がいらねえんなら、拒んじまえよ。…まだ俺の理性があるうちにな」
そんな言葉とは裏腹に、そのままギュッと抱きしめられた肩は、もはや逃げる隙すらも与えられない程に強く抱きしめられていた。
「翔真さん……?」
意味が分からなかった。
何故、こんな事になっているのか。
身体が震える。
でも、それ以上に心が震えた。
(欲しいって思ってくれたのだろうか…。私と、2人に授かるかも知れない子供を…?)
こんな時でも気の利いたことの一つも言えない私は、自らの思いをそのまま縋り付くような大きな声で伝えた。
「く、下さい! 翔真さんの精子!」
その言葉に私を抱きしめる翔真さんの肩がピクリと震えた。
その瞬間二ッと悪い笑みを浮かべた翔真さんに再び唇を塞がれた。
そして、下腹部に固くて熱いなにかをハッキリと感じて目を見開いた。
だけど、次の瞬間耳元で囁かれた声は、今までに聞いたことのない程優しい声だった。
「言ったな……。麻衣子、今更訂正しても、もう遅いからな。」
そう言って軽く耳を食まれた。
「ひゃ!!」
背中に一気に痺れが走る。
(な……なに、これ……?)
戸惑う私を可笑しそうに、目を細めて笑った翔真さん。
「いいか、共同責任だからな……」
そう言って頰を両手で包むようにして再び、優しく口づけられて深く深く舌を絡ませる。
違いの口から水音が響き、身体と心が蕩ける。
(嘘………)
突然の現実に付いていけない。
口内の至るところを優しくしたでなぞられて腰が砕けそうになる。
キスの威力の凄まじさに恍惚としていると、フッと優しい瞳と瞳が合わさった。
「鼻で息しろよ……、お前真っ赤」
そう言って、頭を撫でられる。
甘やかされる心地良さは知っているつもりだった。
随分それに飢えていたことも自覚してきた。
でも、今、翔真さんから与えられている心地良さは、心地良さでも今までの人生にない始めてのものだった。
父でも、母でも、兄でもない初めての感覚。
キュンと疼く下腹部がそれを家族に対するものとは違う事を知らしめる。
家族としてではなく、今、私は目の前の翔真さんを欲している。
きっと〝ヒト科メス″としてなのだと自己分析する…。
それは確かなのに、なぜかそこに焦燥感が芽生えて、矛盾した欲望を感じた。
家族だと……
やはり、そう思えるほどに、ずっとずっと近くにいて欲しい。
失いたくない。
……どこにも行ってほしくない。
「好き………」
そう無意識に呟いた言葉に翔真さんは大きく目を見開いた。
暫くの沈黙の後、翔真さんの瞳は優しく細められて、強く抱きしめられた。
「そうかよ……。じゃあ、もう何も心配いらないな、俺に任せろ。」
そう言って、翔真さんに支えられるように私達は畳に倒れこんだ。
その瞬間、仏壇から、兄の写真がカタンと転がり落ちた。
それを手にして苦笑した翔真さんは、気まずそうに笑って言った。
「……大丈夫だよ、心は決まってんだ。きっと幸せにするから、今は目をつぶれ」
そう言って、写真を伏せて私を見下ろした。
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